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 中川村  星の王子  2023年4月18日(火) 18:46
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中川村
中川村(なかがわむら)は、1889年(明治22年)4月1日から1939年(昭和14年)4月1日まで存在した神奈川県都筑郡の村。

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、山田村、勝田村、牛久保村、大棚村、茅ヶ崎村が合併して成立。
1939年(昭和14年)4月1日 - 横浜市に編入。同日中川村廃止。同日に新設された港北区の一部となる。
1994年(平成6年)11月6日 - 横浜市港北区、緑区の2区が、港北区、緑区、都筑区、青葉区の4区に再編成。旧村域が都筑区となる。

住居表示実施地区 : 東山田、北山田、南山田、勝田南、牛久保、牛久保東、牛久保西、大棚西、茅ヶ崎中央、茅ヶ崎東、茅ヶ崎南、中川中央、中川、すみれが丘、長坂の全域、平台、桜並木のほぼ全域、新栄町、仲町台、早渕の各一部(それぞれ旧港北区新羽町、新吉田町の区域を除く)
住居表示未実施地区 : 東山田町、南山田町、勝田町、牛久保町、大棚町、茅ヶ崎町

2014年1月1日(水)作成

 山田村  星の王子  2023年4月18日(火) 18:46
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山田村(やまた)

山田村は「風土記」によれば。文禄三年1594年)の文書に、武州都筑郡師岡庄小机之山田ノ郷とあったという。これは徳川家康が江戸城主となった天正十八年(1590年)から四年後のものである。
その後、ェ門五年(1645年)の文書には、神奈川領矢股村と書かれていたといい、この矢股は文字を間違えたのであろうといっている。しかし、山田は古くは矢股であったのではないかと思われる。
大化の改新(645年)の律令制によって、行政区画は国・郡・里制に定められたが、霊亀元年(715年)里を郷に改められて、それ以降は郡の下は郷となった。よって武蔵国都筑郡山田ノ郷でいいのだが、この間に庄や領(内)などがはいるのは、その地域(土地)の支配関係を示しているのである。
庄とは荘園のことで奈良、平安時代から存在し、公卿や社寺などの私有地であり、実体がなくなってからも地名として残っていた。
郷は公領的性格が強かったといわれている。庄の呼称はやがて豊臣秀吉の太閤検地(天正〜文禄年間)に事実上消滅した。
やがて江戸期にはいって村が行政の単位となるが、しかし、水帳(正しくは御図帳・検地帳といって江戸時代、土地の反別の図に所有者の名・年貢高など記入して名主が保管していた)などにはその後も庄名が使われていたようである。

山田村は、小田原北条氏の頃は曽根外記の所領であったが、小田原北条氏滅亡後、徳川家康の江戸入府によって、徳川氏の旗本領となり八王子千人頭などの知行地となった。
江戸初期には旗本十人で分割(十給地という)していたが、その後改易没収などがあって、旗本は地頭(領主)は八人(八給地)となっていた。

明治元年(1868年)調査による各氏の村内知行高は次の通りである。(カッコ内は知行高)
なお、天領(幕府直轄地)は代官が支配していた。

志村源一郎(509石)377石4斗5升8合
河野仲次郎(600石)288石6斗7升8合
山本弥左衛門(不明)240石0斗3升1合
曽根栄之助(500石)88石9斗4升4合
鈴木邦三郎(607石)54石2斗0升7合
荻原土岐次郎(不明)3石7斗
窪田鉄三郎(不明)2石5斗3升
中村左京(不明)1石3斗
松村忠四カ支配所(天領)51石6斗

山田村の旧家は次の諸氏である。
亜雁 芥生 安藤 飯田 飯塚 石原 市川 伊東 今西 岩崎 植田 内田 漆原 遠藤 大島 小沢 男全 織茂 金子 川島 川田 栗原 小泉 斉藤 酒井 鈴木 高野 高橋 田辺 田丸 出川 徳江 西内 長谷川 原木 宮本 八木 吉田 渡辺

○山田 山田村=山田各町
山間の田の多い場所につけられた地名。山田がいかに田の多い村であったか、次の江戸初期における検地高をみるとよくわかる。
総高 775石4斗7升9合
田方 511石8斗0升8合
畑方 256石3斗9升1合
野高 8石
これによれば田と畑の比率は2対1である。

しかし、前に述べたとおり、山田は矢股ではなかったか。それは地形が矢股にふさわしいからである。矢股の地名は矢(ヤ)は谷(ヤ)で湿地帯の意。山田の字名の多くは○○谷と谷(ヤトとヤ)が付いていた。
股(マタ)は本流の川に支流の川がそそぐ場所のこと。山田は早渕川の本流に対して、牛久保村境を流れる小川と、村内富士谷から流れ出す小川が村内で早渕川で合流していた。このような合流点を股という。
都筑郡青砥村(緑区青砥町)は村内で鶴見川(谷本川)と恩田川が合流する。そのため村名を「合水」(アウド)とし、青戸→青砥(アオト)の字を当てたものである。この地方ではウをオと発音する。また、水の合流点付近は水が落ち合うということで「落合」の地名も多い。矢股、青砥、落合はいずれも川の合流点にみられる地名である。

○神無(シンナシ)山田村=北山田町
古くはコム谷、窪地の多い地形の険しい場所につけられた地名。コムに神無(カム・コム)の字を当ててシンナシと呼び方を変えたもの。コムは、籠、込などの字を当てるところが多く、籠場(ロウバ・カゴバ)籠谷(ロウヤト)などの地名が多い。

「中川の地名」吉野孝三郎著より

2014年1月1日(水)作成

 才勝土という地名  星の王子  2023年4月18日(火) 18:44
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歳勝土、才勝土(サイカチド)
かぶと虫やくわがた虫の発生する場所につけられた地名。かぶと虫やくわがた虫をさいかち虫という。才勝土の原は、雑木林が多く土壌が冬眠に適しているため、かぶと虫やくわがた虫が多く発生した場所である。

「中川の地名」吉野孝三郎著より

大塚・歳勝土遺跡公園の近くがそう呼ばれていたのか?

2014年1月1日(水)作成

 都筑が丘  星の王子  2023年4月18日(火) 18:39
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書名:都筑が丘
著者:松沢 由貞
発行所:横浜港北新報社
発行年月日:1970/4/1
ページ:97頁
定価:非売品

著者は荏田町に住んで、中川小学校の教員を15年、その後横浜市市会議員を務めた人。東急による開発で街が大きく変貌していくという時点で過去の都筑が丘のことをエッセー風に綴った本です。(現在1970年当時)のこと、明治時代のこと、大正時代のこと、戦前、戦中、戦後のことなどがランダムに書かれています。青葉台駅が出来る前は青葉駅から恩田まで1軒の家もなかった。

恩田の近くに隔離病棟があったとか?元石川の陸軍の演習場があって、そこにたまプラーザが出来て駅、団地などが開発された。関東大震災の時、大棚町の方向から砂煙が舞いながら、やってきた。中川小学校の校庭にひびが入って、大きな石の門柱が倒れた。とか。荏田宿の大火事のこと。思いつくままに挿絵とともに描かれている。

著者の入学した神奈川師範は鎌倉にあったようだ。寮生活か、下宿か。今の横浜国立大学付属小学校あたりか?綱島まで歩いて東横線に乗って帰ってきたとか、小机まで歩いて汽車に乗ったとか。どこへ行くにも歩いていくしかなかった。その後246号の開通、東名高速道路の開通、当時市ヶ尾近くにインターチェンジを要請していたが、却下。それでバス停を要請した。これは東名江田のバス停となった。ずっと後になって青葉インターチェンジが出来た。246号と東名で江田城跡近くの古い遺跡、大きな屋敷跡、静かな森、清水なども全て無くなってしまった。小黒地区では徳江さん人参が名産品、明治天皇、大正天皇が葉山の御用邸に来られたときはその人参を献上に伺ったとか。

懐かしい思いがほのぼのと描かれている。何処かで忘れてしまった風景が浮かんできます。歴史家ではないので、時代考証的な堅い感じではなく、昔話としてアバウトに散発的に出てきます。狐、兎、狸、蛍が住む里の雰囲気、どの農家も蚕を飼っていた。農村の雰囲気が漂う話が多い。

2013年12月27日(金)作成

 中川の地名  星の王子  2023年4月18日(火) 18:38
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書名:中川の地名
著者:吉野 孝三郎
発行所:新進印刷所
発行年月日:1983/2
ページ:115頁
定価:非売品

書名:続中川の地名
著者:吉野 孝三郎
発行所:新進印刷所
発行年月日:1986/11/23
ページ:67頁
定価:非売品

武蔵国都筑郡(現横浜市都筑区)中川村、山田村、勝田村、大棚村、茅ヶ崎村の地名について書かれている。地名というのは話し言葉、そしてその言葉に漢字を当てた、当て字が多いので、その地名の漢字で意味を探るとおかしなことになってくる。また当て字はなるべく「け」の言葉は使わず、「はれ」の言葉を使うようになってきている。また読みも方言が混じっている、それに漢字を当てているので変わった地名もみられる。

例えば加賀原、○○加賀守が住んでいたという伝承らしきものがあるが、「かが」芝草地のかがから来ている。佐江戸も「さいど」道祖神「斉の神」からきているとか?

また徳川家康が江戸にやって来たときから新たに開墾によって新田の開発が盛んになって開墾によって出来た地名徳生(新たに開墾した地は税が免除になって得する地、徳する地)そこから「とくしょう」とか?著者も書いているが、この本の内容は全て正しいのではなく、少しでも正しいと思われるものを集めたとのこと。

山田(やまた)この矢股(やまた)から来ている。1675年河野家の文書にみられる。その後山田となっているととのこと。矢股とは川が別れていることをさす。矢は谷に通じる。

牛久保村は大棚の後ろの窪地をさして後窪から牛窪そして牛久保になったとか。大棚村は昔から豊かな土地で日当たりの良いところ、南面に棚のように田畑が並んでいたことから大棚と呼ばれたとか。

勝田村は「かちだ」鍛冶田、鍛冶師が開いた田であった。ここは久志本氏(伊勢の国の医師、徳川秀忠の疱瘡の治療して尚した先祖)の領地だった。

茅ヶ崎村、ここは中川では一番古い地域、杉山神社の伝承に(白鳳3年天武天皇672-686)安芸国安芸郡の安芸神社の神主忌部勝麻呂が茅ヶ崎に杉山神社を創建したという。(現代まで50代前後の家系が続いている。忌部氏→杉山氏→北村氏)

芽茅(ちがや)の岬につけられた地名。→茅ヶ崎、血ヶ崎「正保年中改定図」とも。

寿福寺は、平安初期に弘法大師によって創建された古刹。平安初期(806年)に弘法大師によって創建された歴史ある古刹。長福寺と呼ばれていた。承元4年(1210年)に多田山城守行綱の孫、智空法師(俗名多田福寿丸)によって浄土真宗に改宗されました。そして寿福寺に名前を変えた(八代将軍徳川吉宗の子長福丸(九代将軍家重)に遠慮して)多田山城守行綱ゆかりのお寺と言われている。また都筑区でも一番古いお寺かも。そして行綱が中川地域を領地として持っていたか?これについてはいろいろ説があるようです。義経が瀬戸内海に進行するときに止めたという記録が残っているが、その後のことは不明の人物です。

小冊に過ぎない本ですが、中川の地名に関しては一級資料だと思う。よく調べてあると思う。

2013年12月26日(木)作成

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