センター南駅に設置されたセン南ピアノ1周年行事の時に、取材をお願いしたら、こころよく引き受けてくださった。インタビューは、かつてないほど長時間になった。午前10時半に始まり、終わったのは午後4時。 名刺の表は金子保商事の取締役だが、裏を見ると驚く。13もの団体で会長、委員長、理事長、社長をしている。商業面ばかりでなく、ここで取り上げるセンター南駅ピアノ運営委員会委員長、区民文化祭の実行委員長、交流スペース「SENCE」オーナー、堰の元地蔵尊代表などなど、文化活動も幅広い。 昼食もとらず水すら飲まずに、都筑に文化を根付かせたい夢を語ってくださった。筆者が漠然と疑問に思っていたことも明解に説明してくれ、「なるほど、そうなんですね」と、何度もうなづいた。
都筑のイベントには、必ずと言っていいほど進さんの姿がある。話かけるきっかけがないまま、10年以上が過ぎた。 センター南駅にピアノが設置されたのは、令和2年2月2日。 10時から19時まで誰でも自由に弾ける。小さな子どもやプロ級の人も弾いているようだ。 「オープニングセレモニーはコロナの心配もなかったので、盛大でしたよ。2を3つ揃えた日をオープニング日に選んだのです」と金子さん。なるほど、この2並びの数字は覚えやすい。 1周年記念イベントは、令和3(2021)年6月25日に開催。実際のオープニングから1年以上経っているが、コロナ感染のために延期された。当日はおおがかりな宣伝は控えたが、親子連れや思わず足を止めた人たちが楽しんでいた。 出演者はピアノとバイオリンの「Katochan姉妹(加藤千佳さん・加藤かな子さん)」と、影絵の劇団かかし座。かかし座は日本の代表的な影絵劇団で、都筑区に拠点をおいているので、2006年に訪問記事を書いている。
「ピアノは区民からの寄贈です。でも2か月に1度は調律せねばならないし、費用はかかります」 「どなたが管理しているんですか」 「センター南駅ピアノ運営委員会です。委員長は私ですが、都市みらいの専務、横浜銀行の支店長、東急モールズデベロップメントの総支配人、都筑クラブ会長の山田美千子さん、ほのぼの駅コン運営委員会のMC金子恵美子さんが委員です」 「協力会員が横浜市交通局、横浜交通開発、横浜市交通局協力会、横浜市都市整備局。オブザーバーが都筑区役所の区政推進課です」 「まあ!運営委員会は、すごいメンバーですね。こんなにもたくさんの方が関わっていることに、心底驚きました。金子さんの人脈の広さでしょうか。コロナが終息したら、ピアノを演奏する人はもっと増えると思います。楽しみです」
「ピアノを設置している場所は、改札口の下の階なので人通りが少ないですね。どうして上の階に置かないのですか」 「置いてある場所は、センター北駅とセンター南駅を結ぶみなきたウオークの終点です。みなきたウオークを活性化させる目的もあるんです。隣にあるパスポートセンターにも足を運んでもらいたいし」 「なるほど!センター北駅から800メートル歩いてきたら、ピアノがある。音色が響く。自分でも弾ける。想像すると楽しくなります」 「ピアノ設置には、次なる遠大な計画があったのですね。文化の面では、みなきたウオークの一角に都筑文化センターができます。しゃれたショップと文化のコラボはわくわくします」 「令和6(2024)年に都筑文化センターが完成する予定です。2階は300人規模のホールで、1階は絵画や写真展示のギャラリーになります。ここを拠点に都筑の文化を作りたいんですよ」 上の地図は、区政推進課発行の「区民文化センターニュース7号」より抜粋。
「金子さんがなさったことで、個人的に印象に残っているのは、正覚寺の稚児行列と都筑区制20周年のプレイベントの「薪能」です。過去の話になりますが、ずいぶん盛大だったようですね」 「金子家代々が正覚寺の檀信徒総代をしています。2010年の正覚寺の阿弥陀堂新築を記念して、稚児行列をしました。24年ぶりの復活です。定員50名で募集しましたが、希望者が多くて120名の子どもたちが参加。正覚寺は天台宗ですが、檀家や宗派に関係なく幅広く呼びかけました。若い世代に地域を知って欲しかったからです」 「薪能の話を聞いた時には、都筑に野村萬斎さんが来てくれるの!と驚いた記憶があります。キャッチフレーズが”日本の文化「薪能」を親子で観よう!!”でしたね。応募資格がペアの親子」 「この時、2013年にもたくさんの応募があり、ご覧いただけない方がたくさんいました。演目は能が「羽衣」と「土蜘蛛」、狂言が「呼声」でした。予定ではセンター南のすきっぷ広場が会場でしたが、天気が悪くて公会堂に変更。でも感銘を受けた小学生も多く、後に、つづきの丘小学校の「能について」の教室につながりました」
「そうなんです。都筑の文化を発展、継承させるNPOを年内に立ち上げるつもりですが、メンバーは若い人や女性も考えています。文化センターが完成した時にすぐ活動できるように、今から動き始めます」
横浜のチベットと言われた地に、ニュータウン計画の話が飛び込んできた約50年前に、筆者は港北区と言われた今の都筑区に家を持った。 のどかな農村地帯に激震が走った話はよく聞いている。ニュータウン造成には、農地の提供が前提だ。「先祖代々の土地を手放したくない。農地がなければどうやって生活していくのか」「交通が不便だし農業の未来は暗い、息子は農業を継ぎたくないと言っている。開発してもらおうじゃないか」と、農家は真っ二つに分かれたという。 こんな時に農家の方からよく名前が出たのが金子保さんだった。進さんの父で、金子保商事の創業者である。 港北ニュータウンは、地元地権者と横浜市と住宅・都市整備公団(今のUR都市機構))の3者の協力で完成した。地元地権者の中心的役割を担ったのが、進さんの父・金子保さんだ。 港北ニュータウンを決断してから30年間の経過をまとめた 352頁にわたる大作である。非売品だが図書館は所蔵している。 保さんが決断して間もない頃にこの地に越してきた筆者には、旧地名も登場人物もなじみが多く、すらすらと頁が進んだ。完成までの30年間、地権者、公団、横浜市の3者がきれいごとだけではすまなかった事実も、きちんと書き残している。 ニュータウンに憧れて越してきた方は、この本に目を通してもらいたい。ほんの50年前は、里山と竹林と田畑が広がっていて、「港横浜」とはまったく違う長閑な地であったこと。そこで人々はお互いを思いやりながら心豊かに生活していたことを知って欲しい。 以下、保さんが心の奥底にあった素直な感情だ・・という書き出しの文の一部を抜き書きする。 「われわれ地権者は行政の街づくりに多大な協力をしてきた。行政、公団としっくりした期間ばかりではなく、戦いの相手の時さえあった。それは官僚制というつかみどころのない相手であり、攻め処がなかなか分からない。そのことでイライラさせられることもあった。30年という長い間、ニュータウンつくりに情熱をつぎ込めたのは、本当にいい街を造りたかったからだ。子供や孫に自慢できる街を夢見た。安全・安心が確保され、ひとりひとりが夢を持ちしかもお互いが助け合う街だ。・・・」 下の2枚は、ニュータウン開発が始まる前の金子家の様子。これを見ると、自然も心も豊かだった当時の様子がお分かりだろう。
「区画整理完了(平成8<1996>年)のちょっと前に、勤務先のJAを退職して、理想の街づくりをするために金子保商事で働くことにしました。子どもの頃からニュータウンの変遷を見てきましたが、父は地権者をまとめるために大変苦労していました。そんな父の後ろ姿を見て大きくなったので、今度は私が都筑区の発展に寄与したいと考えるようになったのです」 「父たちが描いた理想郷の実現には、文化の継続が必要だと思うんです。それには区民全員の理解と協力なしではできません」 マスクをしたまま5時間以上、話し相手になってくださった金子さんには、心から感謝する。つづき交流ステーションも、理想的な街づくりのために、微力ながらがんばっていこうと改めて思った。 (2021年7月訪問 HARUKO記) |