米倉家の大名への道 mikan 2020年9月5日(土) 15:04 [修正] mikan 2023年5月9日(火) 5:22 |
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米倉丹後守昌尹は横浜市で唯一の大名米倉家の中興の祖です。この米倉家というのは武田信玄の家臣団武川衆の一員で武田氏滅亡後、徳川家康の家来になった。この米倉家の石高は米倉丹後守昌尹が家督を継いだときは600石、そして亡くなった年に15,000石の大出世している。
その同時代に武川衆の一員で柳沢吉保が家督を継いだときには530石、隠居する前には15万1200石の大名となる。米倉の出世と柳沢の出世が同時期に起こっている。どうも柳沢の力によって米倉家も引き上げられた感じがする。柳沢吉保引退後には柳沢経隆(六男、四男とも言われている)が養子に入って米倉忠仰(六浦藩(金沢藩)米倉家4代。と名乗る。 下に出世した人を参考に探してみると田沼意次、新井白石等があるが、米倉の出世は異例のモノであることが判る。
田沼意次は享保20年(1735年)に父の遺産600石を継いだ600石の旗本から5万7000石、最後は没収。
新井白石は元禄6年(1693年) 40人扶持 甲府徳川家(米200俵、40石) 宝永6年(1710年)側用人 白石の身分は500石取り(のち正徳元年に1000石に加増) 「武士一人1日標準生計費用を米5合と算定して1ヶ月に1斗5升、1年間1石8斗、俵に直して、米5俵を支給することを一人扶持という。
武家家伝_武川衆 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/takeka_g.html
武川衆の一員であった、柳沢氏は、将軍綱吉の時代に至って、大飛躍を遂げることはよくしられている。すなわち、元禄時代の側用人として十五万石の大名にまで昇りつめた、柳沢吉保が大飛躍の人であった。子孫は、大和郡山に移封されて幕末まで存続した。また、米倉氏も、後世、一万五千石の大名に出世している。
米倉 忠仰(よねくら ただすけ)は、江戸時代中期の大名。下野国皆川藩4代藩主、武蔵国六浦藩(金沢藩)初代藩主。六浦藩米倉家4代。官位は従五位下・丹後守、主計頭。 宝永3年(1706年)2月1日、5代将軍・徳川綱吉に側用人として仕えた柳沢吉保の六男として誕生(一説には四男とされているが、四男は柳沢経隆)。
宝永7年(1710年)7月18日、皆川藩3代藩主・米倉昌照の養子となり、正徳2年(1712年)に昌照が死去したために跡を継いだ。
享保元年(1716年)9月1日、8代将軍・徳川吉宗に拝謁し、享保5年(1720年)12月18日に叙任する。享保7年(1722年)7月27日に六浦(金沢)へ移封となる。
享保20年(1735年)閏3月23日、出仕停止を命じられる。病床にあった忠仰は、長男・里矩の年齢を3歳から9歳に修正する報告を行った。幕府はこれを咎めたのである。実は虚偽の報告であり、忠仰死後に判明することになる。同年4月8日、死去。享年30。
跡を里矩が継ぐが、生前に忠仰が里矩の年齢を詐称していたことから、お家騒動が起こった。
米倉丹後守昌尹
寛永14(1637) 米倉丹後守昌尹生まれる 貞享1(1684) 昌尹(48):米倉家相続(600石),書院番士 元禄3(1690) 昌尹(54):500石加増,従五位下丹後守 元禄5(1692) 昌尹(56):側衆,1000石加増 元禄7(1694) 昌尹(58):1000石加増 元禄8(1695) 昌尹(59):1000石加増 元禄9(1696) 昌尹(60):若年寄,1万石 元禄12(1699) 昌尹(63):下野皆川1万5000石転封,卒
柳沢吉保
延宝8年(1680年)、館林藩主の綱吉が兄である4代将軍徳川家綱の将軍後継として江戸城に入ると、綱吉の家臣である吉保も幕臣となる[1]。同年11月3日に吉保は小納戸役に任ぜられる
天和元年(1681年)4月25日には300石を加増され、830石となる
同年6月3日に吉保は綱吉の学問上の弟子となり、7月11日には江戸・市ヶ谷から愛宕下に居を移す[1]。同年12月20日には生母の了本院を江戸へ引き取っている。
天和2年(1682年)4月21日には従六位下となり、布衣を許されている[1]。天和3年(1683年)1月11日には200石を加増されて1030石となる
同年6月25日には、義兄の信花が江戸城西の丸前において高橋源大夫と喧嘩し、殺害される事件が起きている
貞享元年(1684年)8月21日には邸を江戸・愛宕下から西の丸邸へ移転する[1]。貞享2年(1685年)12月10日には従五位下・出羽守に叙任している[1]。貞享3年(1686年)1月11日には1000石を加増され、2030石となる
吉保の生母・了本院の侍女としてつき従っていた飯塚染子は貞享2年(1686年)頃に吉保の側室となり、貞享4年(1687年)9月3日には吉保の嫡男・吉里を生んでいる[1]。同年9月18日には父の安忠が死去する
元禄元年(1688年)6月10日、西の丸下から一橋内の屋敷に移る。同年11月12日、小納戸上席より将軍親政のために新設された側用人に就任する[注釈 2]。禄高も1万2000石とされて大名に昇る。
元禄3年(1690年)3月26日に2万石を加増され、同年12月25日に従四位下に昇叙する。出羽守如元。
元禄4年(1691年)2月3日に常盤橋内に屋敷を拝領し、同年3月22日に将軍綱吉が柳沢邸に御成を行う。以来、綱吉は58回に及ぶ吉保邸への御成を行なっている。
元禄5年(1692年)11月14日に3万石を加増される。
元禄7年(1694年)1月7日に石高7万2000石とされ、武蔵国川越藩主(埼玉県川越市)となる。同年12月9日には老中格と侍従を兼帯する
同11年(1698年)7月21日、大老が任ぜられる左近衛権少将に転任する
元禄7年(1694年)1月7日に1万石を加増され、川越城を拝領する
翌元禄8年4月21日に駒込染井村の前田綱紀旧邸を拝領し、後にこれが六義園となる
元禄10年(1697年)7月1日には、綱吉から徳川将軍家の菩提寺である寛永寺(東京都台東区上野桜木)の根本中堂造営の惣奉行を命じられる[5][6]。寛永寺根本中堂は元禄11年(1698年)8月2日に落成し、吉保は8月9日に日光輪王寺宮の公弁法親王を屋敷へ招き、7月21日には根本中堂造営の功績により左近衛権少将に叙任され、席次も老中の上となった[6]。8月11日には勅使を迎えて根本中堂の上棟式を行っている
元禄13年(1700年)から翌元禄14年にかけて、吉保は武田信玄の次男・龍芳(海野信親)の子孫とされる武田信興を将軍綱吉に引きあわせ、高家武田家の創設に尽力する[7]。高家武田家は柳沢家から何度か養子を迎えている
元禄14年(1701年)11月26日に吉里とともに将軍綱吉から松平姓および「吉」の偏諱を与えられ、松平吉保と名乗る。同時に出羽守から美濃守に遷任した[8]。翌元禄15年7月12日、吉保邸が火災に遭い家財を焼失し、吉保自身は家臣薮田重守邸に避難する。翌元禄16年8月26日、幕府奥絵師狩野常信に肖像を描かせ、自賛を記している。
翌宝永元年(1704年)12月21日、綱吉の後継に甲府徳川家の綱豊が決まると、綱豊の後任として甲斐国甲府城と駿河国内に所領を与えられ、15万1200石の大名となる
翌宝永2年(1705年)1月15日には国替に際した家中禁令を改定している[10]。同年2月19日の甲府城受け取りは家臣の柳沢保格・平岡資因らが務めている[10]。3月12日、駿河の所領を返上し、甲斐国国中3郡(巨摩郡・山梨郡・八代郡)を与えられる[9][10]。吉保が拝領した15万石余の石高は表高であり、実際には内高を合わせて22万石余を有していた
宝永6年(1709年)2月19日(3月29日)、将軍綱吉が薨去したことで、幕府内の状況は一変した。代わって新将軍家宣(綱豊)とその家臣である新井白石が権勢を握るようになり、綱吉近臣派の勢いは失われていった。同年5月28日に吉保は隠居を出願し、6月3日に吉保は隠居し、吉里が柳沢家の家督を継承した
享保9年(1724年)3月11日に吉里は大和国郡山への転封を命じられ、永慶寺の大和郡山移転に伴い同4月12日に吉保夫妻の遺骸は恵林寺(甲州市塩山小屋敷)へ改葬され、現在まで恵林寺が吉保の墓所となっている。
2020年9月5日(土)作成
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