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このコーナーは、皆さんが作っていくコーナーです。「つづきの歴史」に関係することなら何でも投稿して下さい
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横浜市で唯一の大名家米倉家について
星の王子
2023年5月14日(日) 11:37
修正
横浜市で唯一の大名家米倉家について
3,4年前から相州金沢藩の目付日記をずっと読んできました。その中に武田信玄公という記述が出てきて、米倉家は旧武田信玄の家来ということが判った。米倉宗継と言う人が天正三年(1575)長篠の戦で戦死した。
その後養子が後を継ぎ、武田遺臣とともに家康にしたがった。米倉家の家禄も少なく、大名でもなかった。中興の祖として米倉昌尹が急に出世したようだ。理由は不明。
米倉昌尹は48歳で600石を相続、書院番士から毎年のように加増されて60歳では10,000石の大名に、死ぬ年63歳で15,000石。
綱吉によほど気に入られたのか?凄い大出世です。世襲の時代、こんなことは例外だったのでしょうね。普通にはなかったのでは?このことに興味を持ちました。なぜだろう!
寛永14(1637) 米倉丹後守昌尹生まれる
貞享1(1684) 昌尹(48):米倉家相続(600石),書院番士
元禄3(1690) 昌尹(54):500石加増,従五位下丹後守
元禄5(1692) 昌尹(56):側衆,1000石加増
元禄7(1694) 昌尹(58):1000石加増
元禄8(1695) 昌尹(59):1000石加増
元禄9(1696) 昌尹(60):若年寄,1万石
元禄12(1699) 昌尹(63):下野皆川1万5000石転封,卒
武家家伝_米倉氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yonekura.html
米倉家系図
http://office-morioka.com/myoji/genealogy/kinsei/yonekura.html
米倉家
http://himuka.blue.coocan.jp/daimyou/yonekura.htm
2020年9月5日(土)
川和富士の昔の旧川和富士の位置は?
星の王子
2023年5月13日(土) 17:48
修正
川和富士公園の川和富士は昭和61年、現在の形になっていますが、古い富士塚は何処にあったのでしょう。昭和30年代の地図、現在の地図重ね合わせて位置を探しました。「区役所通り」のゆうやけ橋を本の少し、川和町駅に行ったところです。
北緯:35.534度、東経:139.555度
旧川和富士のこと - つみかさね
http://3yokohama.hatenablog.jp/entry/2021/10/07/140657
2021年10月9日(土)
旧川和富士
ふくちゃん
2023年5月13日(土) 17:43
修正
mikan さま、旧川和富士の位置の情報ありがとうございました。
私も30年ほど前に、昔の地図と当時の地図で調べたことがあります。
当時は、縮尺を合わせてセロファン紙にコピーをして2枚合わせて位置を確かめました。
今は、グーグルマップがあって便利ですね。
北緯:35.534度、東経:139.555度の「神奈川ダイハツ販売港北ニュータウン店」のところに富士塚(旧川和富士)があったようです。
緑道「ゆうばえの道」を案内するとき「ゆうやけ橋」で旧川和富士の位置を説明します。
mikan さま、旧川和富士の位置の情報ありがとうございました。
私も30年ほど前に、昔の地図と当時の地図で調べたことがあります。
当時は、縮尺を合わせてセロファン紙にコピーをして2枚合わせて位置を確かめました。
今は、グーグルマップがあって便利ですね。
北緯:35.534度、東経:139.555度の「神奈川ダイハツ販売港北ニュータウン店」のところに富士塚(旧川和富士)があったようです。
緑道「ゆうばえの道」を案内するとき「ゆうやけ橋」で旧川和富士の位置を説明します。
2021年10月10日(日)
旧川和富士塚の北緯、東経
星の王子
2023年5月13日(土) 17:38
修正
ふくちゃん、北緯と東経の情報有り難うございました。
旧川和富士塚の北緯、東経が判りました。 - つみかさね
http://3yokohama.hatenablog.jp/entry/2021/10/12/190500
2021年10月12日(火)
川和の歴史
星の王子
2023年5月13日(土) 17:34
修正
書名:川和の歴史
著者:横浜市立川和中学校
発行所:横浜市立川和中学校
発行年月日:1983/2/26
ページ:165頁
定価:非売品
1980年創設の川和中学校が3周年を記念して、1983年「川和の歴史」を発行した。この地域は港北ニュータウンの計画、実行が間近に迫っていたため、過去の歴史の大切を知らせる意味でも、重要なことであった。川和富士も旧場所から、新しい場所へ。花見山遺跡も発掘されたばかりで成果が見えてきた頃、都筑の郡衙はまだ位置が確定していない時代。時代の変遷と共に川和の歴史が書かれている。また古文書の釈文などが多用されていて、中学生には難しい内容になっている。でも信田家文書、城所家文書、横溝家文書、岩沢家文書など引用している。特に信田家の「信田日記」(幕末から明治の初めまで)は当時の生活の様子がよくわかる。また川和は増上寺領であったから増上寺とのやり取りの古文書がたくさん残っている。
ちょっと以外に思ったのは川和富士信仰、比較的新しくて明治になってからの事。幕末に川和富士を作る話が出て明治20年代までかけて塚を築いたとのこと。(旧川和富士:今より400m程離れたところ)江戸時代の富士山信仰の頃だとばかり思っていた。港北ニュータウンの開発と共に新しい発見が続々と出てきている。歴史に興味を持つきっかけになる本です。
1977年9月に川和高校の東側で花見山遺跡が発見され、1300点もの遺物が見つかった。これにより1万年以上前から人々が生活していたことが判明した。
中世は武蔵国都筑郡の川和郷であった。戦国期にこの地を所領したのは北条綱成であるとされる。記録には、農民が借米をめぐって訴え、最終的には後北条氏の評定衆が借米の催促を命じたとある。後北条氏はこの地に勢力を伸ばすと、小田原城を守り関東進出の拠点とするため、廃城と化していた小机城(今の港北区小机町)を修復。この城の支城として鶴見川沿いに川和城が整備された。川の合流する川和は交通において重要な地であった。
江戸時代になると都筑郡の川和村(川輪村)となった。土地は増上寺領。家数は133軒という記録がある。後期には神奈川宿の助郷村(人馬を提供する助郷を負担する村)となる。
明治になると、1879年都筑郡役所が下川井から川和に移転して置かれ、以後は周辺地域の政治経済の中心地として栄えた。
川和の由来は武蔵七党の猪俣党の河匂氏から来ているのか?河匂・川匂・川輪・川和など。河匂氏の出身地といわれているところは中郡二宮町川匂神社付近、久良岐郡河匂郡の2カ所です。
旧川和町の沿革
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、川和村、佐江戸村、池辺村、東方村、折本村、大熊村、川向村および本郷村の一部が合併して都田村が発足。
1934年(昭和9年)4月1日 - 都田村が改称して川和村となる。
1935年(昭和10年)9月30日 - 川和村が町制施行して川和町となる。
1939年(昭和14年)4月1日 - 横浜市に編入。
10月1日 - 旧川和町域が港北区の一部となる。
1994年(平成6年)11月6日 - 港北区の再編により、旧川和町域が都筑区の一部となる。
都田の由来は、都筑郡の「都」と田園地帯であったことから「田」を採ったものである。
本来は「都筑村」を名乗る予定であったが、下川井村等の合併村も「都筑村」を名乗るべく準備していたため、村名を巡る争いになった。結局丘陵地帯であった方が都岡村(「都筑の岡」の意。現在の横浜市旭区)、田園地帯であった方が都田村を名乗ることで収拾した経緯がある。大字川和の当時の人口630人。乳牛や養豚が盛んで、大正時代には川向のモモなどの栽培も盛んに行われた。
2018年1月27日(土)
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