剣神社(つるぎ)
由来 鎌倉時代、ここのそばを鎌倉街道が通じていた。その頃、奥州の炭焼き夫が毎年、馬の背に炭をつけて、はるばる鎌倉の刀鍛冶に届けていた。非常に良質な炭なので、お陰で名刀が鍛えられると喜んで、一振りの直刀を贈った。炭焼き夫は喜んで、懐中深くしまって帰途についた。ちょうどこの丘の裏側、人里離れた泉谷(いづみやと)にさしかかったところ、暑さは暑いし、道中の疲れもでて小川のほとり、老松の木陰で眠り込んだ。そのとき松の梢に潜んでいた大蛇が、よき獲物とばかり、眠りに落ちた炭焼き夫を一呑みにと襲いかかった。 間一髪、懐から抜け出た直刀が、その大蛇のノドをさし、大蛇はのたうちまわってたおれた。九死に一生を得た炭焼き夫は、これぞ宝刀と、恐懼して現在地に祀った。それから里人の尊崇の的となった。
その後、こんな話も伝えられている。荏田の剣神社の神様と、元石川の神様の領土争いから不仲となった。剣神社の神様が宝剣をひっさげ、元石川の神様を追い詰めた。元石川の神様は狼狽して。丘の中腹まで飛び上がって難を逃れた。それからこの神社は、驚神社と呼ばれ、元石川の現在の鎮守さまである。 また一説には、元石川は万葉の頃から石川の牧(今のたまプラーザ駅一帯)と呼ばれ、良馬を飼育して朝廷に献じていた。当時里人は、馬を家族の一員とし、敬愛の心をもって生活していたので馬を敬う神、つまり驚神社だという。どうも後者の方が正しい見方らしい。
「都筑が丘」松沢由貞著より
2014年1月1日(水)作成 |
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