「都筑区水と緑の散策マップ」には、区内の緑道や寺社などをめぐる散策コースが載っています。

このマップの最後に、幕末から昭和初期に活躍した都筑にゆかりのある人物と生家跡を紹介しています。

故人のご子孫や関係者を訪問して、思い出を語ってもらうことにしました。


 


嶋村文耕と聞いても、分からない人がほとんどだろう。でも島村抱月の名前を聞いたことがある人は、かなりいるに違いない。

島村抱月の功績は後に書くが、早稲田大学の教授を務め、「芸術座」を作り、新劇を職業として成立させた。のちに松井須磨子との恋に走ったことでも知られる。

今回のゆかりの”ひと”は、抱月の養父である嶋村文耕(1854~1904)。現在の都筑区池辺町に住んでいたことがあり、墓も池辺町の阿弥陀堂にある。

今、世界中が新型コロナウィルスに振りまわされている。100年前にもスペイン風邪というパンデミックが、世界中で猛威をふるった。島村抱月がスペイン風邪で急逝したこともあり、抱月や文耕をもっと知りたくなった。

抱月が亡くなってからすでに102年、文耕となると没後116年にもなる。とはいえ、池辺町には嶋村姓の家が数軒ある。「文耕の関係者がいらっしゃるかもしれない」と当たってみた。

秋山さん(「都筑区水と緑の散策マップ」編集者)のリサーチや福聚院住職のアドバイスもあって、抱月の奥さんにつながる嶋村ヒロ子さんと嶋村芳夫さんにお会いすることが出来た。

上は明治30(1897)年、文耕が43歳頃の写真。検事職についている時なので、検事の礼服と思われる。 

 池辺に邏卒として赴任


116年も前に亡くなった文耕の詳細を知ったのは、左の「評伝島村抱月」による。

抱月のふるさと島根県浜田市の郷土史家「岩町功」による著作。昭和53(1978)年にも出版しているが、さらに書き足して平成21(2009)年に刊行している。上下で1700ページもの大作だ。

養父文耕の章」だけでも、25ページの記述がある。岩町氏はこの章を書くにあたり、池辺を訪問して文耕や抱月が生活していた地をめぐり、関係者にもインタビューしている。

本の最後に取材協力者として名がある嶋村時蔵さんは、今回お会いしたヒロ子さんの義父、芳夫さんの祖父である。

文耕の本名は、太田文耕。生まれは都筑郡とは遠く離れた、伊予の国(愛媛県)である。

安政元(1854)年に、明渕寺の長男として生まれた。長男なのになぜ寺を継がなかったのか?複雑な事情があったようだが、ここでは詮索するつもりはない。

明治6(1873)年、20歳の時に神奈川県の邏卒(明治初期には巡査のことをこう呼んだ)に採用された。

明治初期の農村には駐在所はなく、嶋村家の屋敷内の建物を、駐在所(横浜境町警察署池辺分署)として貸すように頼まれた。嶋村家は都田村字池辺の大地主で、主は若い未亡人のタツだった。


嶋村タツと結婚 


この駐在所に赴任してきたのが、太田文耕である。同じ屋敷内にいる未亡人のタツと独身の文耕が結ばれるのは、自然のなりゆきだったかもしれない。

明治12(1879)年、文耕26歳の時に婿入りして嶋村文耕となった。

しかし、結婚生活はつかの間で、数年後にタツは病気で亡くなった。子どもはいなかった。

本家ゆえに、跡継ぎがいないのは困る。タツが亡くなる前から、分家である嶋村滝蔵の次女イチを本家の後継に決めてあった。

本家と分家とはいえ、イチの母とタツは従妹だし家も隣にある。イチに抵抗はなかったのではないだろうか。

このイチが後に抱月の妻になり、7人もの母になる。この系図は上記の「評伝島村抱月」を借用した。

 巡査から検事へ


都筑区の南部は、ニュータウンに組み込まれなかったおかげで、文耕がこの村に赴任してきた頃の面影がかすかに残っている。

残念ながら、文耕とタツの嶋村本家は大正時代に人手に渡ったが、分家の嶋村家は同じ場所に現存している。「写真は載せないで」と断られてしまったが、無理もない。今は文耕にも抱月にも関係ないのだから。

左写真は現在の「都筑警察署池辺町交番」。文耕が赴任した駐在所そのものではない。場所もほんの少し離れているが、池辺分署時代を想像する一助にはなるかもしれない。

文耕は非常に向上心が強く優秀だったと思われる。池辺村の邏卒をしていたのは短期間で、横浜や横須賀の警察署に移動している。結婚した頃は警部に昇進していた。

でも、このまま警察勤務を続けていたら、抱月との出会いはなかったろう。タツの死後2年目の明治15(1882)年には、横浜始審裁判所詰めの検事補になった。行政警察官から司法検事になるには、いくつもの登用試験を受けねばならない。その関門を突破して、邏卒から検事へと異例の出世をとげたのだ。

検事の道に進んでからは、広島、尾道、三次に転勤し、明治19(1886)年には松江始審裁判所浜田支庁に着任した。この浜田で、4年間も勤務することになる。文耕と瀧太郎(のちの抱月)の運命的な出会いはこの時だった。

抱月が建てた文耕の墓 


文耕の墓が阿弥陀堂(池辺町2570)にあると聞き訪ねたのだが、ほとんどが嶋村か島村の墓石。住職は不在だし、どれが文耕の墓か分からない。抱月が建立してから100年以上経っているから字もすり減っているが、かすかに読める字を手がかりに見つけることができた。

 
 
阿弥陀堂 
今は住職は常駐していない

 
抱月が建立した文耕の墓
100年以上前なので痛みがひどい

なんとか読めないものかとカメラを近づけて撮ったら、字がはっきり写った。文耕と瀧太郎の字が判明して嬉しくなった。
下の右の新しい墓碑は、家系図の左下にある浮田マツ子さんが平成2年に建立したもの。


没年の明治37年と文耕の字 

大悟院泰安文耕居士とある

島村瀧太郎の字が読める 



平成2(1990)年に文耕の孫が建てた墓碑
新しいから読みやすいが写真が撮りにくい

 

 抱月とイチの結婚 子ども達


文耕が勤務していた松江始審裁判所浜田支庁は、判事局と検事局に分かれていたが、検事局の責任者は文耕だった。ここで給仕をしていたのが、16歳の佐々山瀧太郎。瀧太郎の祖父は大規模に鉄山業を営んでいたが、父の代に破産して一家は貧しい生活の中にあった。

文耕は瀧太郎の緻密で正確な仕事ぶりに感心し、「このまま学問もせずにこの地にいるのは勿体ない、東京の学校で学ばせてやりたい」と思った。学費を出す代わりに養子になってくれないかと持ちかけた。

瀧太郎がふたつ返事で承諾したかどうかは分からない。まったく迷いがなかったとは思えないが、文耕の申し出を受け、明治22(1889)年に、東京専門学校(今の早稲田大学)の政治科(のちに文科)に進学した。

妻のタツは亡くなっているし、文耕も長いこと池辺では生活していない。嶋村家の当主としては弱い立場にあったが、養子が決まって安堵したことだろう。赴任先にも連れて行った養女のイチと瀧太郎が結婚してくれれば、なおさら安泰だ。

文耕の望み通り、2人は瀧太郎が大学を卒業すると結婚した。結婚後しばらくは嶋村本家の後継ぎということもあって、池辺で生活したが、すぐに東京に移っている。

抱月というと松井須磨子とのスキャンダルがクローズアップされるが、書生として住み込んでいた中山晋平(カチューシャの作曲者)によれば、子どもをとても可愛がっていたし、奥さんとの仲も良かった。

抱月がドイツやイギリスに留学していた3年間、妻のイチは毎日近くの神社で無事を祈っていたという。

写真は抱月と子ども達(長女ハルと次女のキミと長男の震也)。この後で4人が生まれる。

嶋村ヒロ子さんも芳夫さんも、抱月の子ども達と会っている。「男子は戦死などで早くに亡くなっていますが、長女のハルさんや次女のキミさんや末子のトシさんは、長いこと元気でしたよ。時蔵とは従妹ですから、時蔵の葬式でも会っています。トシさんと一緒にうなぎ屋でご飯を食べたこともあります」と、なつかしそうに話してくれた。

「父親が家を出ても、亡くなってからも、生活には困らなかったと思います。当時としては珍しく日本女子大や女子美術学校を卒業しているほどですから。3人姉妹は一緒に荻窪の家で暮らしていました」

「雑司ヶ谷にある抱月の墓を浜田市の浄光寺にも分骨したのですが、その時も雑司ヶ谷まで行きました」

関係者はいないだろうとあきらめかけていた時に、イチさんの縁者から抱月の子ども達の消息まで聞くことができ、このレポートも血の通ったものになった。コロナ禍の中、気持ちよく会ってくれた2人には感謝しかない。

 抱月と松井須磨子


左は、「いち子と須磨子」のパンフレット。田中澄江の脚本で、昭和53(1978)年に俳優座によって公演された。

抱月を滝田裕介、いち子を岩崎加根子、須磨子を大塚道子が演じている。パンフレットの裏表紙には3人のサインがある。嶋村ヒロ子さんが大事に保存してあった。

「田中澄江さんがここに来て、イチさんが育った家や昔のことを聞いていったんですよ。イチの子ども達にも聞きに行ったそうです。チケットをくれたので、主人と2人で観てきました」

1978年といえば、抱月や須磨子が亡くなってから60年も経っている。にもかかわらず、一流の俳優たちによって演じられている。抱月や須磨子の人気は衰えていないようだ。

筆者とて抱月や須磨子をリアルタイムでは知らないが、カチューシャの唄も歌えるし、早稲田大学の演劇博物館で彼らの写真も見ている。

早稲田大学を優秀な成績で卒業した瀧太郎は、新聞記者や早稲田大学の講師を経た後に、明治35(1902)年に公費でイギリスやドイツに留学。ヨーロッパの演劇と戯曲を学んできた。

帰国後に早稲田大学の教授になり、評論、戯曲、翻訳など多方面にわたる文学活動を行った。

恩師の坪内逍遥と設立した文芸協会研究所の一期生として入ってきたのが松井須磨子。「人形の家」のノラや「ハムレット」のオフェリアを演じたのは須磨子だった。

ところが、大正2(1913)年に須磨子と抱月の熱愛が公になる。抱月は文芸協会を辞め、須磨子も退所処分になった。抱月は恩師の坪内逍遥を裏切り、早稲田大学の教授も辞職し、家族も捨て、須磨子との恋を選んだのだ。

文芸協会を辞めさせられた抱月と須磨子は「芸術座」を旗揚げ。芸術座第1回の帝劇公演がトルストイの「復活」だった。劇中で須磨子が歌ったカチューシャの唄(作詞は抱月、作曲は中山晋平)は一世を風靡し、彼らの死後も歌い継がれていく。「復活」は444回も公演され、新劇が大衆化するきっかけになった。

その絶頂のさなか、大正7(1918)年11月5日に抱月はスペイン風邪で命を落とした。須磨子は2か月後の大正8(1919)年1月5日に自ら命を絶った。抱月は47歳、須磨子は32歳だった。もしスペイン風邪にやられなければ、まだまだ楽しませてくれたに違いない。日本の新劇界にとっても損失だった。

池辺の女性に見込まれて婿養子になった文耕は、抱月の才能を惜しんで自分の養子に迎えた。当時は養子になる例が、かなりあったようだ。現在の県名で言うと、愛媛と島根と神奈川がからみあって、検事の文耕と文学者の抱月が誕生した。まか不思議な縁である。     
              (2020年12月訪問  HARUKO記 取材協力者 秋山満)


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