都筑区川和町にある前田陽康(きよやす)さんのお宅を訪問してきた。左写真は前田家の門。 川和町はニュータウン開発の地域外なので、細い道が入り組んでいるうえに目印になる大きなビルもない。「駅から徒歩で10分ほど」と聞いていたが、たどりつくのに30分もかかった。ひとえに私の方向音痴のせいだ。 迷ったおかげで、竹林、杉林、夏の作物が実る畑、ビニールハウス、新しい住宅地、八幡神社、瑞雲寺、天宗寺を目にしながらの散策になった。江戸時代に天領だった名残を感じる一画である。 交流ステーションで5年前に取材した伝統文化を探そうイベントと、2年前に取材した外国人の茶道点前と三味線演奏に、前田さんの名前と簡単な紹介が載っていた。このレポートを読んだ時から、ぜひともお会いしたいと思っていた。 「前の取材から2年以上過ぎ、94歳になっているはず。お元気かしら」とイベント主催者「都筑プロジェクト」のリーダー・井藤さんに聞いたところ、「お元気!お元気!」という答えが返ってきだ。 実際にお会いした前田さんは、写真でお分かりのように、顔艶もいい、腰も曲がっていない、背筋も伸びている、細かい年月日をよく覚えている、声もはっきりしている、いまだに新しい事に挑戦している、初対面の私にも終始笑顔で気遣いを見せてくれる・・などなど、驚くべき94歳だった。 なんせ94年の生涯だから、話はつきない。「どうせ暇だから」の言葉に甘えて、1回目の訪問は3時間半に及んだ。 話題にちなんだ物証を、次から次に出してきてくださる。そのどれもが私にはお宝。「わ〜すごい」を連発してしまった。
前田さんのご先祖は、加賀前田家の家臣だった。関ヶ原の戦い(1600年)後に、この地に来たと言われる。秀吉の五大老だった前田利家は、関ヶ原の戦い前年に亡くなった。秀吉と利家の付き合いからいえば、前田家は西軍につくのが当然のように思うが、長男の利長は家康側の東軍に、次男の利政が西軍に味方した。 「利政の家臣だったので、加賀に帰れずに、ここに逃げてきたということでしょうか」 「ここに来た理由は分かりませんが、約400年前に住みついたのは、過去帳や位牌などからはっきりしています」 「お殿様と同じ苗字ですが、親戚ですか」 「親戚ではないと思います。でも加賀藩の梅鉢紋を使うことは許されましたし、代々甚五兵衛と名乗り、僕は17代です」と言いながら、梅鉢紋がついた提灯、馬に乗るときに使う馬上提灯、名刀の数々を見せてくださった。玄関には、梅鉢紋がついた鎧が飾ってあった。
都筑区に、もと御武家さまが住んでいるなど、思いも寄らなかった。「世が世なら、甚五兵衛お殿様ですね。こんなに近い距離でお話できて光栄です」と、私はお殿様を見上げた。
前田さんは、小学校4年生まで川和分教場、5年と6年は都田小学校に通った。都田小の同級生100名ちょっとの中で、中学に進学したのは前田さんをふくめ3人だけ。90年前の農村地帯は、これが普通だった。 「先先代が、長男は勉強する必要ないと考えていたので、最初は橋本の県立養蚕学校へ行きました。でも農業は好きじゃない。化学を勉強したくて、弘明寺の商工実習学校に転校したんです。ところが弱紅緑色盲だと分かり、それでは化学ができない。中学3年の時に、電気学校(今の東京電気大学)に変わりました」 「東京の神田まで通ったんですか」 「6時55分の中山発の電車に乗れば、神田に8時に着きました。中山までは自転車。砂利道で自転車でも難儀しましたよ」 「電気学校で予科、専修科、本科と進んだ19歳のとき(1939年)に、転機がありました。東芝の研究所から航空通信の技術者が欲しい、成績が10番以内の学生は東芝で研究するように言われました」 「そのうち、航空隊に抜擢されて外地に行くことになりました。昭和16(1941)年8月に広島を出発し、釜山(今は韓国)を経て、満州のハルピン(今は中国の黒竜江省)に到着。ハルピンでは第12野戦航空隊に属し、終戦まで5年間もいたんです」 「技術者なのに、戦闘の訓練もなさったのですか」 「航空隊でも、飛行機の不時着に備え、歩兵と同じような訓練もしましたよ。肉体も精神も限界まで鍛えられました。私が元気なのは、ここでの訓練があったからこそです」 左は、昭和19年11月の前田さん。ハルピンの11月は冬景色だ。 「今もステキですが、若い頃の前田さんもカッコいいですね」と、写真を見つめてしまった。 「入隊後3年以上経ったときです。中隊長になっていたので、狩猟に行く時間もありました。持っているのは雉です」と、嬉しそうに説明してくれた。 この時代の戦友30人ぐらいとは、20年ほど前までは毎年前田家に集まって宴会をしていた。 「戦友ほどいいものはないですよ。でも同期は僕だけになりました」
ハルピンで終戦を迎え、軍隊生活は終わった。 「戦地に行っていた間も、東芝は給料を払ってくれたんですよ。その恩返しもあって、1年間は東芝に残りました。戦時中の部品を集めて”スーパーヘトロライン”というラジオを製品化したんです」 「一流会社をなぜ辞めたんですか」 「家業を継がねばならなかったからです」 「明治4年までは寺子屋をしているような家でした」と言いながら、当時の文机(左)を見せてくれた。 「代々文化的なことに関わっていたこともあって、明治35年から教科書取次供給を頼まれました。川和には都筑郡の郡役所があり、郡の中心地でした。都筑郡すべてをカバーするには都合よかったのでしょう」 「新聞社の支社もしていました。東神奈川まで新聞を取りに行って、都筑郡一帯を一日がかりで自転車で配っていました」 ちなみに、都筑郡は今の都筑区よりはるかに広かった。都筑区の全部、旭区の全部、緑区の全部、青葉区の全部、保土ヶ谷区の一部、港北区の一部、瀬谷区の一部、川崎市麻生区の一部が含まれる。 川和に郡役所がおかれたのは、1879(明治12)年。以後、周辺地域の政治経済の中心だった。今の川和から当時のにぎわいを想像するのは難しいが、前田さんは中心だった頃の川和をよくご存知だ。 明治35年に始まった教科書取次供給の家業は、(株)教栄社(青葉区荏田町)として今も続いている。 「教科書の販売は4月がピーク。他の季節は何をしているんですか」 「教科書だけだったら、従業員を雇ってられませんよ。教材、OA機器、理化器具、文具、紙製品などいろいろ扱っています。昔は卒業証書の木版印刷もしていました。版木は蔵にとってあります。」 前田さんは、教栄社の社長と同時に、(株)神奈川県教科書販売株式会社の取締役、(株)神奈川県神奈川図書販売の理事、全国教材教具の理事長も兼務していた。 長年にわたるこうした仕事に対し、2003(平成15)年に黄綬褒章を授与された(左)が、10年ぐらい前に教栄社の仕事から手を引いた。今は長男と次男と孫が跡を継いでいる。
仕事が忙しい人ほど趣味にも没頭すると言われるが、前田さんも水泳や山登りをしていた。それに加え、40代後半からは伝統文化にも興味を持つようになった。 なかでも、裏千家の茶道は、今日庵(裏千家の家元)の免状を15枚も持っている腕前。前田宗陽という茶名もお持ちである。極め付きは、待合まである本格的な茶室を建てたことだ。 「50年位前に、道路整備のために敷地を提供してくれと頼まれました。江戸時代の書院を壊すことになり、その材木で茶室を作ることにしたのです。茶室”山鳴庵”は、先代の俳句の雅号から取りました」
”静”の茶道に対し、”動”の抜刀という武術も身に着けた。「抜刀ってどんな技ですか」と聞いたら、刀を取り出して実演。こんな風にちょっと質問すると、何倍もの時間をかけて丁寧に説明してくださる。「前田さんに会った人は、みなさんお人柄に魅了されるんですよ」と井藤さんが言っていたことは、本当だった。 ランプの蒐集も半端ではない。外国のをふくめ400個ぐらいある。
せっかく作った”山鳴庵”を、1年に1度も使わないことが多くなった。「地域の皆さんに気軽に利用してもらうには、どうしたらいいだろうか」と、前田さんは区活動センターに相談をもちかけた。左写真は、山鳴庵全景。 「つづきパソピア」など地域で活躍し、しかも茶道を嗜んでいる井藤美知子さんに声がかかり、山鳴庵を活用する都筑プロジェクトが発足した。今から6年前の2008年7月である。 なお、都筑プロジェクトは、2010年4月から神奈川まちづかい塾という組織の4プロジェクトのひとつになった。 山鳴庵のお披露目は、2008年10月13日の十三夜の月見の会。それ以来、庵主の前田さんと共同で、いろいろな催しを行っている。プロジェクトのメンバーは発足当時は少なかったが、今は26名に増えた。 「毎月第2日曜日に集まって、庭や部屋を掃除してから、お茶を楽しんでいます。見学に来てください」と言われ、7月12日にお邪魔した。その日は、たまたま茶室の障子貼りをする日だった。毎年障子の貼りかえをしているのかと思いきや、なんと初めて。 メンバーの友人である障子貼りのプロの指導のもと、まず古い紙をはがすことから始まった。そのときの様子は都筑プロジェクトのブログに載っているので、見て欲しい。私も少しだけ手伝ったが、由緒ある茶室をみんなで協力しながらきれいにしていく一体感がなんとも言えない。休憩どきの抹茶の味も一段と美味しかった。
前田さん自身も、庭の草取りや手入れに参加していた。炎天下など気にもしない様子。身体を鍛えている方はこうも違うのだなと、若さと活力に圧倒されてしまった。 ひと訪問するたびに、年齢のわりにお元気な方にお目にかかり刺激になっている。今回の前田さんは今までの35人の中で最高齢である。東京オリンピックの時は100歳。前田さんは今と同じようにお元気なような気がする。「100歳の前田さん」の訪問記事を書きたいものだ。 (2014年7月訪問 HARUKO記) |