特別なニュータウンだと実感 |
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生粋の川和の方で、開発前のこの辺りのこと、開発でどんなことがあったかを、地権者目線でよく話してくださいますが、時々会話の中に言っていることが分からない言葉がありました。 そこで港北ニュータウン記念協会が出している「絵で見る港北ニュータウン物語」を見つけ、それなりになるほどと理解しつつも、私の中の港北ニュータウン開発はおばさんから聞いた地権者サイドの視点でした。 今回のお話会では開発設計サイドの川手さん、小規模宅地者サイドの白川さんの視点でお話を伺えました。「港北ニュータウン開発」という一つのテーマを複数の違う方向から知れたことで、私の中の理解が立体的に組み立てられていくようでした。 土地整備、緑道、都市計画…と、ニュータウン開発の中にはたくさんの要素がありますが、そのどこを切り取っても深い話がポンポンと出るというのも、なんと贅沢なお勉強会だっただろうと思います。 「港北ニュータウン物語」にも書かれていない面白い話をたくさん聞けました。ニュータウン=歴史がない、人工的景観と利便性だけが売りの味わいのない街などとインターネットで揶揄されていましたが、港北ニュータウンは、全住民と開発サイドの方々の膨大な時間や本音のぶつかりあい(それだって立派な現代史)やあそび心(文化)、人が上手に自然を生かした景観が基幹にある、特別なニュータウンだと実感しました。 お声がけいただいたメンバーがまたバラバラなのもおもしろいです。在住歴も50年、40年、30年、10年、と色々。職業も色々。それなのにみんながなんだかすぐに調和してしまったこと。港北ニュータウンの緑道を歩いていると、赤ちゃんから若者、中年層、年配者まで色々、やっていることもみんな好きなことをやっていますが上手に共存しています。 集まった人の都筑の在住歴は、いろいろでしたね。でもみんな「都筑大好き」で、この景観を守りたいと思っている人ばかりでした。景観の継続には、黒沼さん世代の理解と協力が必要です。お願いしますね。 写真は農専地区の小松菜畑。仲良くなったおばさんの畑ではないと思いますが、農地の割合が多いのも都筑の特徴です。 |
ニュータウンのイメージを統括した方の話を聞きたい |
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川手さんは、実行の現場に自由な切磋琢磨の環境を整えられた。そのベースは、飛鳥田市長の「開かれた参加スタイルのまちづくりにしなければだめだ」という考え方だとのこと。 アメリカのまち作りの手法などを取り入れて、地権者の会合に出向き、まちのイメージを伝え、みんなの考えも引き出して行かれた。 もう30年以上も前にお聞きした古老の話を思い出しました。ニュータウンを学ぶために、アメリカまで行ったそうです。そんな方も地権者のリーダーとして市や公団と対等にグリーンマトリックス計画に参画していったのでしょう。 緑道、公園なども、理想的なまちづくりを夢見る若いランドスケープのデザイナー達が集まっきて、デザインを競ったのだそうです。 たくさん出されたイメージを統括した方が、このまちの風格を決めている。ぜひその方のお話もお聞きしましょう。 川手さんのお話は、今あるものを知る謎解きのよう。3密を避けるために、人数も時間も制限しなければならないのは残念だけど、何回でもいいと言っていただいた。若い方も誘っていかなければ…。 (江幡千代子 ) デザインを競った若者たち。それを統括する方がいたという話は初耳でした。想像するだけで当時の熱気が伝わってきます。ぜひ統括者・上野さんの話を聞きたいですね。 写真は鴨池ランド。自然と建築がマッチして素晴らしいです。デザインは誰だったのでしょう。 |
地域のことを紙芝居にして残したい |
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川手先生のお話は、本当に貴重です。お聞きできてよかったです。何らかの形で残す、または伝えていくことはできないかと日々考えております。 |
何度歩いても飽きることがない緑道 |
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港北NTの大きな魅力の一つは緑道である。緑道は人の歩く専用の道で、グリーンマトリックス構想によるNTの要と言ってよい。 しかも約15キロにも及ぶ緑道はそれぞれ「〇〇のみち」などと呼ばれ、疎水や大小の池を取り込んだり、ぱっと開けた広場と重なったりする。また地形の高低差やその場所の植生を見事に生かしていて何度歩いても飽きることのない魅力を持っている。 先生のお話を聞くことができ、特に魅力的な緑道がどうやってできたのかについての疑問が解けたように思う。お話によれば、NTの基本構想ができ、いよいよ緑道の具体的デザインに入る段階で、造園計画の専門家である上野先生を中心に多くの造園事務所が参加して練り上げたそうである。特に各事務所の若手や公団職員の若手も参加したチームがいくつもでき、それぞれが自由な発想でデザインを競い合ったのが良い結果を生んだとのことである。 ここからは、緑道の魅力についての私の感想である緑道の多くは栃木県産の芦野石を敷き詰めた石畳である。そして道にそった疎水や池の周り、広場のベンチなどにも大量に小松石や外国産の御影石と思われる石が使われている。何とも贅沢な素材がさりげなく、しかも惜しげもなく使用されていることに驚く。 |
NTの50年をこの目で見てきた! |
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NT地区の中でもっとも交通が不便なのが北山田。50年前には信号がありませんでした。鷺沼が近かったので横浜市民と言うより、東京都民の感覚を持っていた人もいたのです。 NT工事について住宅公団からいろいろな知らせが届くのですが、責任者の名前はいつも「川手昭二」。あとで伺ったのですが、42歳から53歳まで港北ニュータウンに携わっていらしたそうです。 93歳の川手さんが50年前というと43歳。私がここに越してきた頃に、川手さんたち若き精鋭が、NT計画に着手していたのです。それを思うと感慨深いものがあります。 もともと農村だったこの地区には、戦前の大地主もいれば小作人もいます。私のように小規模の土地しか持っていない人も人数的にはかなりいました。ほとんどの人が換地で他の地に移りました。もちろん私もその1人。立場が違う住民の意見を取り入れての調整は、ご苦労があったろうと思うばかりです。 特に先祖代々の土地を手放すことになった地主の葛藤も、語り継いでいかねばと思います。土地を提供してくれたからこそのNTなのです。 川手さんはNTが一段落後に「つくば大学」の職を得ましたが、「ここに戻ってきて。いい土地が出たら押さえておくから退職金を管理させて」と、地元の地権者に言われたそうです。「戻らざるを得なかったんですよ」と、嬉しそうに話しました。それだけ皆さんに愛されて信頼されていたんですね。本当に戻ってきてくださってよかった! 写真は今の北山田駅。大東建託の調査で「住みたい駅」の上位に入ります。50年前の山と田と茅葺家がある風景は、すっかり変わってしまいました。 (白川治子) |
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