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川崎育子

川崎育子かわさきいくこさん 

嫁いでいったん滝ヶ谷戸を離れたのですが、家を継いだ弟が早くに亡くなったものですから、夫や子供とともに一家で戻りました。と申しますのも、両親は年老いていましたし、畑仕事なども誰かがしなければなりませんでしたから。「回り地蔵はもうしない」とおっしゃるお宅が出てきた頃でしたが、うちは「お地蔵さんは子どもを守るものだから、ぜひとも続けてほしい」と父母のたっての願いでした。それにみなさんが続けてこられたことですから、私もたいせつにしたいという思いもございました。若いころにはわかりませんでしたが、この年齢になって滝ヶ谷戸に戻ってみますと、地域の人々の気持ちが伝わってくるんです。 

岸進治 岸進治きししんじさん

お地蔵さんそのものを嫌だという人は講中にひとりもいないんです。だけど、とにかく重いとか運ぶのが大変ということが、問題になりはじめたんですよ。「なら軽くしてみては」と提案したことがあったのですが、それだとお地蔵さんの価値がなくなるというのが大勢の意見で……、結局それで、お堂にお納めすることになったわけです。だけどお地蔵さんを回さないにしても、講中を完全に解散して、二度と全員で顔を合わせることもなくなるってしまうのはどうなのかなって、私、個人では思うんです。これがなくなると、本当に何もなくなってしまうでしょ。日本全国を見回してみても、講中の行事はなくなっても、年に1回お茶を飲むなどで人のつながりだけは残したという話も聞きます。だって住んでる地域のつながりってのは、いざってとき、なんつったって強い。今の自治会とちゃんとつながっていくのは、講中でも私たち世代がしておくべき仕事だとも思うんです。 (注)ご本人お顔写真NGのため、写真は人影イメージです。
 佐野アキ 佐野アキさのあきさん

私は87歳。講中でいちばんの年長さんです。けれど毎日畑にお弁当持ってでかけていますし、グラウンドゴルフもしているんですよ。お地蔵さんを回すのは今はさすがに息子に頼んでいますが、以前は私が運んでいました。だから力持ちですよ、うふふ。若いころから体を使って働いてきたせいか、お地蔵さんのおかげなのか、おかげさまで元気にさせてもらっています。うちの前にもお地蔵さんが祀られているんですが、しょっちゅうお花をお供えしているんです。
佐野作助 佐野作助さのさくすけさん
うちはね、お父さんの代に、隣の八所谷戸ってとこからこっちに来たんですよ。そんな事情でね、滝ヶ谷戸のみなさんには、そりゃもう、たいへんに世話になったって、明治生まれの父はよくそう話していたからね、今でもうちは講中を抜けないでいるんです。自分が生まれる前から続けられていることだし、それに私自身が生まれたときに父が書いてくれた記録を、古い帳面で見たこともあるし。そうそう、八所谷戸にも回り地蔵はあって、まだ続けてるはずですよ。滝ヶ谷戸は立ち地蔵さんだけど、あっちは座り地蔵さんだったはずですよ。
佐野信行

佐野信行さののぶゆきさん

母は次の家にお地蔵さまを回すとき、いつも花を携えて行ったんです。まだ元気だったころの母がお地蔵さんを背負って孫と一緒に笑っている、とてもいい写真が残っています。そんなふうに母がたいせつにしてきた行事だし、家々を結ぶ講中には意味があるから、続けるのもやぶさかではないけれど、問題は「大きくて重い」という点に尽きるんです。腰痛のときなんか、ほんとにどうしようかって頭を抱えた。運ぶのが大変ということより、転んで壊しちゃったりしたらどうしようって、そのことがすごく気になるんですね。

 小泉昭男 小泉昭男こいずみあきおさん

僕は勤め人だったから、現役時代は、回り地蔵をはじめ地元のことにはあまり関わってこなかったんです。が、最後の世話人を幸ちゃん(島村幸吉さん)と一緒にさせてもらって、無事、お堂を建て、お地蔵さんをお納めすることができました。お地蔵さんを安置する場所で紛糾したことからわかるように、新しい人の方が多い現在の自治会と古い住民が、完全にしっくりいくのはたいへんですが、時間をかけて。僕はあきらめていませんよ。
 小泉〓二 小泉渶二こいずみえいじさん

講中って、宗教というより農家の絆なんですよ。田んぼに水を入れるにしたって、稲刈りするにしたって、屋根の萱を葺き替えるにしたって、あ、昔はこのへんは全部茅葺だったからね、農家は何をするにも助け合わなきゃ、やってけなかったんです。それに高度成長期の昭和40年ぐらいまでは、結婚式も葬式も家でやったんですよ。私なんかも結婚式は家。その翌年、中山に「花むら」っていう結婚式場がまずできたのを皮切りに、ホテルなんかもどんどんできたから、結婚式は外でするのがふつうになった。葬式も火葬になったから、みなで棺を担いだり、墓穴を掘ったりする手もいらなくなった。集落の家と家がしっかり結びついて助け合う必要が、寂しいことだけど、なくなっちゃったってことなのかな。
小泉清 小泉清こいずみきよしさん

講中はだいじな行事なんだが、後継者がいないから、つながらないんですよ。だって、講中をやめるなって強制はできませんしね。だから逆に構成員が20人ぐらいいる今のうちに、将来を決めておかなくちゃならない。これが数人になっちゃたら、決めることすらできなくなってしまうでしょ。大事なものですから、なおのことです。
 
小泉涓二 小泉涓二こいずみけんじさん

今でこそどこでも医者がいるけど、昔、それこそ50年くらい前には、池辺の中山さんと川和の前田さんと、お医者さまはその2軒きりしかなかったんです。今にして思えば、お地蔵さんにおすがりするしかなったんだよね。昭和40年代に松下や日本電気が来て、田んぼが工場や企業用地になってからかなあ。この地域の暮らしぶりや考え方が、大きく変わり始めたのは。


光子みつこさん
私、50年前に同じ都田地区の折本からここに嫁いできたんだけど、そのとき義父に「これは昔から子育て地蔵といって、子どもが生まれたときから成人するまで守ってくださるんだ。だからこの滝ヶ谷戸の子どもはひどい難病になったりすることがなかったんだよ。粗末にしてはいけないよ」と聞かされて。だから今までずっとだいじにお祀りしてきたんですよ。

小泉貞夫 小泉貞夫こいずみさだおさん

私は歴史が好きでね、滝ヶ谷戸の回り地蔵も調べてみたんですよ。そしたら緑区史なんかには延命地蔵だって書いてある。だけどここのみなさんは、子育て地蔵って信じてきたんです。だから同居している孫たちにもね、「お前たち、お地蔵さんのおかげで元気に大きく育ったんだから、ちゃんとお参りしなさい」って。お供えにお菓子を置いているのは、拝みにくる孫たちのため。だけどなにしろ年寄が多くなって、こんなに大きくて重いものを、長い距離背負って歩くのはえらいことでね。うちは農家を継いでくれている息子に頼めるけど、息子も嫁も勤めに出ていて、そうはできないお宅も多いんですよ。

小泉みよ子 小泉みよ子こいずみみよこさん

父が現役の頃は通勤に便利な街の方に一家でおりまして、昭和38年にこちらに戻りましてから、回り地蔵さまは私がしてまいりました。うちは中原街道を横断した向こう側に回していましたから、お厨子を背負って片手にお線香を持って大通りを渡ると、知らない人はそりゃ不思議そうな顔をなさって見ていらっしゃいましたよ。講中にはいろいろな行事がございましたが、いちばん大きなのは、そうですね、お念仏でしょうか。私が戻ってきました頃は、御ご馳走をたくさんこしらえて、各家が持ち回りでしておりましたからね。回り地蔵さまはこのたびお堂にお祀りされましたが、そうは申しましても、歩いてすぐの場所ですから、ひ孫を連れてお参りできますよ。なんといっても子ども守ってくださるお地蔵さまですからね。

小泉克司 島村克司しまむらかつじさん

以前から取り沙汰されていた回り地蔵の今後について具体的な話し合いになったとき、止めるなら今しかないと思いましたよ。というのも身体を壊した父に代わって引き継いだ僕はここで一番若いけど、あとはだいたいご高齢です。息子さんがいらっしゃるお宅もありますが、講中の集まりに出て来られたことは、まずない。ということは、どう見ても無理ってことじゃないですか。これからしばらくなんとか続けられても、次の代に引き継がれないなら、たいせつなことだからこそ、今のうちにちゃんと決めておくべきなんです。 
小泉幸吉 島村幸吉しまむらゆきよしさん

本音を言えば、回り地蔵、俺は止めたくなかったんだよ。世の中良くなっちゃったんだよ。だからそんなに人と付き合わなくてもよくなっちゃった。生活苦しくて困るってえと、助け合いってのが起こる。この前の震災のときなんかでもわかるでしょう、今日は店に何でもあるけど、いったん事があったら何にもなくなるよ。いくら金があったって、店にないものは買えねんだ。だから人のつながりって大事だと、俺は思うんだ。
自治会館に置かせてもらってみなが拝めるようにしようかと思ったけど、ダメだっていうわけだ。だけど江戸時代からずっと家ん中にお祀りしてきたお地蔵さんだもの、なるべく外には置きたくないわけさ。もう、うちでお祀りしちゃおうかって思ったけど、講中みんなのものだから、それもうまくない。結局、第六天さんの横にお堂を建てることになったから、俺の手足が動くうちは、何があってもちゃんと守ってゆく覚悟だよ。

 三留正子 三留正子みとめまさこさん

私は足を悪くしちゃってるし、息子も今ちょっと身体を壊してまして、また悪いことに、うちから次のお宅までは、いっちばん距離がある区間なんです。それでやむをえず息子に軽トラで運んでもらうこともあります。そんなうちがいては逆に迷惑になっちゃいけないから、抜けた方がいいでしょうかって講中の方に相談したことあるんですが、ちょっと待ってみなさいと言ってくださって。それで続けてきたんです。私も若かったころは、背負って歩いたこともあったんですよ。そうそう、その頃、回り地蔵さんの記録を、区役所の人だったかな、8ミリで撮りにみえましたよ※。

※「回り地蔵と花籠の舞~池辺町に伝わる風習と郷土芸能」のこと。港北ニュータウン記念協会で視聴可能。 
 吉原恭子 吉原恭子よしはらきょうこさん

実家の八所谷戸でも回り地蔵はありましたから、こちらに嫁に来ましたときも、何の違和感もありませんでしたし、ずっと続くものだろうって思ってました。重いので回していたのは主人ですが、お地蔵さんをお祀りするのも講中の行事も、ほとんど私がしていました。特にたいへんだと思ったことはなかったですよ。もし続いていたとしたら? そうですね、お地蔵さんは子どもを守ってくださるものだから、ちゃんと引き継ぐようにと、うちの子にも言ったと思います。ただね、もう少し軽いといいのですが…。このコ(ワンちゃん)の名前ですか? 今はお地蔵さんのお話ですが、このコの名前はハワイの神様からとってティキ(笑)。ティキにとってもお地蔵さんはおなじみで、家にあってもまったくいぶかしがりません。
 吉原美登里 吉原美登里よしはらみどりさん

実家は賑やかな六角橋だったものですから、ここに嫁いで回り地蔵を知ったときは、まあ、驚きました。20年ぐらい前に岩手県の遠野に旅行に行ったときも「昔は回り地蔵という習俗があった」ってセピア色の写真が展示されていてまたビックリ。だってこのへんでは、あたりまえにまだやってましたからね。それを今まで続けてきたのですから、すばらしいことですよね。
回り地蔵さんをお祀りするほか、主人の母から“毎年、行っているのよ”と教えらえて、私、元旦には滝ヶ谷戸の守り神である第六天さん、お伊勢さん、それから池辺全体の氏神さまである杉山神社さんに、お供えをして回ってるんです。嫁に来て35年、一度も欠かさず続けています。うちは白ゆり幼稚園をやっているんですが、園で借りている駐車場にも、昔からのお地蔵さまが祀られているんですよ。
横溝光男 横溝光男よこみぞみつおさん

お地蔵さんがたまたま家に回ってきていたときに、知り合いが遊びに来たことがあってね、ちょうど持病のあるお嬢さんが妊娠しているというので、お地蔵さんにお賽銭あげてくれて、家に帰ったあとも“お盛りもの”を、あ、お供物のことね、送ってくれたりして。先日ね、無事、生まれたって。それに検査したら持病も治ってしまっていたって。もう喜んでいてね、お地蔵さんにお礼のお賽銭を上げたいっていうんだけど、もうお堂にお祀りしちゃったあとだったからね、だから寄付って形にしたんだよ。だからさ、このお地蔵さんはね、滝ヶ谷戸に住んでる人だけじゃなくてね、その知り合いにまで大事にされてるんだ。