「都筑区水と緑の散策マップ」には、区内の緑道や寺社などをめぐる散策コースが載っています。

このマップの最後に、幕末から昭和初期に活躍した都筑にゆかりのある人物を紹介しています。

故人のご子孫や関係者を訪問して、思い出を語ってもらうことにしました。




 
ダンディーな紳士の写真は、今回のゆかりの”ひと”西條八十(明治25<1892>年~昭和45<1970>年)である。ウィキペディア借用。

八十(やそ)については、上記の「都筑区水と緑の散策マップ」の人物紹介には載っていない。マップの編集者・秋山満さんは「当時は調べがついていなかった。改訂版を出す時があれば載せますよ」と言っていた。

詳しくは後述するが、八十の父親は武蔵国都筑郡都田村川向(現在は横浜市都筑区川向町)の大地主・志田家の次男だった。何度も父の実家に遊びに行き、夏には鶴見川で泳いだという。八十が亡くなる数ヶ月前に川向を訪ねたことを、息子の八束(やつか)さんが書いている。

今回は、八十の従弟にあたる米吉さんの孫・志田久美子さんや志田隆さんから話を聞くことができ、嬉しかった。祖父や親から聞いた八十親子訪問時の思い出を聞かせてもらえたのだ。コロナ禍の中、気持ちよく会ってくださったことに感謝している。

60代以上の人は、西條八十の童謡や歌謡曲に慣れ親しんで育った。八十作詞の歌が常に流れていたからだ。それ以下となると、「聞いたことない」となる。

「こんな偉大な人でも、忘れられてしまうんだなあ、だからこそ書き残さねば」の思いを強くしている。


数えきれないヒット作品


「聞いたことない」と言う人には、「知らないはずない。八十の名前に気づかないだけよ」と、むきになってしまう。

「森村誠一の『人間の証明』という小説や映画があったでしょう。あの冒頭の”母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね?・・”の詩を作った人よ」と言うと、「あの詩は知ってますよ」と驚く。

歌を忘れたかなりや”(大正7<1918>年)や”若鷲の歌”(昭和18<1943>年や”青い山脈”(昭和24<1949>年)や、ずっと下って”絶唱”(昭和43<1968>年)などのメロディを口ずさむと、「それなら聞いたことある。でも作詞者は知らなかった」が大方だ。

「肩たたき」「毬と殿さま」などの童謡、美空ひばりの「越後獅子の歌」、島倉千代子の「この世の花」、村田英雄の「王将」など挙げればきりがない。

西條八十を取り上げる気になったのは、古関裕而を主人公にしたNHKの朝ドラ「エール」を見ている時である。上記の「若鷲の歌」は古関とのコンビで作られた。

前回の”ひと”訪問「嶋村文耕」は、島村抱月の義父である。このなかで、抱月の家で書生をしていた中山晋平について少し触れているが、八十は早稲田大学の学生の時、抱月の講義を聴いている。

中山晋平と八十のコンビで作った歌は300曲を超える。中山晋平との写真は、ウィキペディア借用。

こんな偶然が重なれば、西條八十を書かずばなるまいと思ったのだ。


 高尚さと俗っぽさが同居


とはいえ、これほどの偉人を「つづき交流ステーション」で取り上げるのは、荷が重い。でも八十と川向町とのかかわりに絞り、ゆかりの人に会えればなんとかなるとの思いはあった。

筆者が西條八十の名前を意識したのは、学生時代に仏文専攻の友人から「西條八十は童謡や歌謡曲の作詞者と思いきや、早稲田大学の教授もしていたし、フランスの詩人『アルチュール・ランボー』の研究者で論文も書いている。もともとは、純粋詩の詩人だ」の話を聞いた時からだ。

それまでは、母から聞いていた「いっそ小田急で逃げましょか」の作詞者としての八十だった。このフレーズは有名な「東京行進曲」(昭和4<1929>年)のなかにある。作曲は中山晋平。

私ごとで恐縮だが、昭和8<1933>年の父母の新婚旅行先は箱根だった。「嫌ね、こんな時に小田急に乗るなんて駆け落ちみたいじゃないと、おばあちゃんが言ってたのよ」の話は耳にタコだった。

「いっそ小田急で逃げましょか」という粋な歌詞とフランス文学研究者が結びつかなくて、こんがらかった思い出がある。高尚さと俗っぽさが同居していた。

粋でオツな歌詞がスラスラ出るのは、子供のころに叔父に寄席や芝居に連れて行ってもらったことも影響しているようだ。

左は、「銀座の柳」(昭和7<1932>年)の歌碑。冒頭は「植えて嬉しい銀座の柳」。東京行進曲の冒頭「昔恋しい銀座の柳」の続編として作られた。

JR新橋駅から5分ほどの、銀座8丁目9の高架下にある。。昭和29<1954>年に作られた。八十が愛した銀座の柳は、関東大震災でも太平洋戦争でも失われた。


父・西條八十の横顔 


ゆかりの”ひと”シリーズでおなじみの秋山満さんが、いつものように、「緑区文学散歩」や「緑区こと始め物語」など八十の関連資料をたくさん用意してくれた。ちなみに、川向は緑区に属していたことがある。

本も数冊読んだ。

中でも「父・西條八十の横顔」(西條八束著 西條八峯編)-風媒社発行-には、「川向を訪ねる」の一文があり、大変参考になった。息子の八束さんと八十が、昭和45<1970>年4月に訪問した思い出を綴っている。八十が世を去ったのは、同じ年の8月である。

父はもう自分が長くないことを意識して、私と川向を訪ねたのだと思う」と八束さんは文中で書いている。左は本の表紙。

秋山さんが風媒社を通して、編者の八峯(やお)さん(八十の孫)にお会いできないかと、連絡をとった。

・・私たちは祖父の近くに暮らしてからもう50年以上経っており、本に出ていることも、ほとんどは父の書いた文面によって知りました。 まして、曾祖父の出身地の話は、本を知る際に初めて知ったほどです。・・」という丁重な断りのお手紙をいただいた。

八峯さんが祖父の故郷についてほとんど知らないのは、当たり前かもしれない。


川向を訪ねる 


八十は明治25<1892>年に、東京市牛込区拂方町(現在の新宿区払方町)で、9人兄妹の7番目の子として生まれた。秋山さんは都筑区に越してくる前は、払方町のとなりの納戸町に住んでいた。「八十の生家跡と知らずに、この前を通り通勤していたんですよ」と感慨深げである。

八十は本名だ。他の兄妹は数字がついていないし、8番目の子でもないので不思議だが、名の由来は諸説ある。

八十の父は、武蔵国都筑郡の大地主・志田家に生まれた。名字帯刀も許された家だったが、次男である重兵衛は江戸に出て質屋の伊勢屋(西條)の番頭になった。働きぶりを認められて伊勢屋の跡継ぎになり、八十が生まれた頃には石鹸製造の工場を経営していた。従業員が何十人もいて、非常に羽振りがよかったようだ。

しかし、父が急逝し兄の放蕩もあって家業は傾き、14~15歳の八十が落ちぶれた西條家を背負うことになった。それ以後を書き進めるにはあまりにもページが足りない。ぜひとも本を読んでもらいたい。

八十は最晩年に父の故郷を訪ねているだけでなく、父が生存中は、たびたび川向の親類の家で過ごしている。鶴見川で泳いだり、納屋でかくれんぼなどをして遊んだという。

左は八十が泳いだという鶴見川。今は河川敷になっている所に重兵衛の生家があった。


「かくれんぼのような童謡を書いているのは、川向へ行った思い出からではないかと想像している」
と八束さんは、「父・西條八十の横顔」の54頁で書いている。

八十は、フランス留学や茨城県下館町(現在の筑西市)への疎開などで、いっときは東京を離れているが、生涯のほとんどを東京で過ごしている。東京ではこんな童謡は生まれないだろう。

かくれんぼ
おもひだすの かくれんぼ 待てどくらせど 来ぬ鬼に さびしい納屋の 
櫺子(れんじ)から そっと覗けば 裏庭の  柿の木にゐた みそさざい
 

(昭和15<1940>年)

志田家と西條家は、単に父の実家という関係ではない。八十の姉が志田家に嫁いでいるし、重兵衛の末弟・久七は八十を養子にするつもりで生活を共にしていたこともあった。その叔父が寄席や芝居が好きだったことが、のちの八十の別な才能を咲かせたようだ。

なぜか重兵衛の弟は、重兵衛の長男になり(明治期にはこういうことがあった)、川向で呉服店を営んでいた。こうした話を聞くと、重兵衛が志田家との関係を非常に大事にしていことが分かる。

上記の本の53頁に「川向を訪ねる」という八束さんの一文がある。少しだけ抜き書きする。

「・・目指す川向の家は成城から多摩川を超えて1時間足らずで訪ねることができた。庭の広い農家だった。・・・父の従弟の米吉さんと思われる。・・なつかしそうに手をにぎりあって旧交を温めているようであった。・・」


白い背広を着た素敵な人だった  


八束さんの一文にある米吉さんの家は、どこだろう?川向町はニュータウンの区画整理地区に入っていないので、1970年ころの面影が残っているにちがいない。

鶴見川沿いで志田家を探している時に、出会った若者に家系図を見せて「この家を知りたいんだけど」と言ったら、「米吉は僕のひいじいちゃんだ」となり、一挙に話が進展した。

左は志田隆さん。主に話を聞いた久美子さんは素敵な女性だが、写真に入ってくれなかった。この家は、八十親子が訪ねてきた時のままだという。

訪問は突然だったが、米吉さん(当時75歳)は在宅。米吉さんの息子の武助さんと奥さんのセツさんは、隣接する牧場で仕事をしていたので、にぎやかな歓談になったという。

「八十さんがいらした頃は、ここで牛を数十頭飼っていたのです。父はのちに別の仕事を始めましたが、当時はここで牧場を経営していました」と広い空地をさして説明してくれた。

写真は晩年の武助さん。「あら八十さんに似ていますね」と言ったら、「そうなんです。写真より本物のほうが似ていました。みんなに言われてました」

今回話をうかがった隆さんは、当時は勤めに出ていたし、久美子さんは中学3年生。

「八十さんたちには会えなかったのですが、話にはよく聞いています。小学6年生だった妹は、学校から帰ってきてちょうど会えたんです。妹は『真っ白い背広を着てとても背が高い人。この辺りでは見たこともない素敵な人だった。黒い外車に乗っていた』と興奮して話してくれましたよ」

上記の本には訪問時刻は書いてないが、小学6年生が帰宅する午後のひとときだったと思われる。

「そのころ”愛染かつら”というメロドラマを放映していたんです。主題歌の作詞が西條八十だったので、八十の親が志田家の出だと、家族で話題になっていました。それだけに、私も会いたかったですねえ」

「NHKの『鶴瓶の家族に乾杯』で、鶴瓶やゲストが訪問中に家にいなかった人が悔しがるのと同じですね」「そうなんです」というミーハー会話で盛りあがった。

「八十さんは『第三京浜道路は車でよく通っていたので川向はこの辺りだなと、寄ってみたいと思っていたんです。やっと願いが叶いました』とか、『橋から川に飛び込んで泳ぎましたねえ』など、話がはずんだそうです」

「訪問してくださってから4ヵ月足らずでお亡くなりになったと聞き、父の武助が成城のお宅にうかがって、八峯さんや八兄さんにもお会いしたそうです。その後、偲ぶ会や出版記念会に招んでいただき、父の武助はいつも出ていました。志田家と西條家とはしばらくは交流が続きました。父が生きていれば(3年半前に亡くなった)、もっとお話できたと思います。そういえば、祖父の米吉は八十さんの数年後に、同じ8月12日に亡くなったのです。ご縁を感じてしまいます


こんな諸々の話を、久美子さんは昨日のことのように話してくれた。西條家から武助さん宛の封書数通も大事に保管してあった。封書の切手代は、15円、20円、50円。

下の写真1枚目の住所には「志田牧場内」とある。鶴見川沿いで乳牛が飼われていたなど、今の都筑区民のほとんどが想像もつかないだろう。「ブルー・ライト・ヨコハマ」の歌が流行っていた頃、同じ横浜にもこんな場所があった。

差出人は、西條八十を偲ぶ会、西條八束と三井ふたば子の両名、中央公論出版局などさまざまだ。三井ふたば子さんは八束さんの姉で有名な詩人。前にも書いたが、今は都筑区に属する川向町だが、当時は緑区だった。

 


ゆかりの”ひと”を取材をするたびに、「10年前ならもっと情報が得られたのに」と、いつも歯がゆい思いをしている。ご子孫や関係者探しには苦労しいるが、それだけにお会いできたときの喜びは格別だ。今回もよい出会いに恵まれて、楽しいインタビューができた。                       
 (2021年2月訪問 HARUKO記    取材協力 秋山満)


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