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  日本全国の国分寺跡48ヵ所マップ  星の王子  2016年3月20日(日) 21:10 [修正]  星の王子  2023年4月30日(日) 21:51
修正
日本全国の国分寺跡48ヵ所マップ
http://pasopia.velvet.jp/nota2/nota/?20160308234418
奈良時代、741年聖武天皇が国分寺・国分尼寺建立の詔を発する。その後752年大仏開眼供
養。全国に国分寺国分尼寺が建立された。その跡48ヵ所のマップです。武蔵国には府中市、
相模国は海老名市にありました。

  2016年3月20日(日)21:10 作成 星の王子

 旧川和富士  ふくちゃん  2021年10月10日(日) 15:42  Mail [修正]  ふくちゃん  2023年4月29日(土) 21:38
修正
mikan さま、旧川和富士の位置の情報ありがとうございました。
私も30年ほど前に、昔の地図と当時の地図で調べたことがあります。
当時は、縮尺を合わせてセロファン紙にコピーをして2枚合わせて位置を確かめました。

今は、グーグルマップがあって便利ですね。
北緯:35.534度、東経:139.555度の「神奈川ダイハツ販売港北ニュータウン店」のところに富士塚(旧川和富士)があったようです。

緑道「ゆうばえの道」を案内するとき「ゆうやけ橋」で旧川和富士の位置を説明します。

 川和富士の昔の旧川和富士の位置は?  mikan  2021年10月9日(土) 14:14 [修正]  mikan  2023年4月29日(土) 21:08
修正
川和富士公園の川和富士は昭和61年、現在の形になっていますが、古い富士塚は何処にあったのでしょう。昭和30年代の地図、現在の地図重ね合わせて位置を探しました。「区役所通り」のゆうやけ橋を本の少し、川和町駅に行ったところです。

北緯:35.534度、東経:139.555度

旧川和富士のこと - つみかさね
http://3yokohama.hatenablog.jp/entry/2021/10/07/1406
2021年10月9日(土)14:1作成作 mikan

 川和の歴史  2018年1月27日(土) 11:01 [修正]  mikan  2023年4月29日(土) 20:51
修正
書名:川和の歴史
著者:横浜市立川和中学校 
発行所:横浜市立川和中学校
発行年月日:1983/2/26
ページ:165頁
定価:非売品

1980年創設の川和中学校が3周年を記念して、1983年「川和の歴史」を発行した。この地域は港北ニュータウンの計画、実行が間近に迫っていたため、過去の歴史の大切を知らせる意味でも、重要なことであった。川和富士も旧場所から、新しい場所へ。花見山遺跡も発掘されたばかりで成果が見えてきた頃、都筑の郡衙はまだ位置が確定していない時代。時代の変遷と共に川和の歴史が書かれている。また古文書の釈文などが多用されていて、中学生には難しい内容になっている。でも信田家文書、城所家文書、横溝家文書、岩沢家文書など引用している。特に信田家の「信田日記」(幕末から明治の初めまで)は当時の生活の様子がよくわかる。また川和は増上寺領であったから増上寺とのやり取りの古文書がたくさん残っている。

ちょっと以外に思ったのは川和富士信仰、比較的新しくて明治になってからの事。幕末に川和富士を作る話が出て明治20年代までかけて塚を築いたとのこと。(旧川和富士:今より400m程離れたところ)江戸時代の富士山信仰の頃だとばかり思っていた。港北ニュータウンの開発と共に新しい発見が続々と出てきている。歴史に興味を持つきっかけになる本です。

1977年9月に川和高校の東側で花見山遺跡が発見され、1300点もの遺物が見つかった。 これにより1万年以上前から人々が生活していたことが判明した。

中世は武蔵国都筑郡の川和郷であった。戦国期にこの地を所領したのは北条綱成であるとされる。記録には、農民が借米をめぐって訴え、最終的には後北条氏の評定衆が借米の催促を命じたとある。後北条氏はこの地に勢力を伸ばすと、小田原城を守り関東進出の拠点とするため、廃城と化していた小机城(今の港北区小机町)を修復。この城の支城として鶴見川沿いに川和城が整備された。川の合流する川和は交通において重要な地であった。

江戸時代になると都筑郡の川和村(川輪村)となった。土地は増上寺領。家数は133軒という記録がある。後期には神奈川宿の助郷村(人馬を提供する助郷を負担する村)となる。

明治になると、1879年都筑郡役所が下川井から川和に移転して置かれ、以後は周辺地域の政治経済の中心地として栄えた。

川和の由来は武蔵七党の猪俣党の河匂氏から来ているのか?河匂・川匂・川輪・川和など。河匂氏の出身地といわれているところは中郡二宮町川匂神社付近、久良岐郡河匂郡の2カ所です。

旧川和町の沿革
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、川和村、佐江戸村、池辺村、東方村、折本村、大熊村、川向村および本郷村の一部が合併して都田村が発足。
1934年(昭和9年)4月1日 - 都田村が改称して川和村となる。
1935年(昭和10年)9月30日 - 川和村が町制施行して川和町となる。
1939年(昭和14年)4月1日 - 横浜市に編入。
10月1日 - 旧川和町域が港北区の一部となる。
1994年(平成6年)11月6日 - 港北区の再編により、旧川和町域が都筑区の一部となる。

都田の由来は、都筑郡の「都」と田園地帯であったことから「田」を採ったものである。
本来は「都筑村」を名乗る予定であったが、下川井村等の合併村も「都筑村」を名乗るべく準備していたため、村名を巡る争いになった。結局丘陵地帯であった方が都岡村(「都筑の岡」の意。現在の横浜市旭区)、田園地帯であった方が都田村を名乗ることで収拾した経緯がある。大字川和の当時の人口630人。乳牛や養豚が盛んで、大正時代には川向のモモなどの栽培も盛んに行われた。

2018年1月27日(土)11:01 作成 mikan

 ぜひ拝見したいのですが  ますだ  2021年10月11日(月) 8:20  Mail [修正]  ますだ  2023年4月29日(土) 20:38
修正
Milanさん
以前、川和中学校のPTA会長をしていたのですが、この様な文書がある事は知りませんでした。
たぶん現職の職員さん達もご存知ないかと思います。
川和町の成り立ちについては以前から興味を持っていましたが、文献も少なく以前から住んでいた人から話を聞くくらいしか手立てがありませんでした。
「川和の歴史」という本、大変興味があります。
もしお持ちであれば見せていただく事は可能でしょうか。
可能であればテキストデータにして残しておきたいなと思った次第です。

   2021年1011日(月)作成 ますだ

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