「都筑区水と緑の散策マップ」には、区内の緑道や寺社などをめぐる散策コースが載っています。 このマップの最後で、幕末から昭和初期に活躍した都筑にゆかりのある人物と生家跡などを紹介しています。 故人のご子孫や関係者を訪問して、思い出を語ってもらうことにしました。 |
明治元(1868)年に生まれ、昭和22(1947)年に亡くなった植物学者である。79歳という当時としては長命だった。 生まれたのは東京の深川だったが、すぐに親戚である川和の松野家の養子になった。 昭和12(1937)年発行の俳句集(後述するが俳人でもあった)の後書きで、養子になった経緯を書いている。 「私は東京深川の原島家に生まれたが、ある事情のためにすぐ松野家で養われることになりました。・・のんびりした境遇が私の生活に適したとみえ、この歳になるまで無病息災に生活できたのは何よりの幸福と言わねばなりません」 江戸時代の川和は、2代将軍秀忠夫人のお江や芝増上寺の領地だったので、他の農村より豊かだったと言われる。「村民もこのことを誇りにしていた」と歴博の先生に聞いた事がある。 明治初期、のどかな農村には野草や樹木が身近にたくさんあり、植物への関心も高まったことだろう。 いろいろな方が書いている記録、ご自分の著作、曾孫の相川京子さんへのインタビューを参考に、松野さんの”ひと”をご紹介したい。
ヨコハマダケがどんなものかは後述するが、左写真は川和の松野家跡地にある記念碑。 昭和47(1972)年に、長男啓三氏と横浜植物会が建立した。 碑の背後に植えてあるのがヨコハマダケ。 碑が読みにくいので、活字にしたが、発見地はここではない。横浜市西戸部町字池の坂。 神奈川県立第一中学校(今の希望ケ丘高校)の教諭だった明治45(1912)年に発見した。 地図は明治39年の国土地理院の地形図。 発見時の勤務先は第一中学校だったが、明治39年当時の呼び名は、尋常中学校だった。 池の坂池の周りに見慣れないササが茂っているのを見つけた。 新種ではないかと、牧野富太郎博士に見せたところ「新種である」と認めてくださった。 昭和8年の地形図では、池はなく「旧池の坂地」となっている。大正9年の大雨で崖がくずれ埋め立てられたようだ。 だからヨコハマダケ発見の地は、地形が変わってしまい当時の面影はない。
ヨコハマダケの碑は、上麻生線の「川和公会堂前の信号」がら少し入ったところにある。 このバス通りは、今は商店も少ないが、、明治12年に都筑郡の役所が川和に移転してからは、裁判所、警察署、郵便局、司法書士や行政書士の事務所などが並ぶ、郡の中心だった。 たくさんの商店も軒を連ね、宿屋も数軒あった。 繁栄していた頃の写真を見たことがあるが、洋風建築が並び洒落た通りである。 松野さんが物心ついた時の川和は、農村地帯とはいえ、都筑郡の役所が立ち並ぶ場所でもあった。 横浜植物会の大谷茂氏は、横浜植物会年報(1973年刊行)で、重太郎さんについて詳しく書いている。 明治22(1889)年 川和分校の訓導。川和分校があった場所は上の地図。 明治27(1894)年 豊永小学校(池辺と川和の尋常科が合併して佐江戸にあった学校。のちに閉校)の訓導兼校長 明治29(1896)年 文検(植物)に合格 その後、動物と生物の文検にも合格 明治32(1899)年 神奈川県尋常中学校教諭(のちの横浜第一中学校、今の希望ケ丘高校) 明治45(1912)年 ヨコハマダケ発見 文検(文部省教員検定試験)は非常に難かしい試験だったが、合格すれば日本全国の学校から声がかかったそうだ。
今も活動している横浜植物会は、明治42(1909)年に設立された。日本で最初の植物会である。 前項でもとりあげた横浜植物会年報(1973年)で、大谷茂氏は、横浜植物会の発足経緯を書いている。大谷茂氏は父と同じく植物の研究者だが、父の大谷毅氏らに聞き書きした貴重な記録である。 左は川和分校の校舎。平成23(2011)年までは、公会堂や町内会館として使われていた。 松野さんの生家とは目と鼻の先である。 「川和分校時代に松野重太郎、岩澤正作、大谷毅の3氏が教鞭をとっていた。この3氏を中心に数名が加わって植物研究を志した」 「明治30(1897)年ころに牧野富太郎先生が川和の地に来ていることは父・大谷毅の履歴で明らかだ」 「文検に合格する者が多く、川和での研究グループは解消した。松野先生の転出で母体は横浜一中に移り、植物学創立の基礎がつちかわれた」 神奈川県の植物研究の礎石が川和で築かれたと聞くと、100年以上前とはいえ、区民として誇らしい気持ちになる。 横浜植物会の中心は川和から、重太郎さんの勤務先第一中学校に移ったが、牧野富太郎先生は、引き続き講師として指導してくださった。 写真は中山駅前で大正6(1917)年撮影。 前列左から2番目が牧野富太郎、その右隣が松野重太郎。 牧野富太郎は、小学校中退ながら理学博士の学位も取得し、「日本植物の父」と言われた。牧野富太郎の名がつく植物園は、出身地の高知県や晩年を過ごした東京の練馬区にもある。 なお、重太郎さんら横浜植物会と博士の交流は、植物学という枠を超えて親密だったようだ。重太郎さん宛ての手紙も残っている。
碑の側のヨコハマダケを見た時に「これが竹?ササでしょう」と思った。詳しく知るには専門家に聞くしかないと南区にある「横浜市こども植物園」に行ってみた。ここでヨコハマダケを大事に育てていると聞いたからだ。この植物園は小規模だが、ニュートンのりんごやエジソンの竹なども移植してあり、楽しめる。 お目当てのヨコハマダケは竹園の一画にある。 横浜市緑の協会の速水さんが丁寧に説明してくださった。
「ヨコハマダケという名前とはいえ、ササの仲間ということはわかりました。でも、私がいつも目にするササとの違いがわかりません」 「横浜に自生するアズマネザサやメダケとはとても似ていますが、葉鞘に毛がある、葉は質が厚く先がだんだん細くなってとがる・・などの違いがあります。葉が厚いと言っても、1ミリも差がないので、我々にも見分けが難しいのです」 こんな細かい違いを見つけた松野さんの観察力に改めて脱帽だ。牧野富太郎博士も新種と認めてくださり, 大正7(1918)年に「Arundinaria matsuno Makino」の学名がつけられた。 その後、中井氏が渋谷区でも同種のササを発見し、昭和元(1925年)には「Pleioblatus matsuno Nakai」がつけられ、今はこの学名が使われている。 「ところで、ヨコハマと名がつく植物はこれだけですか」 「他に2つあります。ヨコハマイノデ(シダ科)とヨコハママンネングサ(ベンケイソウ科)。だから野生植物でヨコハマとついているのは、3つだけです」 ヨコハマと名のつく植物が、わずか3種しかない、そのひとつに川和出身の松野の学名がついていることをと知ると、ますます有難みが増してくる。
今回の取材も秋山さんのコーディネートがあったればこそだ。7年ほど前に、重太郎さんの孫・久子さん宅(神奈川区)を訪れている。久子さんは重太郎さんの初孫で10歳ぐらいまで一緒に住んでいた跡継ぎ。でも数年前にお亡くなりになり、主な資料は希望ケ丘高校や植物会に寄贈なさったという。 でも久子さんのお嬢さん(重太郎さんの曾孫)、相川京子さんにお会いすることができた。 「重太郎が神奈川区に移ってからも、松野家は川和にありましたし、重太郎と川和は切っても切れません。私も20年ほど前から川和に住んでいます」と京子さん。 茶色に変色した重太郎さんの名刺を見せてもらったが、本宅「横濱市外川和町字川和」、別宅「横濱市神奈川区××」となっている。 左は掛け軸や俳画などを見せてもらっているところ。秋山さんは「上手な絵ですねえ」と感動しきり。 俳句をたしなんでいたことは、聞いていたが、芸術性のある俳画を目にして驚いた。「才能のある方は何でもできるのだな」と筆者も感動。 生家の原島家の祖父が俳人だった関係で、16歳のときに俳句を始めた。学校勤務で休俳していたが、勧められて再開。昭和9年からは輪水という俳号を名乗ることになった。「輪水」は川和の旧名「河輪」からとっている。 重太郎さんは古希記念に第一句集を出版した。4500余句がおさめられている。第三句集まで出すつもりだったが、第二句集で終わっている。下の3枚は京子さんが持ってきてくれた色紙や掛け軸の一部。 「重太郎さんはご家庭ではどうだったのでしょうか。何か聞いていますか」 「学校関係や植物学会や俳句の仲間などお客さんがとても多かったそうです。ユーモアのある温かい人だと聞いています。当時は冷蔵庫などないから、料理は日持ちする酢の物が多くなり、そのことを重太郎が句に詠んでいるいるんです」 「どんな句ですか」 「”正月や酢の物多き膳のうえ”という句です。私もさんざん聞かされたので覚えてしまいました」 「一中時代に生徒には飛鳥田一雄さんや有名になった人がたくさんいました」「外では言わなかったけれど、無謀な戦争だと家の中では口にしていたそうです」「晩年はいつも猫を抱いていた」 京子さんに取材をお願いした時には「お役に立てませんから」と断られたのだが、どうしてどうして資料はお持ちだし、曾孫でありながらよくご存じ。直系の曾孫さんに会えたことで、重太郎さんの人となりに少し近づけた気がする。 重太郎さんは川和の瑞雲寺に眠っている。法名は「植学翁輪水大禅居士」。植物学者でありながら俳人でもあったお人柄がよく出ている。 (2020年7月8月訪問 HARUKO記) |