「えだきん」商店会にある「酒と米うちの」のオーナー・内野敦さん(48歳)を訪問してきた。交流ステーションの仲間内で、「えだきん」の言葉はよく出る。でも私は、この時まで荏田南近隣センター商店会(通称えだきん)に、行ったことがなかった。車の通りすがりに見ることもなかった。 行ってみて分かったのだが、「えだきん」は、車道からは見えない。幹線道路から近いのに、そこだけは、まるで隠れスポットのように守られている商店街だ。 内野さんは「えだきん」の副会長を15年以上続けているほか、青少年指導員、交通指導員、酒販組合支部長など、書ききれないほど地域活動をこなしている。 「本業はいつするんだろう?」と心配になるほど動き回っているが、いつもニコニコしていて楽しそうだ。一見すると呑気そうだが、とんでもない。話せば話すほど内に秘めた闘志が現れ、パワフルなオーラを感じる。
「えだきん」にある「アスタ荏田」のゆったりした空間で、話を聞いてきた。「アスタ荏田」は障がい者就労訓練の場になっていて、軽食や喫茶ができるほか手芸品や菓子も販売している。 「えだきん」は一般的な商店はもちろん、障がい者が働く場もあるし、郵便局・医院・薬局・訪問看護のステーション・認知症予防センターもある。さして広くはない地区に、最低限の施設がそろっている魅力的な一画だ。
「いいですねえ。小さな子どもお年寄りも安心して歩けます。おしゃべり広場の役目もしていますね。都筑にこんな商店街があるなんて知りませんでした。わが家の近くにも、こんな商店街が欲しいなあ」 「荏田南は、昭和58(1983)年完成の港北ニュータウン第一期地区です。公団は、センター北とセンター南という大きなセンター以外に、衣食住がなんでも揃う小さいセンターを何か所も作る計画を持っていたんです。だからここも荏田南近隣センターと、センターの名前がつきました。でも他には、小さいセンターはできませんでした」と内野さんが分かりやすい説明をしてくれた。
荏田で生まれ育った内野さんは、東京の大学を卒業と同時に家業を継いだ。 「他の世界で働いてみたいと思わなかったのですか」 「いやあ、僕は都筑が大好き。なんとかこの地域を良くしたいという気持ちをずっと持ち続けています。それとは別に”世界を見たい”という気もあるんです。それがね、『世界中の子供たちにサッカーボールを贈る会』につながっているんです」 もともと内野さんへのインタビューを思い立ったのは、毎年サッカーボールを贈っていることを耳にしたからだ。 今年2015年の正月休みにも、ラオスの小学校にサッカーボールを贈ってきたばかりだ。2002年にブータンにサッカーボールを贈って以来、今年で15回目。 訪れたのは15か国(ブータン・カンボジア・タイ・ケニア・タンザニア・南アフリカ・ヨルダン・中国・ミャンマー・モンゴル・インドネシアのバリ島・フィリピン・韓国・ベトナム・ラオス)にのぼる。下の写真は、1回目のブータンと15回目のラオス。他の国は「サッカーボールを贈った国々」として別ページにした。ぜひクリックを。
なぜサッカーボールを贈るようになったのか。内野さんがサッカー少年だったこともある。サッカーはボール1個あれば大勢で遊べるスポーツだ。なのに、貧しい国では布で丸めたボールを蹴っている子どもたちもいる。こんな子どもたちに夢を与えたいと思ったのが、きっかけだった。 新品を買って贈るのは簡単だが、それでは心が通じない。「使わなくなったボールを再生してこそ、愛情が伝わるだろう」と、あえて古いボールをピカピカに磨き、日本語のメッセージを書いている。 日本語の文字を見た子どもたちが、日本に興味を持ってくれたらという願いも込めている。ボール磨きとメッセージ書きは「ハートDEボランティア」の中高生がやってくれる。 内野さんの店には、使わなくなったボールが山積みされている(左)。古いボールの処理に困っている方は、ぜひ「えだきん」まで持ってきて欲しい。 家庭で不要になったボールが、子ども達を笑顔にし幸せにする。こんなにワクワクすることがあるだろうか。 「サッカーボールを届けた国の子どもたちが、将来サッカー選手になってワールドカップに出る。これが夢なんですよ」と内野さん。 「そうですねえ。私も一緒に夢を見たいです」
「ところで、若い時は、マラソンをなさっていたのですね。ブログ(うちの街都筑! うちの敦)のプロフィールを読んで初めて知りました」 「子どもの頃から身体を動かすことが好きで、サッカー、水泳、柔道、スキー、山登りをやってました。世界のマラソン大会に出たのは、24歳の時、ボストンマラソンが最初です。世界を見たいなあ、どうせなら世界的に有名なボストンに出てみたいと思ったのです。この時の3時間35分は、自己最高記録です」 「続いてホノルル、バルセロナ。バルセロナはオリンピック選手より先に同じコースを走ったんですよ。バルセロナの翌年1993年に、登山好きが高じてエベレストマラソンに挑戦しました。標高約5200メートルの高地です。5〜60人が参加しましたが、僕は日本人6人のトップでゴールイン。”日本人初完走”の賞状をもらいました。」 「富士山頂上でさえ高山病になる人がいるのに、5200メートル!歩くだけでもつらいと思うのに、走るんですよね。スポーツ選手ならともかく、仕事をしている人が生命の危険を心配しながら走るなんて、信じられません。無事で良かったですね」
こうした挑戦はまだまだ続く。1997年には南極マラソンに参加している。この時はフジテレビが同行取材したが、テレビマンが寒さでダウンし放映されなかった。ブリザードがひどかったが、ランナーは全員完走した。 「そもそも、マラソンとサッカーボールは無関係ではないんですよ。エベレストマラソンに参加した時、ネパールの子どもたちが布のボールを蹴って遊んでいました。サッカーは知っているけれど、本物のサッカーボールを見たことがないんです。アジアの子どもたちにサッカーボールを贈ろうという思いは、このときに芽生えました」
2002年6月の日韓ワールドカップの時には、ボランティアとして関わった。これが後押しになり、11月には「サッカーボールを贈る会」の会長に就任した。 「横浜でブラジルとドイツの決勝戦が行われた日に、ブータンとモントセラト(カリブ海のイギリス領土の島)の間で世界最下位を決める試合がありました。引き分けでしたが、僕はどうしてもこういう試合に目を向けたくなるんですよ。ブータンに関心を持ち始めた2002年11月に、ブータンマラソンが開催されました。エベレストより低いとはいえ、2500メートルの高地。日本人2人が完走し、この時も”日本人初完走”の賞状をもらいました」 「ブータンマラソンに参加した時に、ブータンの子どもたちにボールを届けたのが始まりです。主にアジアの国に届けていますが、新婚旅行でアフリカに行った時はケニア・タンザニア・南アフリカにも届けています」 「新婚旅行先がアフリカというのも珍しいですね」 「家内とは山で知りあったので、キリマンジャロに登ることが目的でした。プロポーズしたのは神奈川県最高峰の蛭ヶ岳の頂上。我が家から頂上が見えるので、いつも新鮮な気持ちです」と、結婚後10年目とは思えないほどの熱いせりふをサラッと言う。左はキリマンジャロ登頂の写真。 愛娘・聖火ちゃんは、毎日のようにブログに登場するので知っている方が多いかもしれない。聖火の名前は、内野さんが2004年のアテネオリンピックの時の聖火ランナーだったことにちなんでいる。一般ランナー30人の1人に選ばれたのは、日本人初完走の肩書きやサッカーボールを贈る活動が認められたからだろう。 「東京オリンピックの時には、娘を聖火ランナーにしたいんです」の内野さんの熱意が実ることを楽しみにしている。
東日本大震災の支援を続けている方は、「ひと訪問」登場者にも数人いらっしゃるが、内野さんのボランティア歴も素晴らしい。 「阪神大震災の時にボランティアに行けなかったことが、しこりになっていました。それもあって、東日本大震災の時には5月の連休にかけつけました。女川町の復幸市では”つづきまもる君”のタイ焼きを焼いて好評だったんですよ。この時は生まれたばかりの聖火も連れて行きました。子どもにもこういう現場をみてもらいたいと思い、ほとんど家族3人で行動しています」
以後、東日本大震災の東松島、青森、山元町、竜巻のつくばや越谷、豪雨の福知山や舞鶴、土砂災害に広島、長野県北部地震の白馬村などでボランティアをしている。仕事の合間を縫っての献身的なボランティアには頭が下がる。 「でもね。ボランティアは自分のためでもあるんです。ぼくは各地でボランティアをしてきて、裏の動きをよく見ています。 都筑に災害が起こっても、リーダーになる自信はあります」と頼もしい口ぶりで話してくれた。 地域への愛情、家族への愛情、大げさにいうと世界中の人々への愛情がひしひしと伝わってくる2時間だった。「これからも大きな夢に向かって、もっともっと活躍してくださいね。出来ることがあれば応援したいです」と言わずにはいられなかった。 (2015年2月訪問 HARUKO記) |