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 旧川和富士のこと  ふくちゃん  2021年10月10日(日) 16:19 [修正]  mikan  2023年4月29日(土) 14:26
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mikan さま、旧川和富士と川和富士公園の情報ありがとうございました。
私も旧川和富士が消滅するときに、何とか川和富士を残したいと地元の方々が運動をされ、当時の飛鳥田横浜市長に直訴した話などを、30年ほど前に都筑区に転居した時に取材したことを思い出します。
川和富士公園に来られた方は、昔の川和の富士塚を偲んで欲しいと思います。

2021年10月10日(日)作成 ふくちゃん

 横浜市三千分一地形図 横浜市  mikan  2021年10月7日(木) 22:07  mikan  2023年4月29日(土) 3:52
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横浜市三千分一地形図 横浜市 - つみかさね
http://3yokohama.hatenablog.jp/entry/2021/10/07/220025

横浜市も開発が進み随分変わってきています。特に港北ニュータウンなどは昔の地形までも変わって偲ぶよすがもなくなっています。そこで参考になる地図です。今昔マップより鮮明に見ることが出来る地図です。

横浜市三千分一地形図(昭和30年代)
横浜市三千分一地形図(昭和初期)

横浜市三千分一地形図 横浜市
http://is.gd/mxrMZm

2021年10月7日 作成 mikan

 米倉家大名への道    mikan  2023年4月25日(火) 16:13
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米倉家の大名への道
http://princeyokoham.sakura.ne.jp/smf/index.php?topic=36573.0

米倉丹後守昌尹は横浜市で唯一の大名米倉家の中興の祖です。この米倉家というのは武田信玄の家臣団武川衆の一員で武田氏滅亡後、徳川家康の家来になった。この米倉家の石高は米倉丹後守昌尹が家督を継いだときは600石、そして亡くなった年に15,000石の大出世している。

その同時代に武川衆の一員で柳沢吉保が家督を継いだときには530石、隠居する前には15万1200石の大名となる。米倉の出世と柳沢の出世が同時期に起こっている。どうも柳沢の力によって米倉家も引き上げられた感じがする。柳沢吉保引退後には柳沢経隆(六男、四男とも言われている)が養子に入って米倉忠仰(六浦藩(金沢藩)米倉家4代。と名乗る。
下に出世した人を参考に探してみると田沼意次、新井白石等があるが、米倉の出世は異例のモノであることが判る。

田沼意次は享保20年(1735年)に父の遺産600石を継いだ600石の旗本から5万7000石、最後は没収。

新井白石は元禄6年(1693年) 40人扶持 甲府徳川家(米200俵、40石)
宝永6年(1710年)側用人 白石の身分は500石取り(のち正徳元年に1000石に加増)
「武士一人1日標準生計費用を米5合と算定して1ヶ月に1斗5升、1年間1石8斗、俵に直して、米5俵を支給することを一人扶持という。


武家家伝_武川衆
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/takeka_g.html

武川衆の一員であった、柳沢氏は、将軍綱吉の時代に至って、大飛躍を遂げることはよくしられている。すなわち、元禄時代の側用人として十五万石の大名にまで昇りつめた、柳沢吉保が大飛躍の人であった。子孫は、大和郡山に移封されて幕末まで存続した。また、米倉氏も、後世、一万五千石の大名に出世している。

米倉 忠仰(よねくら ただすけ)は、江戸時代中期の大名。下野国皆川藩4代藩主、武蔵国六浦藩(金沢藩)初代藩主。六浦藩米倉家4代。官位は従五位下・丹後守、主計頭。
宝永3年(1706年)2月1日、5代将軍・徳川綱吉に側用人として仕えた柳沢吉保の六男として誕生(一説には四男とされているが、四男は柳沢経隆)。

宝永7年(1710年)7月18日、皆川藩3代藩主・米倉昌照の養子となり、正徳2年(1712年)に昌照が死去したために跡を継いだ。

享保元年(1716年)9月1日、8代将軍・徳川吉宗に拝謁し、享保5年(1720年)12月18日に叙任する。享保7年(1722年)7月27日に六浦(金沢)へ移封となる。

享保20年(1735年)閏3月23日、出仕停止を命じられる。病床にあった忠仰は、長男・里矩の年齢を3歳から9歳に修正する報告を行った。幕府はこれを咎めたのである。実は虚偽の報告であり、忠仰死後に判明することになる。同年4月8日、死去。享年30。

跡を里矩が継ぐが、生前に忠仰が里矩の年齢を詐称していたことから、お家騒動が起こった。

米倉丹後守昌尹

寛永14(1637) 米倉丹後守昌尹生まれる
貞享1(1684) 昌尹(48):米倉家相続(600石),書院番士
元禄3(1690) 昌尹(54):500石加増,従五位下丹後守
元禄5(1692) 昌尹(56):側衆,1000石加増
元禄7(1694) 昌尹(58):1000石加増
元禄8(1695) 昌尹(59):1000石加増
元禄9(1696) 昌尹(60):若年寄,1万石
元禄12(1699) 昌尹(63):下野皆川1万5000石転封,卒

柳沢吉保

延宝8年(1680年)、館林藩主の綱吉が兄である4代将軍徳川家綱の将軍後継として江戸城に入ると、綱吉の家臣である吉保も幕臣となる[1]。同年11月3日に吉保は小納戸役に任ぜられる

天和元年(1681年)4月25日には300石を加増され、830石となる

同年6月3日に吉保は綱吉の学問上の弟子となり、7月11日には江戸・市ヶ谷から愛宕下に居を移す[1]。同年12月20日には生母の了本院を江戸へ引き取っている。


天和2年(1682年)4月21日には従六位下となり、布衣を許されている[1]。天和3年(1683年)1月11日には200石を加増されて1030石となる

同年6月25日には、義兄の信花が江戸城西の丸前において高橋源大夫と喧嘩し、殺害される事件が起きている


貞享元年(1684年)8月21日には邸を江戸・愛宕下から西の丸邸へ移転する[1]。貞享2年(1685年)12月10日には従五位下・出羽守に叙任している[1]。貞享3年(1686年)1月11日には1000石を加増され、2030石となる

吉保の生母・了本院の侍女としてつき従っていた飯塚染子は貞享2年(1686年)頃に吉保の側室となり、貞享4年(1687年)9月3日には吉保の嫡男・吉里を生んでいる[1]。同年9月18日には父の安忠が死去する

元禄元年(1688年)6月10日、西の丸下から一橋内の屋敷に移る。同年11月12日、小納戸上席より将軍親政のために新設された側用人に就任する[注釈 2]。禄高も1万2000石とされて大名に昇る。

元禄3年(1690年)3月26日に2万石を加増され、同年12月25日に従四位下に昇叙する。出羽守如元。

元禄4年(1691年)2月3日に常盤橋内に屋敷を拝領し、同年3月22日に将軍綱吉が柳沢邸に御成を行う。以来、綱吉は58回に及ぶ吉保邸への御成を行なっている。

元禄5年(1692年)11月14日に3万石を加増される。

元禄7年(1694年)1月7日に石高7万2000石とされ、武蔵国川越藩主(埼玉県川越市)となる。同年12月9日には老中格と侍従を兼帯する

同11年(1698年)7月21日、大老が任ぜられる左近衛権少将に転任する

元禄7年(1694年)1月7日に1万石を加増され、川越城を拝領する

翌元禄8年4月21日に駒込染井村の前田綱紀旧邸を拝領し、後にこれが六義園となる

元禄10年(1697年)7月1日には、綱吉から徳川将軍家の菩提寺である寛永寺(東京都台東区上野桜木)の根本中堂造営の惣奉行を命じられる[5][6]。寛永寺根本中堂は元禄11年(1698年)8月2日に落成し、吉保は8月9日に日光輪王寺宮の公弁法親王を屋敷へ招き、7月21日には根本中堂造営の功績により左近衛権少将に叙任され、席次も老中の上となった[6]。8月11日には勅使を迎えて根本中堂の上棟式を行っている

元禄13年(1700年)から翌元禄14年にかけて、吉保は武田信玄の次男・龍芳(海野信親)の子孫とされる武田信興を将軍綱吉に引きあわせ、高家武田家の創設に尽力する[7]。高家武田家は柳沢家から何度か養子を迎えている


元禄14年(1701年)11月26日に吉里とともに将軍綱吉から松平姓および「吉」の偏諱を与えられ、松平吉保と名乗る。同時に出羽守から美濃守に遷任した[8]。翌元禄15年7月12日、吉保邸が火災に遭い家財を焼失し、吉保自身は家臣薮田重守邸に避難する。翌元禄16年8月26日、幕府奥絵師狩野常信に肖像を描かせ、自賛を記している。


翌宝永元年(1704年)12月21日、綱吉の後継に甲府徳川家の綱豊が決まると、綱豊の後任として甲斐国甲府城と駿河国内に所領を与えられ、15万1200石の大名となる

翌宝永2年(1705年)1月15日には国替に際した家中禁令を改定している[10]。同年2月19日の甲府城受け取りは家臣の柳沢保格・平岡資因らが務めている[10]。3月12日、駿河の所領を返上し、甲斐国国中3郡(巨摩郡・山梨郡・八代郡)を与えられる[9][10]。吉保が拝領した15万石余の石高は表高であり、実際には内高を合わせて22万石余を有していた


宝永6年(1709年)2月19日(3月29日)、将軍綱吉が薨去したことで、幕府内の状況は一変した。代わって新将軍家宣(綱豊)とその家臣である新井白石が権勢を握るようになり、綱吉近臣派の勢いは失われていった。同年5月28日に吉保は隠居を出願し、6月3日に吉保は隠居し、吉里が柳沢家の家督を継承した


享保9年(1724年)3月11日に吉里は大和国郡山への転封を命じられ、永慶寺の大和郡山移転に伴い同4月12日に吉保夫妻の遺骸は恵林寺(甲州市塩山小屋敷)へ改葬され、現在まで恵林寺が吉保の墓所となっている。










2020年9月日(土)作成

 特別講演 交流する横浜「日本史の中の横浜」  星の王子  2023年4月21日(金) 18:04
修正
わがまち横浜再発見 ヨコハマ3万年の交流
特別講演 交流する横浜「日本史の中の横浜」

横浜市ふるさと歴史財団8施設連携企画の一環として同財団の理事長五味文彦氏の特別講演会を聞きに行ってきました。五味文彦氏は「中世が専門」東京大学名誉教授、放送大学教授、横浜市ふるさと歴史財団理事長、『中世のことばと絵』でサントリー学芸賞受賞、『書物の中世史』で角川源義賞受賞、著書多数。

聴講メモです
「開港の歴史的位置」ということで、最初は難波の津(大阪・大和)、博多の津(8世紀 奈良・京都)、兵庫の津(15世紀 京都)、長崎(17世紀 江戸)、横浜(19世紀 東京)というみなと横浜はこんな位置づけになる。では横浜地域は19世紀まで何もなかったのか?いやそうではない。

ここで五味文彦氏の歴史のとらえ方を披露。古代・中世・近世・近代という分類方法はおかしいのではないか?もっと細かく分類してみないと歴史を捉えないと判らない。中世800年ではおおざっぱすぎる。特徴を捉えられない。そこで氏の分類方法、100年をひとつの単位にして規定し直すと見えてくる。ひとつの政治・文化は100年毎に関連を持ちながら変化していると考える。

そこで1968年明治維新・国民国家・市民を起点に100年で過去に遡っていくと,667年天智称制・律令体制・制度化、866年摂政藤原良房・摂関政治・風景、1167年平清盛太政大臣・武家政権・身体、1268年蒙古の国書到来・東アジアの世界の流動・職能等、それぞれの100年に特徴的なキーワードで理解すると判りやすいのではないか。ということで年表を提示して説明。

古文書も大切ではあるが、それにとらわれると誤ってしまう。伊勢日記とか竹取物語とか文学からその当時の空気を感じる。捉える。文学はその時代を著している。時代の要請がなければ存在しない。しかし古文書として残っているのは一つの考え方、例。それも特異な例かもしれない。徒然草、古今和歌集等大勢の人に読まれた物にその時代のヒントが隠されている。

日本という一つの国が独自でそのままだったら成長も発展もなかった。そこには交流があったはず、そして国内においても西と東の交流があった。古墳時代の前方後円墳は巨大な古墳、それは何故作られた。一つの象徴(シンボル)として作られた。だから仁徳天皇陵が日本で一番大きい、古墳の大きさで支配関係と考えてはいけない。交流があったことで鹿児島県から宮城県あたりまで交流があったと考えるべき。一番大きい古墳の首長が全ての豪族を支配していたのではない。この古墳と同じように考えていいのは近世の城、これもシンボルとしてつくられたもの。近世的な城は南は薩摩藩、北は松前藩まで。これも交流と考えればいいのでは?

交流の場として「海岸地域と内陸地域の交流」「上野から武蔵への動き・武蔵の国造・屯倉」「東海道の形成・中央との交流」ということで相模国、武蔵国の国造ら豪族の支配領域が700年前後に決まった。青葉区荏田西の長者原遺跡(都筑評)、川崎市宮前区の影向寺遺跡(橘樹評)、天武天皇の時代の「諸岡五十戸」の木簡。など律令体制時代の武蔵国の交流を説明。

その後の歴史をいろいろな証拠を挙げながら、869年の貞観11年の地震と大津波、その後の878年関東諸国に起こった大地震、その後富士山の噴火で関東にも大きな影響を与えて人心動乱、都で摂関政治(今までは天皇家が一族でそれぞれの役目を担ってきた。摂関政治とは天皇家以外のものが政治に関わってきたという画期的なこと)で荘園の整理、受領による支配が関東にも及ぶ。10世紀頃

そして武士団の形成と、鎌倉幕府(鎌倉中)における武蔵の国(南部=横浜市)は首都圏だった。中心部鎌倉を支援する地域、四方八方に鎌倉街道(いざ鎌倉に備えて)が整備されている。鎌倉幕府の領域(中)は西が相模川、東が多摩川、その範囲にある地域が首都圏。
古今和歌集の編纂で有名な藤原定家の子孫は二条家、冷泉家、京極家と別れたが、冷泉家は鎌倉幕府(武家)についたことで生き残ることが出来た。建長寺というのは年号「建長」から取られた寺院。東国では珍しい命名。鎌倉がそれだけ勢力があったことか?

などなど興味ある話題が一杯の面白い講演でした。歴史好きには興味の持てる話題でした。また氏の歴史観が非常にユニークです。歴史の専門家、考古学者、文学者からは異端者と思われているかも。でも視点が素直で誠実があると思います。学者馬鹿でひとつの専門の中で理屈ばかりを捏ねている人たちにとっては苦手な人ではないかと思います。

中世から出てきた職人、家職、職能の形式化、型などが現在にもかなり影響を与えている。武士はこうあらねばならない。それぞれの職の専門化によって、がんじがらめになって来た歴史も理解出来るような気がする。しかしそれも100年を単位にみればその弊害が批判され、また改善される。少し長い目でみるとそれなりバランスを持って修正されながら歴史が流れてきたのかもしれない。

ただ「日本史の中の横浜」という視点で見ると五味文彦氏も困っていられたのか?時代で何とか横浜を考え、紹介したいのであるけれどあまりにも断片、小さな事柄しか見つからず、段々五味文彦氏の得意な古典、文学、中世の雑談の方に行ってしまう。それを何とか横浜に軌道修正を試みながら話しておられたように思う。横浜にこだわらない歴史の話をもう一度聞いてみたい気がしました。「日本史の中の横浜」という本を近々出されるようなので読んでみたい。五味文彦氏のことは初めて知りました。でも有名な方で、会場は一席の余地もない満員の聴講者でした。また講演の2時間があっという間に過ぎしてしまった。有意義なひとときでした。ちなみにタイトルの3万年は横浜市最古の石器(都筑区北川貝塚東地点出土)が発掘された。その地層の年代が28000年前とか。

この講演の参加料は500円でしたが、この企画を連携している有料の3施設(横浜市歴史博物館・横浜都市発展記念館・横浜開港資料館)への入場券(招待券)が資料と一緒に入っていました。早速同じビルにある横浜都市発展記念館(ハマを駆ける クルマが広げた人の交流&常設展)・横浜ユーラシア文化館(常設展)にも行ってみました。どちらも初めての所です。こんなところがあったのだ。


特別講演 交流する横浜「日本史の中の横浜」
日時:平成26年7月18日(土)14:00〜16:00
講師:五味文彦(横浜市ふるさと歴史財団理事長)
会場:横浜情報文化センター6階
定員:200名

公益財団法人 横浜市ふるさと歴史財団
http://www.yokohama-history.org/

2015年7月19日(日)作成

 西条八十  星の王子  2023年4月21日(金) 18:02
修正
西条八十 | つづきの魅力!
https://www.city-yokohama-tsuzuki.net/info/?page_id=1034
西条八十と都筑区についての資料です

2015年3月7日(土)作成

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