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 才勝土という地名  星の王子  2023年4月18日(火) 18:44
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歳勝土、才勝土(サイカチド)
かぶと虫やくわがた虫の発生する場所につけられた地名。かぶと虫やくわがた虫をさいかち虫という。才勝土の原は、雑木林が多く土壌が冬眠に適しているため、かぶと虫やくわがた虫が多く発生した場所である。

「中川の地名」吉野孝三郎著より

大塚・歳勝土遺跡公園の近くがそう呼ばれていたのか?

2014年1月1日(水)作成

 都筑が丘  星の王子  2023年4月18日(火) 18:39
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書名:都筑が丘
著者:松沢 由貞
発行所:横浜港北新報社
発行年月日:1970/4/1
ページ:97頁
定価:非売品

著者は荏田町に住んで、中川小学校の教員を15年、その後横浜市市会議員を務めた人。東急による開発で街が大きく変貌していくという時点で過去の都筑が丘のことをエッセー風に綴った本です。(現在1970年当時)のこと、明治時代のこと、大正時代のこと、戦前、戦中、戦後のことなどがランダムに書かれています。青葉台駅が出来る前は青葉駅から恩田まで1軒の家もなかった。

恩田の近くに隔離病棟があったとか?元石川の陸軍の演習場があって、そこにたまプラーザが出来て駅、団地などが開発された。関東大震災の時、大棚町の方向から砂煙が舞いながら、やってきた。中川小学校の校庭にひびが入って、大きな石の門柱が倒れた。とか。荏田宿の大火事のこと。思いつくままに挿絵とともに描かれている。

著者の入学した神奈川師範は鎌倉にあったようだ。寮生活か、下宿か。今の横浜国立大学付属小学校あたりか?綱島まで歩いて東横線に乗って帰ってきたとか、小机まで歩いて汽車に乗ったとか。どこへ行くにも歩いていくしかなかった。その後246号の開通、東名高速道路の開通、当時市ヶ尾近くにインターチェンジを要請していたが、却下。それでバス停を要請した。これは東名江田のバス停となった。ずっと後になって青葉インターチェンジが出来た。246号と東名で江田城跡近くの古い遺跡、大きな屋敷跡、静かな森、清水なども全て無くなってしまった。小黒地区では徳江さん人参が名産品、明治天皇、大正天皇が葉山の御用邸に来られたときはその人参を献上に伺ったとか。

懐かしい思いがほのぼのと描かれている。何処かで忘れてしまった風景が浮かんできます。歴史家ではないので、時代考証的な堅い感じではなく、昔話としてアバウトに散発的に出てきます。狐、兎、狸、蛍が住む里の雰囲気、どの農家も蚕を飼っていた。農村の雰囲気が漂う話が多い。

2013年12月27日(金)作成

 中川の地名  星の王子  2023年4月18日(火) 18:38
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書名:中川の地名
著者:吉野 孝三郎
発行所:新進印刷所
発行年月日:1983/2
ページ:115頁
定価:非売品

書名:続中川の地名
著者:吉野 孝三郎
発行所:新進印刷所
発行年月日:1986/11/23
ページ:67頁
定価:非売品

武蔵国都筑郡(現横浜市都筑区)中川村、山田村、勝田村、大棚村、茅ヶ崎村の地名について書かれている。地名というのは話し言葉、そしてその言葉に漢字を当てた、当て字が多いので、その地名の漢字で意味を探るとおかしなことになってくる。また当て字はなるべく「け」の言葉は使わず、「はれ」の言葉を使うようになってきている。また読みも方言が混じっている、それに漢字を当てているので変わった地名もみられる。

例えば加賀原、○○加賀守が住んでいたという伝承らしきものがあるが、「かが」芝草地のかがから来ている。佐江戸も「さいど」道祖神「斉の神」からきているとか?

また徳川家康が江戸にやって来たときから新たに開墾によって新田の開発が盛んになって開墾によって出来た地名徳生(新たに開墾した地は税が免除になって得する地、徳する地)そこから「とくしょう」とか?著者も書いているが、この本の内容は全て正しいのではなく、少しでも正しいと思われるものを集めたとのこと。

山田(やまた)この矢股(やまた)から来ている。1675年河野家の文書にみられる。その後山田となっているととのこと。矢股とは川が別れていることをさす。矢は谷に通じる。

牛久保村は大棚の後ろの窪地をさして後窪から牛窪そして牛久保になったとか。大棚村は昔から豊かな土地で日当たりの良いところ、南面に棚のように田畑が並んでいたことから大棚と呼ばれたとか。

勝田村は「かちだ」鍛冶田、鍛冶師が開いた田であった。ここは久志本氏(伊勢の国の医師、徳川秀忠の疱瘡の治療して尚した先祖)の領地だった。

茅ヶ崎村、ここは中川では一番古い地域、杉山神社の伝承に(白鳳3年天武天皇672-686)安芸国安芸郡の安芸神社の神主忌部勝麻呂が茅ヶ崎に杉山神社を創建したという。(現代まで50代前後の家系が続いている。忌部氏→杉山氏→北村氏)

芽茅(ちがや)の岬につけられた地名。→茅ヶ崎、血ヶ崎「正保年中改定図」とも。

寿福寺は、平安初期に弘法大師によって創建された古刹。平安初期(806年)に弘法大師によって創建された歴史ある古刹。長福寺と呼ばれていた。承元4年(1210年)に多田山城守行綱の孫、智空法師(俗名多田福寿丸)によって浄土真宗に改宗されました。そして寿福寺に名前を変えた(八代将軍徳川吉宗の子長福丸(九代将軍家重)に遠慮して)多田山城守行綱ゆかりのお寺と言われている。また都筑区でも一番古いお寺かも。そして行綱が中川地域を領地として持っていたか?これについてはいろいろ説があるようです。義経が瀬戸内海に進行するときに止めたという記録が残っているが、その後のことは不明の人物です。

小冊に過ぎない本ですが、中川の地名に関しては一級資料だと思う。よく調べてあると思う。

2013年12月26日(木)作成

 失われたものの記録 望郷  星の王子  2023年4月18日(火) 18:35
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書名:失われたものの記録 望郷
著者:男全 冨雄
絵:男全 冨雄
発行所:田園都市出版
発行年月日:1999/8/15
ページ:163頁
定価:2000+税

港北ニュータウンが開発されてあたりの景色は一変してしまった。多くの失われたものがある。そんな失われたものを著者の記憶、記録綴ったものです。「すみれが丘」が開発されて洪水が頻発するようになって小川の鰻、魚もいなくなってしまった。赤土混じりの泥水が流れてくるようなった。この時から環境は変わってしまった。それ以降は港北ニュータウン開発に突き進んでいった。小学校のこと、青年学校のこと、戦争中のこと、北山田の空襲のこと、戦後直後のことなどが著者の絵と文と俳句、詩で綴られています。

港北ニュータウンは公団が地権者の土地の4割を買収することで始まり、公団はこの4割買収に応じた人たちに「まじめに協力してくれた正直者には、馬鹿をみさせない」と言われたが、現実にはなにもなかった。また昭和55年完成と言いながらどんどん延期されて、61年延期され、65年に延期、そして平成7年に延期、45歳始まったが67歳になっても民間用地の換地は終わったが、鉄道も開通されるが、公園、事業用地はまだまだ遅れるという。と回想している。

住居表示についても「北山田」という名前について新住民から田舎みたいで土地の価値が下がってしまうと一部猛反対があったとのこと。でも著者は新住民、旧住民ではなく、この土地に先祖だって移住してきた人、それが数百年の人だって縄文の遺跡時代考えればやっぱり新住民、みんな新住民だと言っている。文章も絵も俳句も詩も旨くはないけれど、素直に心情が滲み出ていて言いたいことが良く伝わってくる。テクニックに走って、才気走った文章、絵、俳句、詩より心に迫ってくるものが一杯ある。

いろいろのご縁でこの都筑区に住まうことになったひとびとには一度読んで置いて欲しい本という感じがします。

2013年12月26日(木)作成

 とかく地名、人名、寺院名などの読みは難しい  星の王子  星の王子  2023年4月18日(火) 18:34
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横浜市のホームページにある町名一覧には「東方町」の読みが「ひがしがたちょう」となっていますが、いろいろホームページを検索してみると

東方公園・・・ひがしかたこうえん
東方天満宮・・・ひがしかたてんまんぐう

が多い。

また正覚寺についても
「しょうかくじ」と読んでいるのが多いが、「しょうがくじ」では?
仏教で正覚(しょうがく)というのは非常に大切言葉で、目覚めて悟りを開くことを言う。したがって「しょうがくじ」が正しいのではと思っています。

とかく地名は難しい。考えても判らないことの一つですね。

2013年12月22日(日)作成

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