第7回 つづき
みどりと花のまち巡り
    主催:都筑区区政推進課

都筑区役所 区政推進課 企画調整係の主催する「第7回 つづきみどりと花のまち巡り」が、令和3年5月23日(日曜日)9時〜12時30分の予定で行われた。
当日は、まるで梅雨の合間を縫ったように、晴天に恵まれ、コロナ禍と梅雨のうっとうしい気分を発散するかのように,小学生からシニアまで大勢の参加者がマスク姿でグリーラインの川和町駅に集まった。
参加者約70人は受付をすませた後、7班に分かれて順にスタートして行った。同行するガイドの方(都筑をガイドする会)は、準備していたファイル画像を見せながら、参加者の皆さんへ要所々々に因んだ事柄をわかりやすく解説をしていました。
今回巡ったコースは、川和町駅(集合)→川和市民の森(遠望)→妙蓮寺→中山恒三郎家(横浜市認定歴史建造物)→月出松公園→池辺市民の森→池辺富士→都筑ふれあいの丘駅(解散)で全長約7qを3時間程かけて「みどりと花のまち巡り」を堪能したようであった。
その様子を追ってみましたので、ご覧ください。

写真をクリックすると大きくご覧になれます

集合場所の川和町(川和町駅)は、明治12年に都筑郡の役所が川和に移転してからは、裁判所、警察署、郵便局、司法書士や行政書士の事務所などが並び、商店も軒を連ね、宿屋もあり、洋風建築の洒落た通りもあった。
都筑郡の中心として繁栄していた頃の写真を見せながらガイドの方から、皆さんへ説明があった。
現在の川和町駅前は、春になると駅前の畑は一面に菜の花の黄色で埋め尽くされ、「ポトマック河畔の里帰り桜 (愛称 シドモア桜)」桜の花との共演で、沢山の人が見物に訪れている場所として有名である。

ガイドから資料配布
 コースの概略説明
川和町の生い立ちを語る
 川和市民の森説明  写真後ろは菜の花畑、クリックで菜の花が見れます

碑の背後に植えてあるのがヨコハマダケ。
明治45(1912)年に植物学者である松野重太郎氏によって発見され、大正7(1918)年「Arundinaria matsuno Makino」の学名がつけられた。
発見地はここではなく,横浜市西戸部町字池の坂である。

詳細は、当webサイトつづきゆかりの”ひと”2回目
松野 重太郎さん 」をご覧いただきたい。

道路から一般の住宅の敷地に入った脇に
「ヨコハマダケ」と「石碑」がある
石碑の文字は小さくて読むのが難しい
この井戸の水で酒のビンを洗っていたと言われている 説明看板もないが確かに螺鈿が施された模様になっていた 井戸は駐車場の車と車の間にあった

北朝康永三年(1344)に開かれた妙蓮寺には、本堂・釈迦堂・鐘楼堂をはじめとして、祖師堂や七面堂などの建造物があり、立教開宗750年慶讃・開山650年慶讃事業として新築された祖師堂には日蓮聖人(祖師)像が奉られ、朗慶上人の
彫刻と伝えられる祖師像はその胎内に安置されている。
敷地内にある銀杏(いちょう)・欅(けやき)などの樹々は横浜市古木にも指定されており、妙蓮寺の歴史の長さを物語っている。

*日蓮宗 城根山 妙蓮寺 (webサイトより引用)
http://myouren-ji.jp/

左の建物が新築された祖師堂 本 堂 横浜市古木に指定されている樹々に囲まれている
 


中山恒三郎家

今回の「みどりと花のまち巡り」のメインコースとも言える、横浜市の歴史的建造物に認定(2018年)された中山恒三郎家「書院及び諸味蔵」は、特別な時期以外には公開されていない。
今回、特別に見学がかない「つづき みどりと花のまち巡り」のコースとなっていた。参加者の皆さんにとっては、この上ない幸運に恵まれたのではないだろうか。

中山恒三郎商店について少し説明を加えると、ほぼ35年前の1984年に廃業したので、今はありません。
中山家は、遅くとも江戸時代の17世紀の半ばには川和村に住み、「中山恒三郎家」を興し、酒類の卸や醤油醸造、生糸などを生業とし、横浜北部の大豪商であった。

見学コースの書院には、清酒「白鹿」・「稲正宗」の看板やお酒の容器、書、などが展示されていた。そして松林圃での観菊会、明治天皇がお気に召された3代目恒三郎の代表作”正菊 男山”など当時を偲ぶ写真が飾られていた。

詳細は当webサイトつづきゆかりの”ひと”
55回 中山 健さんをご覧いただきたい。

敷地内の建物は横浜市認定歴史的建造物となっている 松林甫(圃)の
表示看板
みどりに囲まれ、素敵な庭のある書院入り口 松林圃での観菊会を語る
書は中山家の観菊の庭「松林圃」にお見えになられた、正二位土方久元伯爵による 清酒「稲正宗」の看板
蔵にあったのでとても保存状態が良い
ご当主自ら書院に飾られている、清酒の看板や書などの解説
2階が蔵で、1階は店として使われたいた  諸味蔵の見学
 諸味蔵の中は、沢山の当時の物品や資料が分類されつつあった 諸味蔵の右のレンガ倉は醤油工場の麹室だった  諸味蔵で行っている資料整理の現場を見学できた。記録を残すため形の絵や寸法など細かな作業が、今なおつづいている
   

月出松公園は、小高い丘からなり西方に向けて視界が開けており、天気が良く見通しが効く日には富士山や南アルプス連山をも望遠することが出来る。
富士が見れるかもしれないと思いつつ、やっと丘の上にたどり着いた皆さんだが、残念ながら富士山の姿は見ることが出来なかった。

この公園は、遺跡の上に整備された公園で、周囲を緑濃い木立に囲まれた静かな場所にある。
この公園南西側の展望台の石畳みには四神盤が埋め込まれており、東西南北の方位はほぼ正確に表されている。
四神(しじん)とは、東西南北の四方を守る神(守護神)のことで「方位の四神」とも呼ばれ、「四神」の信仰は古代中国で誕生し、日本に伝えられたそうだ。

詳細は、当webサイトこんなところにナニコレ!のNO.23
四神盤にてご覧いただきたい。

 写真にある四神盤は、朱雀(すじゃく)南  天気は申し分なかったが、西に雲が・・・  次は池辺市民の森
       

池辺市民の森は、横浜市が山林を所有者から借り受け、自然を保護しながら公園として2014年に開園した川和市民の森についで、都筑区内2カ所所目の市民の森となっている。
山の斜面に立地しているので、高低差があり参加者の皆さんは、展望広場までかなりきつい上り坂となったようだ。
登りきると少し広い広場になっていて、ベンチやテーブルが設置されていて休憩スポットになっていた。

マスクで覆われ汗ばんだ額に流れてくる風が心地良かった。遠くみなとみらいの景色まで見ることができた。

下記の当WEBサイトに「都筑の風景」の関連画像がある。
https://www.city-yokohama-tsuzuki.net/Landscape/thumbnails.php?album=147

遅れた人がいないか?確認 3秒間の我慢でした
 きつい上り坂  撮影中会話厳禁。密をすばやく解消 美しい竹林の中を進む
     

「池辺(いこのべ)富士」の周辺は農業専用区に指定されている。港北ニュータウンが開発される以前、この辺りは緩やかな丘陵地で畑が広がるだけで、のどかなところであったようだ。
本日の最後の見学地とあってか、疲れている気持ちを引き締め、人が一人通れるくらいの急な階段を登って行った。
山頂には、寛政8年(1796)建立の石作りの祠が祭られていた。
都筑区に現存している富士塚は「山田富士」と「川和富士」、そしてこの「池辺富士」の三基のみである。
毎年6月には、池辺の人々が塚の草刈りを行ない、清掃後礼拝し、飲食を共にしているようである。

下記の当WEBサイトに関連記事が掲載されている。
https://www.city-yokohama-tsuzuki.net/rekisi/rekisi.cgi?num=130

途中で見つけた螻蛄 山頂には祠があった ガイドさんが池辺富士の事を解説
 
 池辺富士は本日の最終地点。山頂は狭いため下で待機  
 
解散地点のふれあいの丘駅.。参加者よりアンケートを回収する区政推進課の課長と担当者。皆さんお疲れ様でした。


子供から若い人やシニアと幅広い年齢層の方が参加され、お寺や文化財、公園、市民の森など盛りだくさんで、「楽しく、新たな発見もしたコースであった。
山あり谷ありの厳しいところもあったが、途中でリタイアすることなく、皆さん充実した「みどりと花のまち巡り」を楽しまれたようであった。
今回特別コースとなった「中山恒三郎家」での見学は、特に印象深かったようである。

  つづき交流ステーション
2021.5.23
濱ちゃん

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