不動産トータルプランナー、金光商事の取締役会長・金子三千男さん(76歳)を訪問してきた。

金子さん港北ニュータウン生みの親のひとり・川手昭二さんから「港北ニュータウンは 、横浜市、日本住宅公団(以下公団と記す)、地元の3者の話し合いで作られました。地元住民の声がこれほど反映されているニュータウンは、後にも先にも他にないんです」という話を聞いた。

こうなると、地元代表からも話を聞いてみたい。話し合いに参加した地元民は数多くいたが、40年以上前のことで、鬼籍に入られた方もいる。「当時活躍していた方に会いたいのですが」と川手さんにお願いしたところ、迷わず金子さん(左)を紹介してくださった。

金子さんは3年ほど前に突発性難聴になった。補聴器をつければ聞こえるほどに回復したが、賑やかな場所だと雑音が入る。ということでお宅に伺った。

茅ケ崎公園に近い閑静な居間でのインタビューは、会話にはまったく支障がなく、午後1時から6時半までかかっても終わりそうにない。またの訪問を約束してひとまず退却。ときおり顔を出してくださる奥様とも話がはずんだ。



 どうやったらこの家を継いでいけるか


金子さんの旧姓は男全(おまた)。北山田の男全家8人きょうだいの中で育った。ちなみに、北山田町会長など地域で活躍している男全富雄さんと男全由治さんは実の兄弟である。金子さんも町内会長やPTA会長をしたことがある。

「男全家の3人兄弟は、ほんとに似てるんですよ。頼まれると断れないんです」と笑う。ニュータウン関連でも、センター北の阪急デパート誘致の事務局長は男全富雄さん、センター南の東急デパート誘致事務局長は金子三千男さんと兄弟が担った。

「きょうだいが多いから上の学校には行かせられない」という親を説得して日大高校に進学。卒業後は日本電気(NEC)で、サラリーマン生活をしていた。そんな折、金子家との縁談が持ち上がり、婿養子になった。

結婚して2年後に義父が病で倒れたために、会社を辞めて農作業に従事することになった。

「義父は農業を継がなくてもいいと言ってくれましたが、僕は13代も続いている農家の養子。14代で農業をつぶすわけにはいかない。でも、山林を切り開いて開発が始まっている。田や川の汚れが目立ってくる。収穫目前の作物が、自然災害で全滅するさまも見ている。こんな状態で農業を続けられるのかと悩んでいたんですよ」

「農業以外の道も探せねばならないと、不動産取引の資格もとりました。畑仕事が終わると夜は勉強という毎日でしたよ」

開発が決まったころの金子さんこんな時、昭和40(1965)年、飛鳥田市長から港北ニュータウン構想が発表された。中川地区連合町内会の会長で、本家筋にあたる金子保さんから「君はどう思う」と聞かれた。

「中川地区の農業に心を痛めていたこともあり、”ぜひ進めてください”と会長に答えたんです」

農業以外の道・不動産経営を始めたのもこの頃だ。義父の名前・光太郎をとって金光商事とした。金子さんが、地元住民の立場でニュータウン開発に関わるようになったのと時を同じくする。

左は、茅ケ崎町婦人部の方をニュータウン計画現場に案内している金子さん。開発受け入れを決めた直後の昭和43(1968)年ころ。今の「東前」交差点付近が、こんな林だったことに驚く。

開発前の農村の現状、開発話が持ち上がった頃のてんやわんや、その後の発展による光と影。これらすべてを知っている金子さんに出会えたことは、リポーターとしてラッキーこの上ない。


 純農村地帯に激震が走った


都筑区住民になったばかりの人には、想像もつかないかもしれないが、ニュータウン地域は、20%が田畑、70%が竹林と山林、4%が宅地、6%が道路という純農村地帯だった。

次の3枚は、金子さんが描いた開発前のふるさと。絵を描き始めてまだ2年。きっかけは後述するが、昭和30年代の写真を見ながら、スケッチした。

山田富士 重代 茅ヶ崎

山田富士が見える事から
今の場所と比べて欲しい
機械を使わないで
農作業をしている

 
 
金子さんの実家・男全家の裏側付近
北山田の重代谷戸
東急が開発したすみれが丘と
隣接している地区

 
今の茅ケ崎東二丁目は
このような田が広がっていた
クレストヒルズ

森の向こうにある




飛鳥田市長によるニュータウン構想は、のどかな農村地帯に激震をもたらした。横浜のチベットと言われ陸の孤島ではあっても、人情に厚く心豊かな優しい人たちが住んでいた。隣近所に慶弔があれば、みんなで喜びや悲しみを分かち合った。苦しい農作業を経ての収穫の喜びもあった。

市と公団による説明会は、昭和41(1966)年から地域ごとに始まった。説明の要旨は「昭和55年に完成予定。開発にあたっては、みなさんの所有地の40%が必要です。買収させてください」というものだった。なにがしかの現金は入るものの、これまで農業しか経験していない人の心配や恐れは想像に余りある。

各町会や部落別に何度も何度も集会を開き、意見を交わした。反対派の意見は「先祖からの土地を減らしたくない、農地をとられては農業ができない、ニュータウン区域から外して欲しい」というものだった。

賛成派の意見は「地方の野菜との競合があり出荷しても売れなくなった、後継者がいない、昔のままの農業では嫁に来てくれない」だった。

最初は反対派が70%と多かった。本家と分家、実の兄弟でも意見が分かれた。でも、1年以上の地道な説得や話し合いを経て、昭和42(1967)年、開発に踏み切ることに、おおかたの意見が一致。「正直者(40%を提供した人)に損はさせない」の約束を市長と交わした。

それに伴い、4地区(中川・山内・都田・新田)のリーダーからなる港北ニュータウン建設対策協議会(以下対策協と記す)が発足した。金子さんは、対策協の下にできた若手リーダー中心の港北ニュータウン建設研究会のメンバーになり、主に街づくり協定に関わった。

「研究会の会合には市と公団も個人の資格で参加し、活発でしたよ。無報酬でしたが、街づくりに参加できる喜びもありました。研究会の結果を対策協に進言すると、ほとんどの意見が通りました」となつかしそうに話す。

最後まで反対だった地域は今もニュータウンから外れているが、大部分の農家は公団と市の説得に同意して、土地の40%を提供した。

「今だから話せることですが、ニュータウン地域に入っても、最後まで40%の土地を提供しなかった地主もいたんですよ。大事業には、こういう問題は必ず起こります」と金子さん。

ニュータウンの完成には、先祖伝来の土地を手放した農家の苦しみや葛藤先祖の墓を掘り起こし移転せねばならなかった農家の悲しみと申し訳なさがあったことを、忘れてはならない。


 ニュータウンは60%の完成度


「ところで当初から関わってきた金子さんから見て、今のニュータウンはどうですか」

「描いていた計画からみると60%の完成度ですね」と言いながら、5つの問題点を語ってくれた。

○ 都営地下鉄6号線の廃止

センター南、センター北、北山田、東山田、川崎の中原、東京の目黒を経て丸の内までの都営地下鉄6号線の計画が廃止になり、都心に直結する手段がなくなった。

○ センター南とセンター北駅周辺の土地利用に関する建築協定が結ばれずに終わった

商業地と住宅地が接近しているとスピーカーがうるさいなどの苦情が出るので、駅周辺には居住マンション禁止という協定を結びたかった。しかしその協定が結ばれずに終わったので、今は商業ビルの隣に分譲マンションが建っている。広告の色や幟旗なども規制したかったが、野放し状態。品格のある街並みになっていない。平成9年(ニュータウン開発の終了時)までは、対策協によるチェックがあったが、今はチェック機関もない。

○ 誘致した外資系企業の撤退 

外資系企業を誘致して国際都市を願っていたが、デポンが撤退し資生堂に、コダックが撤退し分譲マンションになるなど、撤退している企業がいくつかある。

○ 警察と郵便局の位置が逆になった

当初は、郵便局が建っている地に警察を予定していた。予定通り、大通りに面したところに警察署があれば、交通事故や犯罪の抑止力になったような気がする。今の郵便局の敷地は、警察署としては広すぎて、予算が足りなかったそうだ。

○ 緊急時のヘリポートの設置ができなくなった

都筑区内には、ヘリポートがない。昭和大学病院や行政に近いところにヘリポートがあれば、災害時にどんなにか役立つだろう。中央公園のニュータウン建設記念碑が建っている場所こそ、ヘリポートにふさわしい。
「今からでも遅くはない。記念碑を移動してヘリポートを設置したらどうかと区長に進言してきたところです」と、金子さんの熱が入る。

幟 郵便局 ヘリポート

都筑のメイン道路には
色とりどりの幟が立っている
品格を欠く街並みだ

 
 
警察署を大通りに面して
建てる予定だった
今は郵便局が前面に建っている

 
ニュータウン記念碑がある
中央公園の広い芝生は
ヘリポート地にふさわしい



「理想的な街になるなら」と土地の提供に応じた人たちの熱い思いを、後世の人たちが裏切ってはならない。今からでも遅くはない。完成度100%に近づく努力をすべきではないだろうか。


 保護司を15年間


金子さんが関わってきた地域活動は、列記できないほどたくさんある。その中でも15年間続けている保護司は、あまり馴染みがないので詳しく聞いてみた。

「罪を犯した未成年や成人が、少年院を仮退院、刑務所を仮出所した場合、残りの刑期を保護司が面倒見る制度です。保護司は全国に5万人います。身分は公務員ですが、無給なのでボランティアです」

「具体的にはどんなことをするんですか」

「2週間に1度、面会します。多い時には6〜7人もかかえていたので、忙しかったですよ。でも90%以上が更生して社会復帰しました。こんなに嬉しいことはないですね。保護司の定年は76歳なので、そろそろ終わりですが、これまで88名の面倒を見ました。保護司としての役目が終わったときに、”毎日拝むんだよ”とこれ(左)を渡しました。犯罪の抑止力になればいいんですけどね」

直方体のクリスタルガラスの中に、般若心経と菩薩が彫ってある。


 国立新美術館で展示


冒頭で書いたように、金子さんはほぼ3年前に突然耳が聞こえなくなった。音のない世界で不安な日々を過ごしたが、東京の虎の門病院で最新の補聴器に出会い、聞こえるようになった。

音を取り戻した病院からの帰り道、本屋で手にした「水彩画入門」の本が、今の金子さんに最大の楽しみを運んでくれた。

自己流で描いていたが、通信教育を受けるとみるみる上達。日美絵画展応募の誘いがあり、ためしに2点応募してみた。

1点は佳作、もう1点(左)は国際文化カレッジ賞を受賞した。今年の8月に六本木の国立新美術館で展示された。

もし病にかからなければ、たくさんの役職はそのままだったはずだ。隠れた絵画の才能は、隠れたままだったかもしれない。それを思うと、何が幸いするか分からない。

「どうかこれからもお元気で、ニュータウンの語り部になってください。未完成の部分を埋める力になってください」とお願いして、ロングロングインタビューを終えた。  
                    (2013年9月訪問 HARUKO記)


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