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筆者は、緑道ハレバレ会のメンバーでもある。ハレバレ会は2022年8月に緑道マップを制作し、売れゆき順調のおかげで、都筑区での知名度もあがってきた。 緑道マップを作るときに、港北ニュータウン(以下NT)生みの親の川手昭二さんとご一緒に緑道を歩いた。「NTにはたくさんの方が関わったことは知っていますが、緑道に関してお一人をあげると誰でしょうか」と聞いてみた。 「そりゃ、上野泰さんですよ」と即答だった。緑道は歩くたびに、違う顔を見せてくれる。何度歩いても飽きないどころか、魅力が増してくる。 「魅力の謎を解くには上野さんにお会いするしかない」と思ったが、コロナ禍の中、千葉の南端まで行く勇気がなく、訪問が2年以上も延びてしまった。 でも電話と手紙は何度も交わし、NTのマスタープランの報告書も送ってくださった。「学術論文ではありませんから、皆さん向けに易しく書いています」の冊子は私たち素人には少し難解だったが、誠実なお人柄に感激したものである。
南房総へは4人で行った。4月22日に上野さんを講師にお迎えして講演会を計画している(詳細は後述)。その打ち合わせが目的だったが、建築家だったお兄さん設計の家をリフォームしたリビングは、モデルルームのように素晴らしく、目的を忘れて「ステキステキ」と見まわしてしまう。インテリアもセンスがよくて「こんな環境なら仕事もはかどるだろう」と思った。 上野さんが年齢の割にお若いのは何度かの電話でのやりとりで想像できたが、実際にお会いしてダンディぶりに、みな舞い上がってしまった。 「こんな方がNTのマスタープランに関わって下さったのだから、50年経っても色あせないんだわ」と納得してしまった。 下は訪問時の写真。
上野さんは、1962年に千葉大学園芸学部造園科卒業。今なおランドスケープデザインの第一人者として活躍している。ランドスケープは日本語に定着しているので言うまでもないが、「景観・景色」という意味。 「造園を学ぼうとしたきっかけは、何だったのでしょうか」 「動物には興味がありましたが、植物に興味を持っていたわけではなかったのです。でも、祖父と父が薬学の専門家だったので、家には植物図鑑がたくさんありました。もしかしたら、それが影響していたのかもしれません」と、本棚に顔を向けた。 港北NT以外に、多摩NT、千葉市原NT、西宮名塩NTなどの大規模NT計画に関わってきた。他に葛西臨海水族園外構や隅田公園のリニューアル設計など、業績はあげるとキリがない。 港北NTには1968年の基本計画原案から携わった。まだ30歳だった。横浜市の飛鳥田市長が6大事業計画を発表した1965年から3年しか経っていない。 「計画発表から実際に動き出すまでの期間が短いですね」 「港北NTは、乱開発防止・都市農業・市民参加の3つを目標にしていました。中でもこの地域は乱開発が進んでいたので、それを防ぐために横浜市はスピーディーに進んだのだと思います」
左から藤原博、川手昭二(以上住宅公団)、加藤遼一(宅地開発研究所)、上野泰、手前は両角博(住宅公団)。敬称略。 今回の主役上野さんは右端、若い時もイケメンだ。 異なる組織に属している方が「チーム港北」で知恵を出し合い、真剣に語り合っている貴重な1枚。 こういう話し合いが何度も重ねられたからこそ、50年後の私たちは、NT生活を満喫できている。
1972年にマスタープランが完成し、実施設計に入った。 上野さんが最初に手がけたのは、1977年から80年にかけて公団の開発事業をPRするために「モデル緑道」として整備された「せせらぎ公園とせきれいのみち」である。 緑道内にたくさんある橋の中でも人気がある「せせらぎ橋(1980年)」「鴨池公園橋(1981年)「御影橋(1983年」も設計している。 「橋を居心地のよい場にしたい、緑道利用の拠点にしたいと考えました。風景の中で橋がどのように見えるか、橋のデザインには特に気をつかいました」と語る。 港北での最後の仕事は1992年から94年にデザインした「すきっぷ広場」。講演会では手がけたランドスケープの詳細を話していただくことになっているが、予備知識として現在の写真をどうぞ。
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