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![]() 主催は横浜市歴史博物館とよこはま地域文化遺産デビュー・活用事業実行委員会だが、ほかにも横浜開港資料館やよこはま芸術プロジェクトPASSAGEなどたくさんの協力を得て開かれた。 公開された中山恒三郎(なかやまつねさぶろう)家(川和町890)の6代目当主・中山健(けん)さん(57歳)を訪問してきた。 横浜市認定歴史的建造物に認定された書院で、色づいた紅葉を愛でながらの贅沢で風流なインタビューになった。 話している間にも、ひっきりなしに見学者が訪れる。中山さんはそのたびに「どちらからいらしたんですか」「質問があったら聞いてください」「庭もじっくりご覧ください」などの声かけや、展示品の説明をおこたらない。 6代目当主は、”気配りとおもてなし”が自然と身についている。
膨大な資料を整理中の中山恒三郎商店は、ほぼ35年前の1984年に廃業したので、今はない。 中山家は、遅くとも江戸時代の17世紀の半ばには川和村に住んでいた。1820年代に中山家当主の五蔵がまだ少年だった息子の初代の恒三郎と共に今の地に移り、「中山恒三郎家」を興した。5代まで代々当主は恒三郎を襲名した。6代目が健さんだ。3代目(明治10(1878)年~昭和5(1930)年)の頃が全盛期だった。 「健さんは恒三郎の名を継がないのですね」 「古い資料による過去の歴代の恒三郎は、商売以外に地域に貢献しています。今の自分では恒三郎を名乗れないと思います。もっと歳を重ねて名乗ろうかなと思えるようになれば良いですね」 同じ都筑区でも筆者の住まいは北の端、川和町は南の端に位置する。それもあって、中山恒三郎商店の存在すら知らなかった。でも見学に来ていた川和町に住む年配の方が、「敷地も広いし立派な門構えで、おいそれと近づけなかった。遠足で菊を見に行った人もいますよ」と話してくれた。近隣はもちろん、神奈川県でも名の知られた豪商だった。 公開中の展示品や整理中の資料の山をこの目で見、その後、中山健さん執筆の冊子「松林甫」を読み、心底驚いてしまった。「おいそれと近づけなかった」気持ちが想像できる。敷地も5,000坪もあったという。 下の写真は資料が見つかった蔵。他にもいくつか蔵がある。
「ところで、この資料が蔵の中から見つかったのは最近だそうですね」 「実は私が蔵に初めて入ったのは20歳すぎてから、正月と年3回神棚をお参りするためでした。蔵の2階に入ったのは50歳過ぎてからです。蔵の2階は危ないから行くなと言われて育ちました。大学卒業後はビール会社のサラリーマンでした。転勤族だったので蔵の中のことには関心もありませんでした」 「それは驚きました。宝の山がそのまま放置されていたんですね。どうして蔵に入る気になったのですか」 「西店(にしだな)という親戚の中山浩二郎が生前『蔵の整理を横浜開港資料館にしていただいた』と話していたので、わが家の蔵も調査したほうがいいと考えるようになりました。開港資料館に連絡したところ、故斉藤司さんと吉田律人さんが来てくださいました。古文書だけでダンボール箱300~400箱ぐらいあったのです」 インタビューをお願いした時に「私は中山恒三郎商店や菊の庭松林圃に何もかかわっていません。功績もありません」と謙遜していらしたが、健さんが蔵を開けて公にする決心をしなければ、貴重な資料は日の目を見なかったに違いない。
2017年4月に、1回目の資料と建物公開が行われた。それに先立っての記者発表に配られた資料には次のように載っている。一部を転載する。 「・・書院やいくつかの蔵に保存されたきた資料は総点数が数万点に達すると思われ、これまで所在が確認されてきた市域の旧家の所蔵資料と比較してもこれほどの量と質の資料群は数えるほどしかない・・」 今回の公開で展示された資料は数万点の中のごくごく一部に過ぎないが、保存状態が良いことにまず驚く。蔵の作りが良かったのだろう。 「ご先祖さまは、なんでも大事にとっておく方だったのですね。電報とか祝賀会の出欠席のハガキまで保存していますね。専門家が驚くほどの資料が残っているのは、区民としても嬉しいです」 「先祖やかかわった方は几帳面な人が多かったのでしょう。今と違って保存する蔵もありましたしね」 「ところで、具体的にどんな商売をしていたのですか」 「初代が江戸時代に酒類販売・荒物雑貨・呉服太物の営業開始、2代目が醤油醸造を加え、3代目が煙草や塩の販売に進出しました。戦後は主に酒問屋をしていました」 「多方面にわたってのご商売ですね。それだけ川和村が繁栄していたことになりますね」 「川和には都筑郡((現在の都筑区・青葉区・緑区・旭区の全域、保土ケ谷区・港北区・瀬谷区の一部、川崎市麻生区の一部)の郡役所がありました。今では考えられませんが、とても広かった都筑郡の中心地だったと聞いています」 下の写真は公開された看板や文書類。
資料の整理と調査が始まったのは、2015年。およそ5年が経過しているが、終わるまでには最低数年かかるという。 今回の公開では、諸味蔵で行っている資料整理の現場を見学できた。横浜市歴史博物館の3人の職員が作業をしていたが、手を休めずに質問に答えてくれた。 「埃がかぶっていたり汚れているモノもありますから、天気の良い日に洗えるものは洗います。1点1点の寸法を測ったうえで、スケッチするなど記録しています。暑い時や寒い時は少しつらいですが、貴重なモノ資料に関われる喜びを感じています」
整理が終わった資料のうち、古記録と写真は横浜開港資料館と横浜都市発展記念館で、モノ資料は横浜市歴史博物館で保存している。清酒の看板などは中山家で保存。
今回の訪問でいちばん驚いたのは、今でも交通が便利とは言えない川和の地に、明治から昭和初期にかけて、皇族や政治家や徳富蘇峰などの文人が、東京から「川和の菊」を見学に来ていたことだ。神奈川停車場で汽車を降り、人力車で訪れたという。外国人向けのガイドブックにも、松林圃の菊が載っていた。 「菊の栽培を始めたのは何かきっかけがあったのですか」 「文政12(1829)年に、中山家当主の初代五蔵が当時10歳の後に初代恒三郎となる息子を連れて、酒の仕入れに江戸に行った時に、幕臣から20余種の菊の苗を分けてもらいました。その後代々の当主が品種改良と新種を育てていったのです。明治14(1882)年に宮内省に献花してから、皇族方もお見えになるようになりました」 「皇族では有栖川熾仁宮親王・閑院宮・北白川宮・竹田宮などもいらしたそうですね。政治家の大隈重信や松方正義などとも親交があったと聞きました」 「明治の終わり頃には1,500種もの菊が栽培されていました。特に3代目の代表作”正菊 男山”は明治天皇もお気に入りだったそうです。菊は皇室の象徴ですから皇族の方には関心があったのでしょう」 下の写真3枚は中山健さん提供
健さんの名刺には、「中山松林甫」の代表取締役以外に、協会から認定された「ソムリエ」「焼酎アドバイザー」の肩書きもある。 「さすが酒卸業の6代目ですね」 「ビール会社にいる時に取らされたんですが、やはりご先祖の影響かもしれません」
「私は、松林甫の地が広く親しまれることを願っています。気軽に多くのみなさまに訪れていただき、来てよかったなと感じていただけるよう工夫せねばなりません。それが6代目の使命と考えています」 「そうしてもらえると嬉しいです。都筑区に新たな名所が誕生しますね」 ちなみに、今の敷地と庭を指す場合には「松林甫」を使い、戦前までの菊の庭で有名だった庭園を指す場合には「松林圃」を使っている。この記事に、両方が使われているが間違いではない。 率直に話してくださる明るい健さんのお人柄にふれ、今後の松林甫の活動を少しでも支援できたらいいなという思いで、訪問を終えた。 2019年12月訪問 HARUKO記 |