飯舘村の話を聞きたい、飯舘村の現状をこの目で見たいの思いがつのり、福島県相馬郡飯舘村の健康福祉課課長・藤井一彦さん(51歳)を訪問してきた。横浜住まいの4人が、福島県まで行ってきた。

「あれ!つづき”ひと”を訪問するんじゃないの。なぜ福島の人を?」の疑問は、ごもっともである

藤井さん実は、藤井さん(左)は元横浜市役所の職員。特に都筑区とは縁が深い。1993年から港北ニュータウン行政サービスセンターで、都筑区役所開所の準備にあたった。開設イベントや社会教育・生涯学習にたずさわり、藤井さん自身も「思い出深い勤務地」と、おっしゃっている。

都筑区役所勤務は3年間に過ぎないが、いまだに藤井さんと一緒に活動した楽しさを語る人がたくさんいる。「私がこうして地域活動をしているのは、20年前に藤井さんに出会ったからなのよ」と、目を輝かせる人もいる。

その藤井さんが、なぜか今は飯舘村の職員。いきさつは後で書くとして、飯舘村は今や「イイタテ」として、世界に知られている。3.11の原発被害で、全村避難を余儀なくされているからだ。

イイタテをこの目で見て都筑の方にもお知らせしたい、なんらかの力になりたい」との思いで、飯舘村を訪ねた。丸1日、公用車で案内してくださった藤井さんと、飯舘村のみなさんに感謝したい。

 
 くれない族ではなかった


「なぜ市役所に勤めたいと思ったのですか」

「市役所というより区役所で仕事をしたかったんです。中学生の頃から、地元の港南区ジュニアクラブに参加。高校生の時にはクラブの会長をしました。学校が違う友達とキャンプの計画を立てたり、子供会の手伝いでカレーパーティーやレクゲームの指導したのは楽しかったなあ。社会教育に興味を持つようになったのは、この経験があったからです」

都筑区誕生「最初の勤務地は鶴見区でしたね。その後、都筑区役所開設の仕事につきました。当時のことを知っている区民はほとんどいません。思い出を聞かせてください」

「たくさんありますが、いちばん印象に残っているのは、区民がくれない族(行政に要望ばかりする人たち。○○してくれない)ではなかったことです。具体的な提案をする前向きな方がたくさんいました。区民と行政が一緒になって新しい都筑区を造り始めた感覚は今でも忘れません」

「初代区長から”旧住民と新住民をつなぐ事業を展開せよ”と指示されて、稲作体験講座を実施しました。今の川和駅のところにあった田んぼです。子どもたちが、泥んこになって遊んでいた姿を今でも思い出します」

「区開設イベントでは、都筑の昔の行事食を再現しました。地域の講で使っていた漆器の椀やお盆を探し回って、道具がそろったときは嬉しかったですよ」

写真は、都筑区誕生(1994年11月7日)のときのテープカット。区政推進課広報相談係提供。


飯舘村に呼ばれた! 


都筑区の次は、衛生局保健部地域保健課で健康づくり事業の企画などをしていた。次の移動先の教育委員会学校教育部指導課では、AET(英語指導助手)の派遣など国際理解教育の仕事にたずさわっていた。

福島県の地図こんな風に順風満帆のとき、平成16年に飯舘村役場に転職。相談した上司のほとんどが大反対。「ここまで育ててやって本当の力を出すのはこれからなのにと、本気で怒られました」と藤井さんは首をすくめる。

左地図(役場発行のパンフレットのコピー)は福島県全体。赤い部分が飯舘村。福島駅から車で約50分の高原にある。

大反対を押し切ったのは、ひとえに奥様への愛である。全国社会教育研究集会東北大会で、福島市保健師の奥様に出会って結婚。5年半ほど週末に福島に通う生活をしていた。

「奥様が横浜にいらっしゃればよかったのに」

「そう思うでしょう?でも妻はリンゴとナシの果樹農家の跡継ぎ。福島を離れられないと言うんですよ。こんなときに、飯舘村の菅野村長から村づくりの話を聞く機会が2度ほどありました。すっかり飯舘村に魅せられたしまったのです。希望して飯舘村にきたわけですが、今は飯舘村に呼ばれた!と感じているんです」

「それに、妻も”あなたと結婚してほんとに良かった”と、しょっちゅう言うんです。飯舘村に来たのは正解でした」

福島駅から飯舘村への道すがら、「ここが、福島市の避難先のアパートです」。村に入ってからは、「あそこに見えるのが、震災前まで住んでいたオール電化のアパート。妻は1時間かけて福島まで通っていたんです。飯舘は冬になると運転しづらいので、雪道に慣れている妻が車通勤を選んでくれたのです」と仲睦まじさをさりげなく話す。

藤井さんの現在の住まいと以前の住まいの外観を比べただけでも、飯舘村の人たちの現状を垣間見ることができたように思う。


までいライフの飯舘村 


2011年3月11日午後2時46分以前、飯舘村は「日本でもっとも美しい村連合」に認定されている村だった。までいライフを実践している村だった。「までい」は古語の「真手」が語源で、左右そろった両手のこと。それが転じて、手間ひま惜しまず丁寧に心をこめてつつましくという意味である。東北地方で使われる方言だ。

までいライフ大量生産、大量消費、大量廃棄によって作られた今の日本の暮らしぶりを少し変えてみよう。暮らし方のスピードを少しゆるめたり、「お互いさま」の人間関係を取り戻そうということから始まった。

菅野村長が10数年前に「スローライフ」を提案した。「そうでなくても役場の仕事はスローなのに、これ以上スローになっては困る」という笑い話になるような反対意見も出た。何回も会合を重ねるうちに「スローライフって”までい”ってごどなんだーべか」と村民が言いだした。

左写真は「までいの力(発行SAGA DESIGN SEEDS)2011年4月11日初版発行」のコピー。この1枚から、までいライフの暮らしぶりがお分かりいただけるだろう。

までいライフは、こうして飯舘村に浸透していった。全国にも知られるようになり、黛まどかさんや増田明美さんが呼びかけ人の「日本再発見塾」が、飯舘村で2007年に開かれた。までいライフの詳細は別項で記す。

炊き出しところが、この村は3.11を境に一変。「美しい村に放射能が降った。突然村は汚染された。人も家畜も村を追われた(菅野典雄村長の文)」のである。

飯舘村のほとんどは、原発から30キロメートルの同心円の外側にある。だから、最初は同心円の中に入っている浜通りの人たちが避難してきた。村人が炊き出しや受け入れに寝る間も惜しんで働く写真が残っている(左「飯舘村2年間のあゆみ」のコピー)。

ところが!3月15日に雪や雨が降ったことで村の放射線数値が急上昇。4月22日には、村全体を計画的避難区域にすることを国が決めた。この日を境に、全村避難が始まった。避難者を受け入れていた村が、一転して自分たちが避難しなければならない村になった。飯舘を愛していた人たちが、自分たちに何の落ち度はないのに飯舘を追われる。こんな理不尽なことがあっていいものだろうか。


あの日からすべてが変わった


新幹線の福島駅に迎えに来てくれた藤井さんの車に乗って、飯舘村を目指す。まず川俣村の「やまゆり保育所」に寄った。もともと飯舘村の保育所だったが、隣の川俣村に保育所ごと避難している。しかし、震災前に53人いた園児は今は4人。移動図書館「こあら号」が駐車していて、絵本を選んでいるところだった。4人しかいない保育所にも移動図書館が寄る行政のきめ細かさに感心した。オーストラリアから震災見舞いに贈られた車なので、「こあら号」と名づけている。

川俣村には、小中学校も1ヶ所に避難している。「中学校はもともと1校ですが、小学校は3つあったので、小学校の校長は3人いるんですよ。生徒の住まいが広範囲に分散しているので、15台のスクールバスが走っています。1時間もかけて通学している生徒もいますよ」

藤井さんは、私たちが知りたいことを要領よく話してくれる。

「ここからが飯舘村です」と教えてくれたことで、全村避難の村に入ったことを知る。津波で流された岩手県や宮城県の被災地と違って、住宅の骨組みと土台だけが残っている悲惨さはない。一見すると、桃源郷のような村里だ。「こんな時になんですが、紅葉きれいですねえ」と思わずつぶやいてしまった。

こあら号 きれいな紅葉

やまゆり保育所に
来ていた移動図書館
オーストラリアからの寄贈車


訪れた10月31日の紅葉
住むことが出来ないばかりか
紅葉狩りも出来ない


ところが、よく見ると田や畑には雑草が生い茂り、実りの秋を迎えても黄金色の稲穂はない。道端のススキやセイタカアワダチソウが勢いを増している。松ぼっくりから芽生えた小さな松が、パークゴルフ場を覆っている。

「久しぶりに村に入ったのですが、こんなに草がぼうぼうして・・。以前はどこもここも手入れが行き届いていたんですよ。きれいな村だったのに涙が出ちゃうなあ」と藤井さんが溜息をつく。

雑草が生い茂っている田 ゴルフ場の芝生
 
本来なら黄金色の稲穂が
見られる田んぼに
雑草が生い茂っている

 
村民が自分たちの
楽しみのために作ったパークゴルフ場
芝生が荒れて小さな松が育っていた


幼稚園や小中学校の建物は残っているが、子どもたちの歓声は聞こえない。立派な住宅もカーテンや雨戸が閉まったままで、人声は聞こえない。商店のシャッターは下りたままで、自販機にも販売中止の張り紙がしてある。ちなみに、3.11の災害で倒壊した建物は1軒もなく、地震による被害は、ごくわずかだった。

無人の小学校 カーテンが閉まった民家
 
モダンなデザインの小学校
校庭にも校舎にも
子どもの歓声はない

 
カーテンが閉まったままの民家
ときどき帰宅することはできるが
店もない状態では長居はできない


広い牛舎には牛は1頭もいない。藁が放置されたままだ。もともとこの村の産業は畜産と農業である。特に飯舘牛というブランド牛は、高級黒毛和牛として人気があった。人でさえ避難先を探すのが大変なのに、牛となれば簡単には見つからない。繁殖牛1612頭はセリにかけられ、肥育牛は食肉市場に出荷、乳牛は全頭、屠殺処分されたのである。

「中には北海道や県内で畜産業を継続していますが、ほとんどは休業です。高齢化で事実上は廃業になるところも出てくると思います」

主に花を栽培していたビニールハウスも骨組みだけになっていた。特にトルコ桔梗は、寒暖の差が大きいので発色が良いと評判だった。

牛舎 壊れたままのビニールハウス
 
広い牛舎には
牛は1頭もいない
震災後処分された

 
主に花を栽培していた
ビニールハウス
鉄骨だけが残っている


飯舘村の面積は、230.13平方キロメートル。横浜市の約半分だ。そのうち75%が森林。「むらの本屋さん」が今は除染事務所になっていて、除染作業の調整をしているが進展しているようには見えない。面積が広いうえに森林が多いので、いつ終わるか見当もつかない。

「除染が国交省の担当だったら、もっとスムーズかもしれませんが、環境省が担当なのです。国と大手ゼネコンが間に入り、作業をするのは4次下請け。住民が納得するような除染が出来ないんですよ」と、穏やかな藤井さんも不満をもらす。

全村避難の情況に変わりはないが、私たち部外者も普通の服装のまま村に入ることはできる。もちろん藤井さんが一緒だからだが、案内者がいても絶対に入れない地区が長泥地区だ。放射線量をはかる計器を手にした係員が「私たちも、週に3日しか勤務できません」と話してくれた。

悪臭がするわけでも、煤煙が登っているわけでもない。ゴミや瓦礫が散らばっているわけでもない。空は青く空気は澄みきっていて、木々は色づいている。目に見えない放射能の怖さを、この時ほど感じたことはない。

除染 帰還困難地域
 
除染作業中
表土の黒土を
取り除いている

 
帰還困難区域で
通行止め
係員が立っていて
入る事はできない


飯舘村めぐりの最後は、村役場。失礼ながらわずか6000名の村民の役場にしては、非常に立派。こう聞くと、東電から村に交付金が出ているからだと思う人もいるかもしれない。でも飯舘村は、原発から30キロメートルの圏外にある村。もともと交付金など出ていない。村の山の木を切りだしたり、市場に出せない疵のある御影石などを使って建築費を抑えたという。

役場の会議室でコンビニ弁当を食べながら、取材が続く。聞きたいことは山ほどあるが、福島市で寄るところが残っているので、心を残したまま飯舘村を後にした。

役場 取材
 
飯舘村の役場
飯舘産の材木や
石材を使って建築費を
抑えている

 
役場の大会議室
弁当を食べながら話を聞いた
全村避難など大事なことは
ここで決められた



 体重が2.1キログラム増えた


飯野出張所最後に、福島市に避難している村役場飯野出張所(左)に寄った。飯舘村の役場にも数人が勤務しているが、職員のほとんどは、福島市役所飯野支所に居候しながら働いている。広々とした村の役場に比べ窮屈そうだが、寸暇を惜しんで働く職員の姿が印象に残った。

「震災前に比べ仕事量は大幅に増えています。前は半日で何件も回れたのに、今は住まいが分散しているので移動ばかりに時間がかかり、件数がかせげません。村に戻ったときのことを考えると、職員は増やせないのです。少人数でもよく働いてますよ」

全村避難の指定は解除されていないので、村外避難が原則。でも、特別養護老人ホームのお年寄りはそのまま村に留まっている。老人に寄り添った行政の優しさと気配りを感じた。

いっとき帰宅バスちなみに平成25(2013)年10月1日現在の避難状況は、福島市に3793人、伊達市に576人、川俣町に551人、相馬市に435人、南相馬市に371人と、福島県内に大半が避難。近隣市町村に避難している人が多いので、1時間ほどで村に帰宅できる人が約9割。「いっとき帰宅バス」(左)が避難先と村を結んでいる。

県外は、埼玉県に75人、神奈川県に71人、東京都に59人、宮城県に54人、栃木県に41人、北海道に36人など。

施設別にみると、仮設住宅に1174人、公的宿舎に495人、アパートなど借り上げ住宅に3833人、親戚宅・老人ホーム、病院などに617人。

この数字を知ると、そろそろ3年になるというのに、いまだに過酷な環境にいる住民の姿が浮き彫りになる。中には、1家が5か所に分散している例もあるという。

役場の中藤井さんの今の仕事は健康福祉課の課長。分散しているすべての村民の健康と福祉に目を配っている。

「40歳以上1032人の住民健診の結果を、平成20〜22年の平均と平成23〜24年を比較してみました。体重では2.1キログラムも増加。血圧、コレステロール、糖尿の値も上昇。これじゃ、成人病まっしぐらです。なんとかして身体を動かしてもらうようフィットネスクラブに依頼するなど工夫しているのですが、狭い仮設やアパートにいる人は、それだけでもストレス。病が進行してしまいます。仮設で孤独死などの情況にならないように、見回りが欠かせません」

左は役場にうかがった午後5時ころの様子。誰も帰り支度をしていない。藤井さんも、5時からは本来の仕事が待っているのだろうなと、すまない気持ちになった。


 どこにいても いいたて 「までい」のわ 


実は、訪れる前に心配したことがある。全村避難が解除される見通しもない。予定は延びるばかりだ。村民でさえ、帰還をあきらめているという話も聞いている。村に帰りたくない人の割合が若者ほど多くなっている。こんな情況で村の再建など出来るのだろうか。藤井さん達がやっていることが無駄になるのではないか。みんなやる気を無くしているのではないか。

ところが、元の役場で会った人も、今の役場で会った人もみな明るい。不安がないはずがないのに前向きだ。
どこにいても いいたて ”までい”のわ」をスローガンに、避難先でもハツラツと生活している方の話をたくさん聞いた。

どぶろく、純米大吟醸、味噌など、までいな村で作っていた頃の味を復活させている。普段着として使える「までい着」を縫って販売したり、「かあちゃんが作る古里の味」の店を開いている「かあちゃんグループ」もある。

なかでも、新幹線で帰宅する前に訪れた福島市野田町のカフェ「椏久里」での出会いは、私たちの心を明るくした。太い梁がむき出しの店内、何種類ものコーヒー豆とカップがそろったカウンター、手で豆を選り分けている作業を見て「ステキですねえ」と、歓声をあげた。それを聞いたオーナーの市澤さんは、「飯舘の店は、山の木を切って作ったので、もっと良かったんですよ」

椏久里 椏久里のオーナー
 
福島市野田町の
珈琲店「椏久里」
外観も内部も太い木が
使われている

 
「椏久里」のオーナー
市澤美由紀さん
とびっきりの笑顔に
癒される


自家焙煎の「椏久里」は県外からも客が来ていたカフェだったが、閉店を余儀なくされた。ところが、震災の年の7月には、福島市で「椏久里」を再開。4月22日の全村避難からわずか3か月のスピードに驚く。

市澤さんは、1989年から5年間に実施した「若妻の翼」の1期生。「若妻の翼」は、「若いヨメ」がヨーロッパに飛んでヨーロッパの村を視察する村の事業である。彼女たちが帰国すると、村はみるみる変化していった。若妻の翼は、今につながる飯舘の活気と輝きの中心になっている。こんな人がいる限り、飯舘の未来は明るい。余談だが、市澤さんのお嬢さんは結婚して都筑区の北山田に住んでいるそうだ。


 福島の農産物を食べて欲しい


「ところで、私たちが協力できることはありますか」

「福島の農産物を積極的に購入して食べてください。市場に出回っている福島産はすべて検査済みで安全です。飯舘村は除染が終わってないので農業は再開できませんが、再開したら、ぜひ買ってください」

「もうひとつ、生活の中でエネルギー消費を考えて欲しいです。生活を”までい”にすることが大事だと思うんです」

村長室「最後に少し聞きにくいのですが、こんな大変な飯舘村に転職したことを後悔していませんか」

「いやあ後悔などしていませんよ。大きい自治体だと、自分の意見がすぐ伝わらないもどかしさがありますが、ここでは村長がすぐ隣の部屋にいるので、直接意見を言えます。村長の求めるレベルが高いので、簡単にはOKが出ませんが、判断が早いので助かります。震災前からいろいろな事をやっていたことて繋がりができて、今の僕があると思っています。前にも話したように、飯舘村に呼ばれたんです」

左は、村長室。職員の部屋のすぐ隣にある。残念ながら、村長は出張中でお目にかかれなかった。

早朝の東京発新幹線に乗ったときは、少し気持ちが重かった。でも夜に福島を去るときには、飯舘のみなさんの健気さに励まされ、気持ちが軽くなっていた。
                       (2013年10月31日 訪問  HARUKO記)

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