記事一覧

フレッドさんに贈られた東京オリンピック1964記念メダル時計

アップロードファイル 18-1.png
アップロードファイル 18-2.png

東京へのオリンピック招致に人生を賭けた男

東京でのオリンピック開催に尽力したフレッドさんに日本オリンピック委員会からメダルの形をした置き時計が贈られました。この時計は、フレッドさんの形見として次男であるエドウィンさん(ちなみに彼の名は江戸が勝つから名付けられたそう)に2001年に受け継がれ、2013年にエドウィンさんが亡くなった際に娘のクリスティさんにまた受け継がれたそうです。デイヴィッドさんが実物を画面越しに見せてくれました。

フレッド・イサム・ワダさんは、1907年9月18日ワシントン州ベリンハムで日系人二世として生まれました。アメリカでの生活が困窮を極めたため、4歳からの5年間は和歌山県の祖父母の家に預けられることになります。再びアメリカに渡り、12歳になるとシアトルの農園で働きながら通学、17歳でサンフランシスコの農作物チェーンに移り、20歳になったときには、オークランド市内に野菜や果物小売店を開業。6年後、正子さんと結婚する頃には3店舗を構えるまでになりました。

しかし、フレッドさんに大きな転機が訪れます。1941年12月8日に勃発した太平洋戦争です。日系人たちは強制収容所行きとなりましたが、これをよしとしない同氏は、総勢130人を引き連れてユタ州へ集団移住し、大規模な農園を開設。経営は非常に苦しく結果的に失敗に終わりますが、私財を投げうって苦労する姿を見ていた仲間たちは誰一人恨むことはなかったそうです。その後、同州で別の農地に移りますが、戦争が終わるとオークランドに戻らずロサンゼルスに移住しスーパーマーケットを開業。カリフォルニア州で17店舗を展開するまでに成長させました。

 フレッド・イサム・ワダさんがスポーツの世界と関わりをもつようになったのは、終戦4年後の1949年の全米水泳選手権がロサンゼルスで開催されたときです。GHQ最高司令官のダグラス・マッカーサーに出国の許可を得ての遠征でしたが、旧敵国として日本人たちは「ジャップ」と蔑称で呼ばれ、ホテルへの宿泊も拒否されていました。現地の日系新聞が宿舎の提供を広告で呼びかけるとそれがワダ夫妻の目に止まりました。すぐに選手団9名全員の受け入れを申し入れ、自宅を宿舎として提供することになったのです。

 フレッドさん家族の献身的なサポートを受けた全米水泳選手権の出場選手たちは、のちに日本のスポーツ史に名を残した古橋廣之進氏や橋爪四郎氏らでした。日本選手団は、同大会で合計9つの世界新記録を樹立。世界中に報道され、敗戦に沈みきっていた日本人に勇気を与えました。また、アメリカ人たちからも正しく「ジャパニーズ」と呼ばれるようになり、日本人に対する目も大きく変わったそうです。

 ロサンゼルスの水泳大会から10年後、総理大臣や東京都知事から重大な仕事の依頼が舞い込みます。それは、1964年のオリンピックを日本に招致するために力を貸して欲しいという内容でした。当時オリンピック開催候補地として東京のほかに名乗りを上げていたのは、デトロイト、ウィーン、ブリュッセルの4都市。開催地の決定は、国際オリンピック委員会(IOC)の58人の委員たちによる多数決で決められます。東京開催の鍵を握っていたのは、中南米諸国の票でした。日本政府から中南米のIOC委員たちの説得を要請されたフレッドさんは、日本のためならと快く引き受けることになります。

東京でオリンピックが開けるなら、店のことなどどうなってもええと思うとる。東京でオリンピックやれば、日本は大きくジャンプできるのや。日本人に勇気と自信を持たせることができるやろう。

しかし、当時外貨不足だった日本政府は、フレッドさんに資金を援助することはできませんでした。それでも東京でのオリンピック開催が、日本が自信と誇りを取り戻すきっかけになると確信したフレッドさんは正子さんを説得。メキシコやパナマなど10ヵ国を40日間かけて回り、中南米諸国のIOC委員に東京開催の協力を呼びかけたのでした。委員への手土産を含め、すべて自費で説得に回り続けました。


フレッドさんの熱意が伝わり、58人の委員のうち34人が東京に投票し、東京での開催が決まりました。それから日本がどうなったのかは、みなさんご存知のとおりです。実施までの5年間で日本の経済成長率は10%にも達し、フレッドさんが考えていたとおり敗戦ですべてを失った日本人が、自信や誇り、希望を取り戻すきっかけになったのです。

 東京オリンピック以後も、彼の活動は続きました。中南米諸国で最初に東京開催を支持してくれたメキシコへの恩返しをしたいと自らの誘致、開催のノウハウを伝え、4年後の1968年のメキシコシティーオリンピックの実現にも携わりました。また、日系人たちを受け入れてくれたアメリカにも恩返しをと1984年のロサンゼルスオリンピックの招致・開催にも協力。フレッドさんは、2001年2月12日に肺炎のため93歳で生涯を閉じるまで、日本とアメリカふたつの祖国、そして周りへの努力を惜しむことはありませんでした。