長男の西条八束(やつか)は陸水学者、長女の三井ふたばこ(西条嫩子)も詩人、孫の西沢八兄はエレキギター製作者西条八十は明治25年(1892)東京府牛込区牛込払方町(現在の東京都新宿区払方)に生まれた。旧制早稲田中学校から早稲田大学英文科に学び、後にフランスのソルボンヌ大学に留学し、帰国後は早稲田大学仏文科教授となる。
戦後は日本音楽著作権協会会長を務めた。昭和37年(1962)に日本芸術院会員になる。西条八十は詩人としてだけでなく、歌謡曲の作詞家としても活躍し、「東京行進曲」、戦後の民主化の息吹きを伝える「青い山脈」、中国の異国情緒豊かな美しいメロディー「蘇州夜曲」、村田英雄の「王将」など無数のヒットを放った。このように西条八十は大正時代に「かなりや」をはじめ「てんてん手まり・・・」の歌などをつくり童謡作家として地位を築き、戦前、戦後に流行歌を数多く作り、純粋な詩を含み生涯に1,000以上の詩を創作したといわれている。
西条八十は都筑とどんな関係があるのか~父重兵衛が川向の出身
八十の父親の西条重兵衛は、鶴見川に沿う都筑郡川向村の出身だった。西条重兵衛はもとは「志田」という姓で江戸時代に名主を務めた家柄の次男である。重兵衛は幕末の激動の時代に武士になることを夢みて江戸へ出たといわれている。重兵衛は江戸で剣術を習いはじめたが、極度の遠視のため志半ばで諦めなければならなかった時、当時牛込にあった「伊勢屋」という質屋で番頭兼用心棒として働くようになった。
この家が西条家で跡取りの男子がいたのだが、脚気を患って19歳の若さで亡くなってしまった。嫁もきまり挙式直前のことだつた。あわてた西条家は番頭の重兵衛を、急遽婿養子にしこの嫁と結婚させてしまったのである。明治10年(1877)重兵衛37歳、嫁トク17歳で、20歳も歳の離れた夫婦であった。嫁トクは藤沢で「藤沢小町」とよばれるほどの美人だったといわれる。明治25年二人の間に八十が生まれた。両親は苦しいことがないようにと「苦」に通じる「九」を抜いて「八」と「十」を用いて八十とう名前にしたといわれる。
昭和15年3月の「少女倶楽部」という雑誌に「かくれんぼ」と題した七五調の西条八十の短い詩が掲載された。
「おもいだすのは、かくれんぼ
待てどくらせど、来ぬ鬼
さびしい納屋のれんじから
そっと覗けば柿の木にみた
みそさざえ」
この詩は小学生だった西条八十が、父重兵衛に連れられて東京の牛込から実家のある、川向町の「志田家」を訪れ遊んだ当時のことを懐古して作ったものといわれている。八十はよく川向橋から鶴見川に飛び込んで遊んだという。
父の実家である志田家は江戸時代に名主を務め、苗字帯刀を許されたほどの家柄であった。広い敷地に大きな屋敷と白壁の蔵が幾つも並んで建っていたといわれていた。しかし、大正12年(1923)の関東大地震で家屋は崩壊してしまったという。現在は鶴見川の河川改修工事により広い家敷は、河川敷になり夏草で覆われている。志田家の実家は無くなってしまったが、本家の隣に家を構えた分家が今も続いてる。その分家というのは重兵衛の弟の甚兵衛さんから勘蔵さん、米吉さんと続いて、現在は志田隆さん、志田武助さんの二軒に分かれ鶴見川の堤の側に居住している。
この志田さんの家に今から44年ほど前の昭和,45年(1970)の春に、東京から品のある老人と中年を過ぎた紳士が二人、黒塗りの外車で乗りつけてやってきた。老人は西条八十のことで、中年を過ぎた紳士は名古屋大学教授で陸水学者であった長男の八束である。志田さんの家は米吉さんの代で、米吉さん75歳、西条八十が78歳の時で、二人は子どもの頃、鶴見川で遊んだことを熱心に話しあったという。 |