川和東小学校学援隊のメンバー・北健二さんから「学援隊を10年以上続けている素晴らしい方がいるから、取材して欲しい」との依頼があった。 ということで今回の訪問は、富士見が丘にお住まいの千坂健さん(83歳)。 住所と名前を聞いて「あれ!」と思った。なんと、「ひと訪問」で2012年にインタビューした千坂純子さんのご主人だった。 奥様の純子さんは、やはり「ひと訪問」した隣人の荒武さんから、ご主人の健さんは北さんの紹介。別ルートとはいえ、ご夫婦別個の訪問は初めてだ。 奥様を知っていることもあり、初対面にもかかわらずフレンドリーな雰囲気で話は進んだ。そのうえ、筆者が3年生まで在学した宮城県の小さな町の小学校に、千坂さんも1年間だけ通ったという偶然も加わり、一気に親近感が増してしまった。なぜ小学校の話になったか?その理由は後に述べる。
「みなさんに聞いているのですが、いつごろ都筑に越してきましたか。その理由も教えてください」 「家を建てたのは平成元(1989)年ですから、都筑の住民になって30年が過ぎました。その5年前に住宅公団が販売した土地の抽選に当たったのです。日吉の社宅に住んでいた時に売り出されることを聞き、気軽に申し込んだのですが、今思えばとてもラッキーでした」 「30年住んでみて都筑はどうですか」 「いやあ良い所だと思いますよ。遊歩道も整っているし緑も多い。家の近くには川和富士公園もあります。富士山も見えます。地下鉄の開通前でも田園都市線や横浜線には近かったですから。学援隊をしていると、子どもたちと触れ合うチャンスは多いですが、みんな元気がいい。こんな環境にいる都筑の子どもたちは幸せですよ」
川和東小学校学援隊は、登校の見守りをしているグループである。メンバー10数人のうち女性は3人で、ほとんどが男性だ。 「児童の見守りを始めたきっかけは、なんだったのですか」 「わが家は娘夫妻家族と同居していますが、いちばん下の孫が小学生になったころ、孫の通学の見守りをしていたんです。そんなときPTAの方から『学援隊に入ってくれないか』と声をかけられました。それ以来、15年ぐらいになります」 「ほぼ毎日通学路に立っていると聞きましたが、朝は早いんでしょうね」 「月に1~2回のゴルフと年に1度の健康診断以外は、休んだことがありません。学校は8時25分に始まります。8時頃がピークですが、7時半には立つようにしています。6時半に犬の散歩をすませ、朝食をとってから出かけます」 「羨ましいほど健康的な生活を送っていますね」 「おかげさまで健康保持に役立っているし、なにより楽しいのは子どもたちとの触れ合いです。毎朝の会話と笑顔からこちらが元気をもらってます」 「対価を求めてやっているわけではありませんが、交通安全協力者として横浜市学校保健大会から「楯」をもらったり(平成24年度)、交通安全対策協議会から表彰状(平成29年度)をもらいました。やはり嬉しいですよ」 「川和東小学校の卒業式や入学式や運動会には、メンバー全員が来賓として招かれるんです。学援隊は個々の場所で見守っているので、ふだんはあまり会いません。隊員みんなで会うのは卒業式の後で開く宴会ぐらいなんです」 「卒業式で思い出しました。北さんに聞いたのですが、見守りをしている卒業生には"Have a Dream"のサインと”夢”の墨書の手作りカードを送っているそうですね。残っていたら見せてください」 「ここを通る6年生の人数は年によって違いますが、30枚程度用意します。みんな喜んでくれますよ」と言いながら、カードを見せてくれた。 ちなみに、川和東小学校の校区は、富士見が丘、見花山、高山、二の丸、川和台、葛が谷、加賀原一丁目の一部、加賀原二丁目の一部。児童数は約1,000名。以前は1,200名のマンモス校だったが、今は減少気味だという。
4月22日の朝、筆者も「ゆうやけ橋」近くの通学路に、千坂さんと一緒に立ってみた。校門が開くのは8時、始業ベルが鳴るのが8時25分だというのに、いちばん早い子は7時40分に、遅い子は8時半に通る。早い子も遅い子も、同じ顔ぶれだという。ほとんどの子は千坂さんの側に寄ってきてハイタッチしたり、腕時計に触って時間を確かめる。中には「おじいちゃん」と言いながら何度もハグを繰り返す子もいる。下の写真をどうそ! ,
「ところで”玄人はだし”の絵を描くと聞きましたが、若い頃からの趣味でしたか」 「子どもの頃から絵は好きでした。でもサラリーマン時代は、日曜画家。本格的に描き始めたのは定年後です。絵を描きたくて60歳で会社をやめました。妻が『家にばかりいると困る』と、朝日カルチャーの教室を勧めてくれました。そこで出会ったのが、一陽会の元代表・故森秀雄さんでした」 「一日どのぐらい絵筆を握っているのですか」 「2時間ほどです。200号(長辺が2590ミリメートル)や130号ぐらいの大作になると、2時間描いても数ヶ月かかるんです」 一陽会は、二科会を退会した画家12名と彫刻家2名が昭和30(1955)年に設立した全国組織の公募美術団体。千坂さんは力量が認められ、一般から会友になり今は数少ない会員である。公募者の審査をすることもある腕前だ。初めて公募した44回から64回までの出品写真を貸してくださったが、全部載せる余白はない。2枚のみどうぞ。
今年も10月2日から14日まで、六本木の新国立美術館で65回一陽展が開かれる。 また神奈川支部の支部展も桜木町の市民ギャラリーで、6月11日から16日まで開催される(左は案内ハガキの一部)。もちろん、千坂さんは両方に出展している。絵がお好きな方は、足を運んでみては。
「奥様の話になりますが、インタビューした7年前は、自宅に外国人留学生を受け入れていました。ご主人も協力していましたか」 「もちろん私も関わっていましたよ。楽しかったのですが、歳を取り負担に感じるようになったので、最近は受け入れていません。責任もありますから」 「東日本大震災の時の奥様の行動が忘れられません。交通網が遮断されているにも関わらず、被災地にすぐ慰問にいらっしゃいました。バイタリティーにいたく感動しました」 「妻は当時も今も音楽で元気を届けたいとボランティア活動をしているので、被災地行きは自然なことです。特に私のふるさとが宮城県なので、他人事とは思えなかったんじゃないでしょうか」 「私は仙台で生まれて、父の仕事の関係で東京に移ったのですが、3月10日の東京空襲で家の前にあった国民学校が全焼。その時に疎開したのが宮城県の吉岡という町です。その後、石巻に移り高校まで過ごしました。石巻の同級生は、3.11の津波で犠牲になりました」 「そういえば、千坂さんは忠臣蔵で有名な米沢藩の家老・千坂兵部がご先祖だそうですね。米沢と仙台は近いから、仙台にご縁があるのですね」 「千坂兵部という名前は通称ですが、先祖の千坂家が赤穂浪士の討ち入りの時に、吉良家に派遣されていた参謀だったことは確か。吉良上野介の息子を米沢藩の養子に迎えていた関係です」 左のフリー画像を拝借した千坂兵部を演じた里見浩太郎のポスター。 学援隊の話だけのつもりだったが、趣味の絵や有名なご先祖さまの話にまで及び、楽しいインタビューになった。ご夫妻とも、ますますお元気で。 (2019年4月訪問 HARUKO記) |