鎌田正清 星の王子 星の王子 2023年4月17日(月) 21:54 |
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鎌田正清
吾妻鏡によると「石橋山の戦い」(頼朝の時代)に鎌田正清には男子があったとされるが、実朝の時代に勝長寿院において源頼朝と共に鎌田正清の供養したという記述に男子無く、娘に所領を与えたとある。同じ吾妻鏡の中でもちょっと辻褄が合いませんね。
鎌田 政清(かまた まさきよ)は平安時代末期の武将。藤原秀郷流首藤氏の一族で、相模国の住人鎌田権守通清の子。諱は正清、正家、政家とも。源義朝の第一の郎党。 政清の母が義朝の乳母だったことから、乳兄弟として最も信頼された。
平治の乱に敗れた源義朝は、東国を目指して落ち延びる途中、尾張国野間(愛知県知多郡美浜町)で、源義朝の家人長田忠致(政清の舅)・景致父子の奸計によって湯殿で命を落とします。 このとき鎌田 政清も同時に殺害された。嘆き悲しんだ忠致の娘(政清の妻)は川に身を投げて自殺したとされる。
伊東の鎌田城の案内 文治5年(1189年)鎌田新藤次俊長によって築かれたと云われる。 俊長は鎌田政清の子である。 平治の乱で敗れた源義朝は家臣の鎌田政清とともに尾張国へ逃れたが、そこで旧臣の長田忠致によって討たれた。俊長は平家の来襲に備える為に鎌田城を築いたという。
中村太郎景平 同次郎盛平 鮫島四郎宗家 七郎武者宣親 大見平次家秀 近藤七國平 平佐古太郎爲重 那古谷橘次頼時 澤六郎宗家 義勝房成尋 中四郎惟重 中八惟平 新藤次俊長 小中太光家 是皆將之所恃也。各受命忘家忘親云々。 (「吾妻鏡」治承四年(1180)八月小廿日庚子)
元久元年(1204)九月大二日丁夘。將軍家、御馬二疋〔河原毛。栗毛駮〕を以て伊勢内外の兩宮へ奉被る。 新藤二俊長、和泉拯景家等之を相具し、今朝進發すと云々。 (「吾妻鏡」元久元年(1204)九月大二日丁夘)
10月25日 壬午 勝長寿院に於いて如法経十種供養有り。これ故鎌田兵衛の尉正清が息女修する所なり。 且つは故左典厩の御菩提を訪い奉らんが為、且つは亡父の追福を加えんが為、一千日の間、当寺に於いて浄侶を屈し、如説法華三昧を行わしめんと。願文は信救得業これを草す。因幡の前司廣元これを清書すと。将軍家並びに御台所御結縁の為参らしめ給う。導師は大學法眼行恵。経王の功能と云い、施主の懇志と云い、述ぶる所の旨趣、すでに富楼那の弁智を褊す。聴衆双眼を抑え両袂を霑す。上野の介憲信・工匠蔵人・安房判官代高重等布施を取ると。彼の女姓の父左兵衛の尉正清は故大僕郷の功士なり。 遂に一所に於いてその身を終う。仍って今将軍家殊に憐愍せしめ給うの間、遺弧を尋ねらるると雖も男子無く、適々この女子参上す。尾張の国志濃幾・丹波の国田名部両庄の地頭職を以て、恩補せしめ給いをはんぬと。 (「吾妻鏡」建久五年(1194年)十月二十五日壬午条)に次のような記載があります。
吾妻鏡目次 http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma.html 吾妻鏡入門 http://adumakagami.web.fc2.com/
田辺・田造郷(舞鶴市)(丹波の国田名部庄) http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/tanabe.html 尾張の国志濃幾庄(愛知県春日井市)
〔鎌田堂の石碑〕横浜市都筑区 堂の背後に鎌田兵衛正清の館ありし故 土人 鎌田堂と云う。二間に三間なり。 印子の観音を安置しありしが奪われ、 霊元天皇、 寛文十三年、 現在の石地蔵建立さる。 寛永の頃 佛誉ぶつよ常心じょうしん止住とどまりてすむ 。以来 安政の頃迄 念佛道場として繁栄 道場坂の名を残す。尚、子育こそだて地蔵 、諸願しょがん成就じょうじゅの地蔵として庶民の信仰厚き聖地なり。
2012年10月17日(水) 作成 |
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