「都筑区水と緑の散策マップ」には、区内の緑道や寺社などをめぐる散策コースが載っています。

このマップの最後に、幕末から昭和初期に活躍した都筑にゆかりのある人物を紹介しています。

故人のご子孫や関係者を訪問して、思い出を語ってもらうことにしました。 


 


写真は、ゆかりの”ひと”の外国人としては初、デンマーク人のクリスチャン・グラン(弘化2<1845>年~昭和2<1927>年)である。

グランは、明治13<1880年>年に横浜に来て、都筑郡都田村池辺で生を終えた。ふるさとのデンマークに帰ることは、一度もなかったらしい。

奥さんの串田ヨシさんが池辺出身ということもあったが、富士山が見える自然豊かなこの地を心から愛し、30年以上をこの地で過ごした。

今でこそ、外国人と日本人の結婚は珍しくないが、明治・大正時代には、好奇の目で見られることも多かったと聞いている。ましてや、外国人の居留地があった横浜から遠く離れた鄙びた地。グランが住んでいた頃の池辺は、横浜市には入っていない。

でも、池辺の人たちは夫妻を奇異な目で見ることもなく、温かく受け入れたようだ。「異人館」を気軽に訪れる人も多く、茶目っ気たっぷりのグランは、村の子どもたちにも人気があった。


 風車の回る異人館とグラン夫妻の墓


グラン夫妻が池辺に住んでいたことは、「緑区文学散歩」や「風車の回る異人館(金子勤著)-1994-」「横浜をめぐる七つの物語・第一章 横浜の風車とあるデンマーク人(大西比呂志著)-2007-)」などを読み、頭では分かっていた。

都田小学校に「風車のある異人館」の写真と絵が保存されていることを本で知り、手始めに小学校を訪問した。

廊下には歴代校舎の写真が貼ってある。その1枚に大正15<1926>年頃の朝礼写真があり、校舎の山側に「風車のある異人館」が写っているではないか。昭和3<1928>年頃の写真にも同じ異人館が写っている。玄関に飾ってある色鮮やかな油絵にも、異人館と白い風車が描かれている。

 
大正15<1926>年ころの都田小の朝礼
上に風車のある家が見える

昭和9<1934>年度卒業生・小川俊さんが描いた油絵
説明には大正時代の回想とあった

 
案内してくださった小山副校長先生はこの写真も油絵もじっくり見ていなかったので、風車のある家は気づきませんでした。郷土の歴史をもっと知らねばなりませんねと、おっしゃっていた。

都田小学校隣の長王寺にあるグラン夫妻の墓は、「水と緑の散策マップ」で目にしていた。でも筆者が1年前に行った時には、それらしき墓はなかった。墓が無くなった理由を知りたいと小学校訪問の帰途に寺を訪ねたところ、前の住職がお亡くなりになり、息子さんに代わったばかりだった。

前住職の奥さんは「数年前にお年寄りの男性が来て、墓石も骨壺も持っていったんです。自分の子どもたちはアメリカにいるから、ここに墓があってもお参りもできないからと言ってました。どこに移すか聞いてないのですが、外人墓地かもしれませんね」と残念そうな口ぶりだった。

今となっては貴重なグラン夫妻の墓(縦長)とグランの次女夫妻の墓(横長)を、秋山さんが撮っていた。秋山さんは、区内の各所を定点観測して写真に残しているが、都筑区の変遷を知るうえで一級の史料になるに違いない。

 
長王寺のグラン夫妻の墓(縦長)と次女夫妻の墓(横長)  今は空地になっている
 
グラン夫妻の墓石を文字起こししたもの


異人館に土地を提供した横溝勝義さん


池辺はニュータウンの開発地区に入っていないので、以前の地形が多少は残っている。異人館のヒントが得られるかと数軒の店やお年寄り数人に尋ねたが、首をふるばかり。ガイジンがいたことなど、聞いたこともないと言う。

グランの奥さんが亡くなってから、90年も経っていない。新興住宅地でもないのに、夫妻を知っている人が誰もいないなんてことがあるのだろうか。途方に暮れたが、ここであきらめるわけにはいかない。

そんな時に、川和出身の中山健さんの知人が朗報をもたらしてくれた、「都田小の上に異人館という屋号の家がありますよ」と。同じ苗字が多い農村では、今でも屋号が使われている。「おもて」とか「しも」とか「かじや」とか「たけや」とか。

屋号が異人館と言うからには、グラン家と関係あるに違いない。その勘は当たっていた。横溝さんのお宅だったが、「私は嫁にきたので詳しくは知りませんが、義父母や主人から、ここにデンマーク人が住んでいたことを聞いてましたよ。もともとは横溝本家の土地でしたが、グラン夫妻が亡くなった後に土地を返してもらったのです」と話してくれた。

 
大正15<1926>年撮影のグラン家
都田小の写真を部分拡大した
 
屋号が「異人館」の横溝家 ほぼ同じ場所に建っている
許しを得て撮影した


結婚するまでこの横溝家で育った吉原恭子さんが取材に応じてくださった。彼女は中学生のころまで、グランが建てた異人館に住んでいたという。異人館は幻ではなかった!

「祖父の横溝勝義は、グランさんが亡くなるまでという条件で、土地を貸したと聞いています。ご夫妻が亡くなった後に、祖父は末っ子である私の母にこの土地を譲ってくれました。珍しい陶器の人形をたくさん集めていたり、モダンなおじいちゃんでしたよ。グランさんにいただいた物もあったかもしれませんね」

金子勤さんの「風車の回る異人館」には「村人が快くガイジンを受け入れたのは、地主の勝義さんが広い心を持っていたからだろう」とある。

「母はグランさんの次女・ベティ(エリザベス)さんの話をよくしていました。とても朗らかな人だったと。結婚して横浜に住んだベティさんですが、お墓参りの時はわが家に寄ってくれたそうです。その後、べティさんご夫妻も同じ場所に墓を作りました。だから、私もお花をあげていたんですよ」

「中学生の頃まで異人館に住んでいました。四角いスチームや煙突は残っていましたが、使えなかったので寒い家でしたよ。ガラスが多かったので台風の時など、板で防ぐなど家族総出です。玄関も観音開きのガラス。屋根はトタンでした。板敷がほとんどでしたが、一部屋だけは畳を敷いてました」

恭子さんは「異人館を取り壊し、新しく家を建て替えたのは昭和45<1970>年ころです。土台はそのまま利用しました」と言う。ちなみに、上の写真は数年前の建築。


 西班牙犬(スペインいぬ)の家


「田園の憂鬱」などで名高い文学者・佐藤春夫の最初の短編が「西班牙犬の家」である。春夫が都筑郡中里村(今の緑区鉄<ろがね>町)に住んでいた大正5<1916>年4月~12月に、書き上げた。春夫が25歳の時。芥川龍之介らが絶賛して文壇デビューするきっかけになった。

春夫が中里村を出て目的もなしにブラブラ歩いていた時に、雑木林の中に風変りな家を見つけた。この家こそ、グラン夫妻の異人館。もっとも春夫が小説の題材にした家は、母屋から少し下った所に建つアトリエだった。母屋まで行けば、グランさんに会えたはずだ。「・・この家の主人にはまた会いに来るとして」と書いているが、春夫が再びこの地を訪れることはなかった。


「西班牙犬の家」から少しだけ抜き書きする。

「・・この家には別に庭という風なものはない様子で、ただ唐突にその林のなかに雑じっているのである。・・・ただその家は草屋根ではあったけれども、普通の百姓家とはちょっと趣が違う。というのは、この家の窓はすべてガラス戸で西洋風な造しらえ方なのである。・・」

「・・この部屋の中央には、石でできた大きな水盤があってその高さは床の上から二尺とはないが、その真ん中のところからは、水が湧きたっていて、水盤のふちからは不断に水がこぼれている。・・ちょっと異風な家だとはさきほどから気がついたものの、こんな異体のしれない仕掛けまであろうとは予想できないからだ。・・」


抜き書きを読んだだけでも、この家が目に浮かぶが、幸いにも写真が残っている。写真の所蔵者は、ウィリアム・マール氏(グラン夫妻の次女エリザベスの息子)。

フェリス女学院資料室(のちに資料館)発行の「あゆみ17号」に、マール氏は「風車のある学校と私の母」という一文を寄せている。別項で書くが、グランはフェリス女学院の風車を設置する仕事を請け負い、長女も次女もフェリス女学院で学んだ。

フェリス女学院歴史資料館の鈴木慶子さんが、グランに関連ある「あゆみ17号と61号と73号」の3冊を、提供してくださったことで、記事に厚みができたように思う。


フェリス女学院の風車 


グランはデンマークの小さな島の牧師の家に生まれた。親戚に誘われて、明治2<1869>年、24歳の時にフリゲート艦「デンマーク号」にエンジニアとして乗り込んだ。シンガポールや天津などを経て、上海に到着。

上海でヘボン博士に出会ったことが、のちにグランが来日するきっかけになった。博士は、ヘボン式ローマ字や「和英語林集成」の出版、明治学院の創設などで、今の日本人にも知られている。辞書出版用の紙の調達や印刷のために上海を訪れていた。このヘボンさんの家に仕えた牧野よしさんについては、ゆかりの”ひと”3回で書いている。

上記の「風車の回る異人館」は、プライバシーを配慮してか「小説」となっているが、残っている資料や聞き書きを重ね合わせると、ほぼ史実である。著者・金子勤さんに確かめたいことがあり数度電話をしてみたが、ツーツーの音ばかりが鳴り、話は聞けなかった。

ヘボンさんの勧めで来日したのは明治13<1880>年だが、「風車の回る異人館」には、グランがヘボン家を初訪問した時に案内してくれたのが、牧野よしさんだったと書いてある。

来浜後のグランは、居留地クリークサイドで造船所を経営していた。明治初期の横浜にはお雇い外国人も含め、たくさんの外国人が活躍していて、活気があったという。

こんな時にフェリス女学院のブース校長に頼まれて、風車を設置することになった。多くの女学生は寄宿生活をしていたが、衛生状態のよくない水にあたって、コレラなどで命を落とす子もいた。胸をいためた校長が、地下水をくみ上げるための風車をアメリカから取り寄せた。

当時在学していた相馬黒光さん(中村屋創設者の妻)が、自伝でフェリスの赤い風車のことを書いている。

「・・水は風車によって深井戸から高い所の大タンクに吸い上げられ、その風車、タンク、校舎の壁、ことごとく赤一色に塗りこめられて・・」

風車が設置されたのは、明治21<1888>年3月。赤一色の風車と校舎は、しゃれた建物が多い居留地の中でもひときわ目だったにちがいない。

ところが、12年後の明治33<1900>年9月、猛烈な台風が襲い風車は壊滅的な被害を受けて落下。これ以後フェリス女学院に風車が回ることはなかった。

フェリスの風車が都筑の丘で回り始めた


グランは来浜してすぐ串田ヨシさんと知り合い、結婚した。ヨシさんが池辺から横浜に出た理由はわからないが、同郷の牧野よしさんに誘われたらしい。

グランは、結婚後は居留地166(今は中華街)に住み、自分が取り付けた風車を毎日眺めていた。

風車設置後しばらくしてから、ヨシさんの実家がある池辺に家を建てた。最初は別荘として使っていたが、造船所を売り払い拠点をここに移し、鉱山用の削岩機を作っていた。

フェリスの風車が台風で破壊されたと聞き、グランは修理して自宅に設置することにした。エンジニアのグランにとっては、造作ないことだった。写真の右端に立っているのがグラン。右上に風車が見える。

こうしてフェリスの風車は、都筑の丘で回り始めた。単に水を汲み上げるだけでなく、タンクに貯めた水を薪で暖めて各所に給湯していた。セントラルヒーティングである。上記の「西班牙犬の家」の抜き書きに「異体のしれない仕掛け」とあるのは、このシステムを指している。


上が客人と撮った写真。デンマーク人ばもちろん、多くの外国人がたびたび訪れていたようだ。写っている方は誰が誰やら分からないが、中央で微笑んでいるのがヨシさんだと思う。美しい方だったと聞いている。ウィリアム・マール氏所蔵。

グラン家の風車がいつまであったのかは分かっていない。大正12<1923>年の関東大震災でも壊れなかったのは、都田小に残っている写真から明らかだ。関東大震災は、池辺に隣接する佐江戸に慰霊碑が建っているほど都筑郡にも大きな被害をもたらしたのに、異人館も風車も無事だった。

昭和3<1928>年の写真にも写っているので、グランがこの家で亡くなった時には、回っていたことが分かる。この家に昭和45<1970>頃まで住んでいた恭子さんが「風車はなかった」と言っている。太平洋戦争時の金属回収で取り外されたのかもしれない。

ゆかりの”ひと”のご子孫や関係者を探すのはいつも難儀しているが、今回がいちばん苦労した。茅葺屋根と田畑と雑木林の中に建つ風車の回る異人館。おとぎ話のようなこの光景は、90年前まではあった。風車こそ無かったが、50年前までは異人館が残っていた。

残念なことに串田ヨシさんの実家は、まだ分からない。池辺には今も串田家は何軒もあり、たくさんの方が協力してくださったが、先祖や親戚にそのような人がいた話は聞いたことがないという答えばかりだった。もし本稿をお読みになって情報をお寄せくだされば大変嬉しい。  

(2021年3月4月訪問 HARUKO記 取材協力 秋山満)

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