原発災害以前、福島県の飯舘村は「までいな村」「日本でもっとも美しい村」だった。しかし、福島原発で放射線量が高くなり、全村避難に追い込まれた。

私たちが訪れた2013年10月、「全員が避難しなければならない村」の情況は何一つ変わっていなかった。目にしたものは、荒れ果てた田畑、空っぽの牛舎、誰も住んでいない住宅、子どもの声が聞こえない校舎。

飯舘村職員・藤井さんの講演を、横浜で2度聞いたことがある。左写真は2013年7月4日、「かけはし都筑」で行われた講演会。「つづき楽校」主催。

藤井さんの話の中でもっとも印象に残ったのは、放射能が降る前の村の様子だった。わずか6000人の村とはいえ、村民全員が地域や村づくりに参加していた。20の行政区(自治会・町内会)を中心とした地域づくりを、30年前からやっていたという。自分の意見が反映される村で、主婦も高齢者も子どもたちも生き生きと暮らしていたのである。

中学生が車座になって「村長さんと語り合う会」も行われていた。中学生がアイディアを出して自分たちで実施してきた事業がたくさんある。震災直前の2010年9月には、虹をイメージした「奏での庭」が中学生のアイディアで実現した。(下の写真)

小学生も大事にされている。6年生は2010年6月に沖縄に研修旅行に行った。その前の12年間は、北海道に行っていた。世界の広さを知り自分の居る場所を客観的に見て欲しい、自分の将来を考えたり自分の住む村を見つめなおして欲しいという願いが込められている。

村で本屋さんを作ってしまったことにも驚く。村営本屋を作ったばかりではない。「読まなくなった本を送ってください」と全国に呼びかけた。これは震災前のことだが、10日間で数万冊が集まった。村外の学校やラオスの学校にまでおすそ分けするほど、善意の本が届いたのである。

1989年に「若妻の翼」というプロジェクトが始まった。お嫁さんを、村の費用でヨーロッパの村へ研修に出した。若妻の翼は5年間も続き、ヨーロッパへ飛んだお嫁さんは100人近い。ヨーロッパの美しい村や対等な夫婦関係を見てきたことが、彼女らの意識を変え、村は劇的に変化していった。彼女らの思いは、民宿経営・農家レストラン・珈琲店の開店、どぶろく作り・飯舘村じゃがいものオリジナル品種「イータテベイク」作りなどに繋がっていった。

飯舘村には間接的な知人がいるので、藤井さんの講演を聞く前から、飯舘村の話は小耳にはさんでいた。震災前から「までいな村」に関心を持っている仙台在住の友人もいる。彼女が大事に切り抜いておいてくれた河北新報(宮城県が本社)の記事も読んだ。

藤井さんの話から想像する飯舘村、新聞記事から見える飯舘村。そこには今の日本人が失った生活、これからの日本人のあり方を示すお手本があった。

そんな村の一端をお知らせしたくて、「までいの力 2011年4月11日初版 発行SAGA DESINE SEEDS」の写真を10枚ほどコピーさせてもらった。
                                 (HARUKO記)


   

牧草地(上)と稲刈りを終えた田(下) 
牛の寝床などに使う稲わらが芸術的に並んでいる
全村避難のあとは、雑草が生い茂っていた



 
ブランド牛「飯舘牛」を育てる
牧畜農家が何軒もあった

今は1頭も村にはいない


   

2010年夏 村内産100%の給食にチャレンジ
米と野菜はもちろん 、牛乳や味噌も村内産
飯舘牛の牛丼やハンバーグ、米粉パン、
米粉麺の「フォー」などバラエティに富んでいる




農産物の直売所が7か所もあった
新鮮な野菜や手作りの加工品などが
たくさん並んでいた
売る人にも買う人にも嬉しい直売所


   

春の田植えの時期と
秋の収穫の時期の祭りは
村人にとって欠かせないものだった



 
宿泊体験館の「きこり」
飯舘牛を味わえるレストランや
岩盤浴施設もあった


   
 
村役場の隣にあった
村営の本屋さん「ほんの森いいたて」
村が営む本屋は全国でも珍しい


 
飯樋小学校はユニークなデザインの
木造校舎 校舎内で木登りもできる
思い思いの姿勢で
本を読んでいる子どもたち



   

2010年9月に完成した中学校の「奏での庭」
泥んこだった校庭は、虹をイメージしたレンガに
中学生が企画して出来あがった



 1989年、お嫁さんがヨーロッパに飛び
全国的に話題になった
「若嫁の翼」は5年間続き、100人近い若い嫁が
ヨーロッパに飛び立った
彼女らが村のあり方を劇的に変えた



ひと訪問 藤井一彦さんの本編へ
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