交流ステーションで埋蔵文化財センターを取材した時に、都筑区は横浜市の中でも飛びぬけて遺跡が多いことを知りました。そのうち80%以上を占めるのが縄文遺跡です。 その意味では珍しくもないのですが、この図の南堀貝塚は、ニュータウン開発の15年以上前の1955(昭和30)年に発掘されました。考古学上、非常に意義がある発掘と言われています。 つづきアーカイブクラブ(TAC)-荒井眞一郎会長-は、ニュータウンの開発で、散逸しがちな資料をアーカイブとして残すことを目的に活動しています。 会員の知人・北村博さんが南堀貝塚発掘時の映画を手に入れたこと聞き、上映会を開くことになりました。 上映会と座談の様子を、取材してきました。 南堀(みなんぼり)貝塚が発掘されたのは、1955(昭和30)年の夏です。 早淵川の北、標高45メートルの台地で、縄文人たちが生活していたことが分かりました。上の想像図にあるように、台地の下には海が迫っていて、背後は山。海の幸にも山の幸にも恵まれた地でした。 今の住居表示では、南山田3丁目40番地あたり。残念ながら住宅地になっていて、当時の面影はありません。記念碑すら建っていません。遺跡もすぐに埋め戻されたと聞いています。 竪穴住居址48、落とし穴、炉穴、縄文土器、石器、貝塚、動物の骨などが発掘され、縄文時代前期の遺跡だと分かりました。住居は広場を囲んで半円状に分布しています。下の写真は映画上映の時に撮影したので、クリアではありませんが、発掘した遺物の一部です。
これらの遺物がどこに保存されているのか知りませんが、映画のおかげで貴重な遺物を見ることができました。 「縄文時代の定型的集落址が初めて完掘された」「学者や研究者ばかりでなく、地元民が参加したことで市民参加発掘のさきがけになった」と、後の考古学者の評価も高く、南堀貝塚は知る人ぞ知る意義深い遺跡なのです。 数軒の農家が所有している農地の下に、重要な遺跡があることが分かり、横浜市の主催で発掘が始まりました。当時、資源科学研究所の研究員だった和島誠一先生が中心になり、大学生や地元の中川連合会、農協、中川小学校、中川中学校、婦人会、青年会も協力したそうです。村ぐるみの協力です。 岩崎さんは「和島先生は目ぼしいモノが発掘されると、緑陰講座として小中学生にも分かりやすい説明をしてくれました。これがきっかけで郷土史に興味を持つようになったんですよ。暑いときの発掘だったので、差し入れのトマトに塩をつけて食べた味が忘れられないです。ガリ版刷りの南堀貝塚発掘ニュースが毎日発行され、それを見るのも楽しみでした」 岩崎さんは64年前のニュースを大事に保存しています。茶色に変色していますが、貴重な資料です(左はニュースの一部を切り取ったもの)。 斉藤さんは「農業の繁忙期ですから、発掘には参加しませんでしたが、発掘で出る土をモッコで運ぶ作業は手伝いましたよ。三笠宮殿下が発掘なさったことを覚えています。殿下がいらしたことで、途絶えていた虫送りを復活することになったのです」 ちなみに斎藤さんは、現在、南山田虫送り保存会の会長。 斉藤さんの奥さまも「大勢の人が出入りして賑やかでした。貝殻がザクザク見つかったのが印象に残っています」
「この時の発掘のことは今でも覚えている。今のようにいろいろな娯楽がない頃だったので、とても楽しかった。子どもでも役に立てていることが、嬉しかった」と話す人は、岩崎さんや斉藤さん以外にも大勢います。80歳前後なのに、記憶が鮮やかです。当時の賑わいと興奮が伝わってくるようです。 この映画は、教育映画作家協会の協力のもと、共同映画社の自主制作です。でも不思議なことに映画は、地元である横浜市歴史博物館にもありません。 北村さんに聞いてみました。 「どこでどうやって映画の存在を知ったのですか」 「ぼくはこの辺りで生まれ育ったのですが、しばらく故郷を離れてサラリーマンをしていました。また帰ってきた時に、都筑には史跡が少ないなあと思い、調べ始めたのです。横浜市史の資料編を見ていて南堀貝塚の映画を撮っていたことを知りました」 「発掘の時は小学校1年だったので、発掘に参加できませんでした。でも映画は見たい。歴史博物館にはない。共同映画社にフィルムが残っていることが分かり、DVDにしてもらいました。かなりの値が張りましたが、持っている価値があると思ったんです」 「今日は貴重な映像を見せていただきありがとうございます。64年前の出来事がきちんと映っていますね。他にもいろいろな資料をお持ちのようですから別の機会に見せてください」
(2019年9月 取材 HARUKO記) |