早坂カテリーナさん(30歳)を知ったのは、1枚の写真だった。和服を上手に着こなしたガイジンが、都筑民家園をバックに微笑んでいた。 撮影者のNさんが言うには「着物は自分で着たんだって。ウクライナ人だけど日本語は達者だよ」 日本人でさえ着れない人がほとんどなのに、自分で着ている。しかもウクライナ出身は珍しい。会ってみたいと思い、電話をすると「あ〜聞いてました!どうぞどうぞ!」と、はずんだ明るい声で承諾してくれた。 取材当日も「着物を着ていきましょうか」と言ってくれたが、「いいえ〜そんな面倒なことをしなくていいです」と断ったのだが、彼女にとって着物を着る行為は面倒でもなんでもない事が、話していくうちに分かった。 待ち合わせ場所の区役所に現れたカテリーナさん(左)は、ジーパンとシャツというラフな格好にもかかわらず、辺りにいた人たちが一瞬目を留めるほど華やかだった。その華やかさの理由も後で分かる。
ウクライナは、ソ連が崩壊した1991年に独立した国で、ロシア・ベラルーシ・ポーランド・ルーマニア・モルドバと接している。そのウクライナをたびたび訪れていた早坂さんと知り合って結婚。20歳で来日した10年前から、荏田東に住んでいる。 来日当時は日本語がまったくわからなかったので、ご主人との会話は英語だった。 「でも気づいたんですよ。日本語が分からないと、友達もできない。テレビを見てもわからない。ストレスが溜まるばかりなんです。だから『これからは日本語で話して』と主人に言いました」 3時間ものインタビューの間、なんの不都合もなかった。ガイジン特有の言い回しもなく、自然体の日本語だった。外国人関取は、おどろくほど上手に日本語を話している。10年まえのカテリーナさんは、日本語しか話さない世界に、ただひとり放り込まれたお相撲さんのような立場だったような気がする。そういう環境にいれば、おのずと日本語が上達する例かもしれない。 でも日本語が上手なのはそればかりではない。彼女の明るさと向上心、学ぼうとする謙虚さ、日本に対する好奇心と愛情、そういうものがすべて優れているからだと思う。 会話はできても読み書きができない外国人もいるが、彼女は運転免許の実地・学科試験とも1回で合格した。学科試験は微妙な言い回しが多いので、日本人でも1回で合格できるとは限らない。 「学科試験の勉強は、つづきMYプラザの”つづき日本語サークル”というボランティアグループに、お世話になったんですよ。今も、日本語能力2級合格のために、教えてもらっています」 ちなみに、交流ステーションでも施設訪問で「つづきMYプラザ」を取材している。国際交流や外国人支援と、青少年の地域活動の拠点だ。外国人に日本語を教えている教室にお邪魔したことがあるが、日本語の能力がまちまちなので、ほぼ1対1での授業だった。
カテリーナさんは、来日する直前まで「芸術大学アカデミー」でモダンバレーを学ぶ学生だった。世界のバレー界の主流は2つあり、1つはイギリスのロイヤルメソッド、もう1つはロシアのワガナワメソッド。彼女が学んていたのは、もちろんワガナワメソッドだ。 「ウクライナでは、バレー団への入団が認められると、仕事としてずっと続けられます。国が支援しているからなんです。私は6歳からレッスンをしていたので、将来はバレーの先生になることを夢見ていました」 (左は10歳の時) 「あ!でもソ連が崩壊したんですね」 「ソ連ってなんですか」 「ソ連はソビエト連邦の略で、日本ではこう呼んでいたの。あなたが来日したころは、ソ連という言葉は使われなくなったわね。分からないのも無理ないわ」 1991年にソ連が崩壊したとき、カテリーナさんも家族も、世界が終わってしまうような絶望感を味わったそうだ。カテリーナさんの両親は9か月間も仕事がなかったので、彼女もバレーのレッスンを続けることができなくなった。 数年後には、バレーを学ぶ環境が戻ってきた。そんな中、カテリーナさんは、たびたびステージに立つようになった。きれいな衣装を着て舞台に上がり、拍手を受ける。このときのワクワク感が忘れられないという。初対面のときの彼女の華やかさが納得いった。 「日本でもバレーの仕事が続けられると思ったのですが、甘かったですねえ。日本ではバレーが仕事にならないんです。国からの支援が欲しいです」と彼女はため息をつく。 今は中川地区センターや都筑地区センターや牛久保小学校の体育館で、子どもたちにバレーやダンスを教えている。 都筑地区センターでのレッスン日に見学に行った。「プチプリンスバレー」という小学校1〜2年生を対象にした教室。レオタード姿の子どもたちはそれだけでもカワイイが、先生の掛け声に合わせて、懸命に踊っている姿はもっとカワイイ。
カテリーナさんが指導者として一流なことは、練習を見ていると分かる。「膝を曲げちゃダメ」「おしりを開いちゃダメ」「もっとつま先を伸ばして」という叱責を時々交えながら、ほとんどは「きれいきれい」「上手上手」「出来るから頑張って」「よくできたねえ」と、ひとりひとりに褒め言葉をかけている。
現在小学校3年生のお嬢さんが七五三のときに、ご主人のお姉さんが着物を着せてくれた。この時から着物に魅せられ、小学校の入学式には、YouTubeを見て自分で着た。その様子を見ていたお姑さんが「着付けの才能があるからきちんと習ったらどうか」と勧めてくれた。 お姑さんに後押しされて「彩きもの学院横浜校」に通い、黒留袖や訪問着の着付けも出来るようになった。この技術をどのように生かしたらいいか、考えているところだ。「浅草で外国人観光客に着せてみたらどうかしら」など、きもの学院の先生からもアイディアが出ている。 「着物が大好きなんです。着付けも大好き。時代劇は、着物だけをうっとりとして見ています。職業によって帯の結び方がちがったり、とっても面白い」と目を輝かす。 「京都に行って、舞妓体験もしたんですよ。単なる観光用の舞妓ではなく、男衆に本格的に着せてもらいました」と、スマホに入っている写真を見せてくれた。 「着物を着ていると、いろいろな人が声をかけてくれるんです。地下鉄の車内で話しかけられた人に勧められて、今は表千家のお茶を習っています。厳しく指導してくれる田村先生に出会えました。こんな風に着物を着ていると、私の世界がどんどん広がるんです」 お茶の稽古日に、中川西地区センターまで行ってみた。習い始めて1年も経ってないのに、流れるようなお点前(左)だった。点ててくれた薄茶もおいしかった。 「カテリーナさんは、日本人以上に日本文化を理解しているんですよ。とても素直で熱心なので、どんどん上手になります」と先生もおっしゃっていた。 バレリーナにかわる舞台が、カテリーナさんにとっての着物なのだ。着物を着ると、バレリーナ時代にステージに立っていたような心の高まりを感じる。心まできれいになるという。
「ウクライナは日本の1.6倍もありますね。出身はどの辺りですか」 「南の方です」 「じゃあクリミア半島ですね。ヤルタ会談が開かれたヤルタですか?」 「その通りです。ヤルタの名前を知ってるんですか。嬉しいわ」 ちなみに、ヤルタ会談は、米英ソのルーズベルト・チャーチル・スターリンの3大首脳が1945年2月にヤルタで行った会談。第2次世界大戦の戦後処理を話し合った。彼女が生まれるずっと前のことなのに、歴史で習うのだろう。きちんと説明してくれた。日本にとって不利な協定が結ばれたことを知っているかどうかまでは、聞きそびれた。 里帰りしたばかりの彼女に、ヤルタの写真を見せてもらった。黒海と森林に囲まれたきれいな市街地を見ると、すぐにでも飛んでいきたくなる。3枚しか載せられないのは残念だが、「ヤルタはとってもきれいな街」というカテリーナさんの言葉で想像してほしい。
日本人に馴染みが少ない国から来日して10年。言葉も習慣もすっかり日本になじんでいる。まだ30歳と若いカテリーナさんには、どんな未来が待っているのだろう。ほんとうに楽しみだ。(2012年4月訪問 HARUKO記) |