3年になろうとしているあの日以来、ずっと私の心に住み着いて、忘れたつもりでいても、ときどき不意にやってきては「何やってるの!」と叱咤される。 地震、津波、福島、原発、放射能・・・・。 日本人はきっと、そうじゃないだろうか。あの時の、悪夢のような大災害のテレビの画面を見た者は、忘れるはずがない、と思う。 その中でも飯舘村は高線量の放射能汚染ながら、避難が遅れた特別な地域として再三マスコミに取り上げられる。 私は、都筑区誕生の前年から、生涯教育学級を3年間運営することになったが、社会教育主事の藤井さんが声を掛けてくれたからだった。(私はそれがきっかけで地域活動にのめり込み、家の中に落ち着けないヘンな?人生を送ることになった・・・。) その飯舘村は、大都市横浜とは真逆の自治体だった。6000人足らずの人口ながら、20の集落単位を行政区として、予算(10年間で1000万円)も与えられた自治権があったのだそうだ。そのほかにもアイディアに富んだ村の事業の数々がすごい!(このことは別の機会に書かれると思う。)
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見たところ何一つ問題がなさそうなのに、ヒトだけがいない風景の不思議。 瓦礫やヘドロと違い、見えないものを取り除くという作業の困難。 実情とかみ合っていない国の対策と予算の使われ方の壁。 “世界で最も美しい村”は、今、“世界で最も難しい村”として、だれもが経験したことのない困難と向き合っていました。 けれど。 “今、どこに暮らしているとしても、村人ひとりひとりの幸せを目指す”というスタンスを変えない村の村人は、たとえ今、土地が失われていても、nowhere(行き場がない)なんかじゃなかった。振り返り見れば、私のほうが、ずっとnowhereでした。 震災前は、高齢化+過疎化+産業の空洞化というマイナスを、逆に力にして、飯館はプラスに変えてきました。 今も、これほどの状況にありながら、どこかユーモアを忘れず、飯館はけっして諦めていません。 学ぶこと、勇気づけられることがたくさんある。 飯館スタイル、まぶしいです。 (singbooboo) |
私が飯館村に行って感じたことは、「人は多くの人々との繋がりを持って生活 そして交ステの繋がりの中からこの方を通して住む人のいなくなった寒村を知 70年あまり前の遠い過去に起こった、すべてを破壊尽くした原爆の放射能の恐
原子力の利用は人間の力の及ばない自然への挑みであり、その結果としてもたら まして原子力発電の恩恵には与れなかったのではなかろうか。 しかし、人間の欲望、言い換えれば向上心と文明のあくなき発展の元に、不条理 「何とかしたい、どうにかしたいと、もがいている人たちはまだ大丈夫だが、
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