牛久保村(ウシクボ) 牛久保村は「風土記」によれば、南北に山を負いすべて高低山林の地で、畑が少なく山が多かったが、田がないので谷間の清水を集めて用水としたため土地は冷気多く収穫は少なかったという。 牛久保村は、もと大棚村字牛窪で文禄三年(1594年)に大棚村から分離して独立した。「正保年中改定図」には牛窪村と記載されている。中川五か村では地形的に恵まれず、一番開発が遅れて江戸中期頃から本格的に開発が行われたようだ。当時は牛久保新田と呼ばれていたという。新田は、古くはニタ・ニッタなどといい、江戸時代以降はシンデンと呼ぶ。新田は、田ばかりを意味しているわけではなく「地方凡例録」によると「新田トハ、新田・畑・屋敷等ノ総名ニシテ、新田トモ、新開トモ云」とある。
江戸の名主斉藤氏の「江戸名所図絵」によると「承応より享保に至り四度まで新田開発ありて−」とあるが、しかし、新田開発が活発に行われたのは八代将軍吉宗の享保十一年(1726年)に「新田検地条目」が出されてからという。 中川の五か村が、江戸時代にいかに開発されたいったか次の各村の知行高を比較してみれば明かである。(端数切り捨て)
(江戸初期) (明治八年) (増加高) (増加率) 山田村 775石 1108石 333石 43% 勝田村 199石 257石 58石 29% 牛久保村 112石 257石 145石 129% 大棚村 466石 492石 27石 6% 茅ヶ崎村 369石 515石 146石 40% 合計 1923石 2632石 709石 37%
増加率の平均は37%であるが、平均を超える村は牛久保・山田・茅ヶ崎で最高は牛久保の129%で倍以上になっている。それだけ開発されて耕地面積が増え生産高が増加したのである。二位は山田村、三位は茅ヶ崎村の順で、最低は大棚村の6%となっている。そのためか、牛久保・山田村には開墾地名が多いようだ。 大棚村は、南向きの日当たりのよい土地に恵まれて、江戸初期の頃までには、すでに開発が完了していたものとみられる。 牛久保村は、旗本領二給地で明治元年(1868年)調査によると村内知行高は次の通りである。
久志本主税 (300石) 186石6斗3升8合 安藤織部 (450石) 35石7斗4升 松村忠四?カ支配所(天領) 35石5斗1升9合
牛久保村の旧家は次の諸氏である。 安藤 岩崎 岡本 唐戸 笹本 関 田丸 長沢 宮台
○牛久保(ウシクボ) 古くは牛窪。大棚村の頃うしろの窪地につけられた地名。牛久保は後久保のこと。後(ゴ・ウシろ)に牛(ゴ・ウシ)の字を当てたもの。
「中川の地名」吉野孝三郎著より
2014年1月1日(水)作成 |
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