荒武千恵子さん(81歳)さんにお会いしたいと思ったのは、2年前の7月だ。朝日新聞の「声」に「戦争体験のブログを立ち上げたら、若者からも反響があった」という都筑区の方の投稿が載っていた。

都筑区にこんなステキな方がいると、メモに書き留めた。

そのあとすぐ2009年8月の週刊誌「アエラ」に、荒武さん訪問記事が載った。

荒武さんそして今年の8月10日、取材したいことを電話口で伝えたら「あら!今日のNHKの首都圏ニュースに私が出るんですよ」。

なんとタイミング良いときに電話したものだと嬉しくなって、もちろんテレビの前に座った。

週刊誌に掲載されたのも、特集番組が放映されたのも、8月。荒武さん(左)がブログを始めたきっかけが、「戦争体験を若い人に伝えたい」だったので、8月15日の終戦記念に合わせての企画だ。

9月半ば、荒武さんのお住まいに近い「都筑地区センター」の一室で、インタビューさせてもらった。ところが、密度の濃い80年間を聞いているうちに、肝心な話が終わらないうちに、センターの閉館時刻になってしまった。

ブログを綴っている写真の撮影がてら、話の続きは後日、ご自宅で伺った。



聞いてほしくて 

荒武さんが「80ばあちゃんの戯言」というブログを立ち上げたのは、2009年3月。開設後2年半が過ぎたが、今でもほぼ毎日綴っている。

副題の「聞いてほしくて」のひとことに、荒武さんの思いが詰まっている。命のあるうちに、若い人に戦争体験を聞いてほしいと思った。戦争体験を聞く会に参加してみたが、聴衆はお年寄りばかり。そんな時に、「ブログは手軽に始められるし、無料でできる。若者の間でブログが流行っている」ことをテレビで知り、「若い人に伝える手段はブログだ!」と思ったという。

直後に卓球仲間のKさんから「パソピア主催で、ブログ開設の講習会がありますよ」と聞き、すぐ申し込んだ。

「あら!パソピアには、交流ステーションのメンバーも数人います。地域活動訪問のコーナーでも、つづきパソピアを訪問していますし」。

「そうですか!全体的なことは、王子さん(交流ステーションの副代表)が話してくれました。Yさんが、つきっきりで教えてくれたこともあって、すぐブログを開くことが出来ました。交流ステーションにはご縁があったのですねえ」と、初っ端から話がはずんだ。

自宅でパソコンを打っている様子(左)を拝見したが、キーを打つカタカタが並の速さではない。もちろんブラインドタッチだ。78歳で初めてキーを触ったのなら、文の入力が大変だったはずなのに、受講後すぐにブログを開設したという。「なんとまあ、器用な」と思ったのだが、その謎は後で解けた。


なにはともあれ、開設日のブログをお読みください。

2009-03-05 15:18:36 |
私、数えの80歳。でも、私が生まれた頃は年齢の数え方が現在の方法と違っていたので本当はまだなんです。昔は生まれたその日が一才。新しい年がくると一つ年をとるという風でしたから、もし、大晦日に生まれたとしたら、翌日には2歳ということになるんです。で、私は目下78歳のしわくちゃのギャルです。

よくもまあこの年まで、たいしたこともなく無事に過ごせたものだと、われながら、感心したりあきれたり。でも、考えてみれば、本当にいろいろなことがありました。

よく、怖いものは地震、雷,火事、親父とかいいますけど、私など、その上に戦争というもっと怖いものもたっぷり経験しているんです。お若い方は地震のことや津波の被害などはよく御存知。でも、戦争はまったく比べ物にならないんですよ。地震でも津波でも、ある一定の期間が過ぎれば落ち着くでしょうが、戦争はそうはいきません。

私は、小学校の5年生の12月8日から女学校3年生の8月15日まで、戦争を体験をさせられていたわけです。当時横浜で焼夷弾、爆弾、機銃掃射にあいましたし、四六時中命の心配をしていたのですから。食べるものもろくになくて、いつもお腹はぺッコペコでした。膝ががくがくしていました。栄養失調だったのです。

終戦後は米兵に追いかけられて、あわやというところまでいきました。まあ、あきらめずに頑張って事なきを得たのですが・・・。と、今日はこれまで。次回は戦後横浜での地震で失明の危機をどう乗り越えたかをお話しましょう。ではチャオ

上の写真は、市史編集室の「写真で見る横浜大空襲(平成7年発行」の写真(部分)を拝借した。説明には「汐汲坂から県庁方面」とある。県庁の外観は残っているが、まさに焼け野原である。


昭和20(1945)年5月29日 

東京大空襲については、写真や当時の新聞記事も何度か目にしたことがある。逃げ回った人から直接話も聞いている。でも、横浜にも大空襲があったことを、うかつにも知らなかった。

空襲のときに、荒武さんは、神奈川県立第一高女(今の平沼高校)の3年生。左の、女学校入学式の時の写真(上段の右から2人目)は、焼けなかった友人が、焼き増しをしてくれた。

入学したとて、楽しい女学校生活はわずかだった。授業どころではなく、男手がいなくなった工場で、労働に従事する毎日。

立ちっぱなしで働いても、ろくな食べ物もなく、いつも膝ががくがくしていた。「母はね。育ちざかり、学びたいさかりの時に、かわいそうにと、いつも嘆いていましたよ」と語る。

横浜の本牧にあった荒武さんの家が全焼したのは、昭和20年5月29日。家族は全員無事だったが、家も家財道具もなにもかも灰になってしまった。

「でもね。不思議なことに英語の辞書が形のまま残っていたの。文字が浮き上がって見えたのよ」と、英語が大好きだった荒武さんは、悔しそうに話す。敵性語だった英語は、終戦と同時にもてはやされるようになり、のちに英語力が荒武さんを助けることになる。

前項で紹介した「写真で見る横浜大空襲(平成7年発行」)には、次のような記載がある。

昭和20年5月29日未明、米第21爆撃機機集団所属のB29編隊517機がマリアナ基地を発進し、午前9時20分ころ横浜上空に達し、10時半ころまで約1時間で総数43万8576個の大量の焼夷弾を投下した。・・・中区・南区・西区・神奈川区を中心に、横浜の市街地は猛火につつまれた。この大空襲による被害は、直後の公式発表によれば、死者3,650人、重軽傷者10,198人、行方不明309人、罹災者は311,218人とされる」

同じ本には建設省編「戦災復興誌-1959年-」の抜粋が載っているが、横浜の死者5,830名となっている。3,650人は直後の統計だから、犠牲者はその後2000人以上増えたことになる。


戦争の体験を話したい! 

「若者は、過去の戦争の話なんか興味を持たないよ。だれも読んでくれないだろう」と言う人もいた。でもブログ開設直後から、若い人から、コメントがたくさん寄せられた。「若い人に伝える手段はブログだ!」と思った荒武さんの直感はあたった。

荒武さんの文章は、説教じみたところがなく親しみやすい。みずみずしい感性と好奇心に満ちた人柄がにじみ出ているので、若者にも読まれるのだと思う。

文章も上手だが、話術も素晴らしく、聞いていて飽きない。だからインタビューが2回になってしまったのだが。

こういう荒武さんが、「戦争の体験を話したい」と、ブログでお願いをしている。(2011年8月31日のブログ)

私は、この夏81歳になりまして、今後、そう 何年も生きられるとは思っておりません。そんなに後がないのを痛感しております。

そこで、お願いなのですが、戦争体験の話をさせていただける学校がありましたら、自費で伺いますので、お声をおかけくださいませんか?

戦争体験を若者や子どもたちに伝えたいと思っている方は、交流ステーションか、荒武さんのブログにコメントを書いてほしい

左写真も「写真で見る横浜大空襲」から拝借。「裸足で非難する兄弟」と説明がついている。



ブラインドタッチの謎 

「英文タイプでもなさっていたのですか?ブラインドタッチなので驚きました」と、ぶしつけな質問をしてみた。

「ええ、英文科の学生時代に横浜のPX(米軍専用のデパート)の4階、レディースフロアでアルバイトしていました。客や責任者は、アメリカ人。会話はPXで磨きましたが、タイプは学校に通って身につけました」。

その後、外資系の石油会社で働いたが、長男の出産を機に退職。2人のお子さんの子育てに追われながらも、荒武さんの目は、外にも向いていた。親戚から保育園を継いでほしいと頼まれ、35歳のときに保育科に入学。保育園は継がないことになったが、数年間、先生をしていた。ブログには、当時の幼児が「先生!」とコメントを残している。

44歳のときに応募した1台7役の家事机(左)が、全国発明婦人協会の労働大臣賞を受賞した。机・本棚・アイロン台・鏡台・裁縫箱・ミシン・編み機などが、ひとつの机にコンパクトに収まる家具だ。

この受賞を機に、洋服ダンスなど家具全般を設計する「アイディア家具」の仕事を始めた。全国のデパート、工務店、金具屋との折衝など、東奔西走の毎日だった。経理や書類作成のために、パソコンを使い始めたのもこの頃だ。

72歳で仕事を辞めるまで、アイディア家具は、婦人雑誌・インテリアの雑誌・新聞などで何度も紹介された。本棚には、記事が載った雑誌が並んでいた。

訪問のきっかけは、「78歳でブログを開いた」の投稿だった。でも話を聞いていくうちに、人気ブログ発信者の素地は、戦争体験があったからだけではないことが分かってきた。

さまざまな人や仕事の出会いが積み重なって、ブログを書く感性や、ものの見方を身につけていらしたのだと思う。

話を聞いたことの半分も書いていないような気がするが、不足分は「80ばあちゃんの戯言」を読んで、補ってほしい。もちろん、小さな旅など、さりげない日常も綴っている。読者は、「100ばあちゃんの戯言」を読みたいに違いない。(2011年9月訪問 HARUKO記)

つづき”ひと”訪問へ
つづき交流ステーションのトップへ
ご意見や感想をお寄せ下さい