46回「図子俊子さん」訪問の時に、男性では唯一の横山徳三郎さん(67歳)が、NPO法人「結ぶ」に加わったことを聞いた。メンバーになったばかりなのに、図子さんが「徳さん」と呼ぶほど会になじんでいる。 横山さんは東日本大震災(平成23年東北地方太平洋沖地震)の時に、福島県双葉郡浪江町に住んでいた。浪江町は、爆発事故を起こした福島第一原子力発電所に近い町。 地震の瞬間、その後の激動の数ヶ月、今日まで続く6年間の避難生活の様子をぜひとも聞いてみたい。そんな思いに駆られていた5月9日、「ネットカフェかがはら」で横山さんの講演があった。震災の様子と現状を淡々と語る口調に思わず引き込まれ、1時間半があっという間に過ぎた。 講演後に、別の日のインタビューをお願いしたら快く受けてくださった。今回は、交流ステーションのレポーターに加わったばかりの大学4年生のMさんも同行。Mさんは、大学のゼミで何度か福島の被災地を訪れたことがあるという。
記事を読んでくださる方に、福島県双葉郡浪江町の位置を知ってもらいたい。左地図は浪江町のHPから借りた。 浪江町というと福島県浜通りの町というイメージがあるが、実は太平洋岸から阿武隈山系まで東西に広がっている。 右下の赤い○印が、福島第一原子力発電所。海に接するブルーの部分が、今年の4月に避難指示が解除されたところ。町役場もあり、町民のほとんどはこの区域に住んでいた。とはいえ、実際に帰還している町民はわずかである。 ピンク色、つまり浪江町のほとんどが、いまだに帰還困難区域になっている。原発事故から数日後に分かったのだが、放射能は北西の風にのって運ばれた。原発からみて北西の地域がいまだに帰還困難区域である。 原発からの距離と放射線量の高さは比例しないことがよく分かる。電力会社や国が決めた安全圏の数字がいかに間違っていたか。
左の名刺でお分かりのように、横山さんは浪江町津島地区で、ロッジ&山小屋「つしまのとく山」のオーナーをしていた。2011年3月11日までは。 6年経過した今も、帰還の見通しはまったくなく、「私が生きている間は、もう戻れないでしょう」とつぶやく。 「ロッジや山小屋を壊して更地に戻したいのですが、業者が入ってくれないんです。自分の所有地に入るにも申請書が必要です」 「津島にロッジを作ったのはいつですか」 「2003年です。ロッジの営業がやっと軌道にのった8年後に、なにもかもが滅茶苦茶になりました」 「2003年というと50歳ころですね。それまでは何をなさっていたんですか」 「技術系のサラリーマンです。最初は出身地の大阪の外資系の会社に19年間。仕事にマンネリを感じ始めたので、転職して関東地方に来ました。6回転職しましたが、そのたびに給与はよくなったのです。実力とは思ってません。運がよかったのです。待遇はいいけれど勤務時間が長い。時間に縛られて家庭を顧みる時間もなくなりました」 「このままで良いのかな。身体が動くうちに何かやりたい気持ちが芽生えました。はばったい言い方ですが、企業戦士やその家族の憩いの場を作りたかった。でも作られた観光地や人ごみは好きでない。理想の地が津島だったのです。標高は500mなので夏は涼しい。山に囲まれているとはいえ、車を30分も走らせれば海。山も海も満喫できる場所です。1万坪の山を買い、重機で開拓しロッジも自分で建てました」
「私も”とく山のロッジ”で1週間ぐらい過ごしたかったです」 「お客さんのターゲットは企業戦士やシニアの方。テレビも時計も置かない環境に嵌った方に喜ばれました。自炊したい方、朝食だけの方、昼も夜も食べたい方、すべて自由でした。自由に使える炊事場もあったのです」 「有名な観光地ではありません。失礼ですが、客集めに苦労しませんでしたか。定員は36名でしたね」 「ネットのおかげです。それにほとんどがリピーターでした。意外なことに、仙台からの客が3割を超えていました。”じゃらん”で調査した東北地方の50人以下の宿泊施設NO1に選ばれたんですよ」 NO1に選ばれた施設の写真をどうぞ。「使えない施設の紹介など意味がない」と言う声も聞こえそうだが、原発事故でこんなに素晴らしい地域に立ち入りすら許されなくなった、夢が軌道にのりはじめた矢先に生活の基盤が滅茶苦茶になった横山さんの無念を感じとって欲しい。
「津島は原発から3q圏内に入ってないので、最初は避難指示が出なかったのですね」 「避難指示が3qが10qに拡大された時に、浪江の海岸部の町民1万数千人が津島地区に避難してきました。津島は30qも離れていますが、放射能が北西に流れたので津島も被爆していることが分かり、隣接している二本松市に避難せざるえを得なかったのです。今でも5000人以上の浪江町民が、二本松の仮設住宅や借り上げ住宅にいます。私たちも二本松に避難しましたが、当初は避難がこんなに長引くとは思っていませんでした」 浪江町の地震の被害と避難の様子は下の写真でどうぞ。 「二本松では、二本松に置かれた浪江町役場の臨時職員や社協(社会福祉協議会)で仕事をなさっていたそうですが、どんなことを?」 「仮設や借り上げ住宅を回って避難者の現状把握につとめました。孤独死が出ないように気をつかいましたよ。その後、子どもの学校の関係で二本松から郡山に移りました」 「人間はお金のことになると醜くなるものですよ。『浪江のヤツは賠償金をもらいやがって』という声が、あちこちから聞こえてきました。それ以後は浪江出身と言えなくなりました。他の場所の例ですが、賠償金が”片や億、片や0”の場合もありますから。被災者同士がいがみ合う現実は悲しいことです。震災さえなかったら、こうした分断はなかったのです」
「福島を離れて都筑に越してきたのは、2016年6月、1年前だそうですね。お子さんが上の学校に進んだり就職したからだと聞いていますが、都筑に決めたのはなぜですか?横山さんの場合は、何番目かの避難先ということになりますね」 「大阪の会社を辞めて、最初に転職した会社も2番目に転職した会社も都筑区だったのです。だから地理的にも馴染みがありました。もうひとつの理由は、大阪には子どもや孫、東京や名古屋にも子どもがいます。都筑は新幹線の駅にも近いので、行き来が楽なんです」 「震災でバラバラになってしまった家族の拠点として、都筑区が都合がよかったのですね」 「都筑に越してきてほんとうに良かったと思うのは、堂々と『浪江町から来た』と言えるようになったことです。区民活動センターで「結ぶ」のパンフレットを見て、わすれない3.11の活動を続けていることに驚きました。すぐに図子さんに連絡をとりました。最初は福島から来たことを黙っていようと思いましたが、図子さんたちに出会ってからは、胸をはって言えるようになりました」 福島の子どもが横浜市の学校でいじめられている現実がある。でも横山さんのように「福島から来た」と堂々と話そうとしている方もいる。「これからは、メディアが報道しないことも発信していきたい。講演希望があればお話したい」と横山さんは最後に強調した。ご希望の方は「結ぶ」か「交流ステーション」に連絡して欲しい。 左写真は、「ネットカフェかがはら」(毎月第2火曜の午後、加賀原地域ケアプラザ)での講演後のひととき。(2017年5月訪問 HARUKO記) |
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