港北ニュータウン計画は、横浜市6大事業のひとつとして当時の飛鳥田市長が 発表しました。1965年のことです。

日本住宅公団(今の都市再生機構)が委託を受け、長い時間を経てニュータウンは完成しました。実際に動き出した1969年から10年にわたって公団職員として指揮にあたった方が、川手昭二さんです。川手さんについては「ひと訪問」で2013年に取材しています。

コロナ自粛で近辺を歩き回り、改めてニュータウンの魅力に気づいた人などから、「川手先生から当時のお話を聞きたい」という声がたくさん寄せられました。

筆者は、「都筑魅力アップ協議会」や「都筑アーカイブクラブ」でご一緒に活動しているので、お願いしたところ「暇ですからいいですよ」と快く受けてくださいました。

10月初旬に会場のE邸に集まったのは9人。密に気をつけながら、2時間に区切っての私的な会合でした。写真は計画図を見ながら熱心に説明してくださった川手さん。

この日に集まった方から「ひとこと」書いてもらいました。ニュータウンは当初の理念が崩れ始めているとの声も聞きます。ニュータウンの景観を守るためにも、ウェブで残しておくことが大切だと考えています。         (2020年10月 HARUKO記)


 

地盤沈下の心配がないと聞いて一安心

個人的に一番心配していた港北ニュータウン宅地造成による震災時の山津波(地盤沈下)の可能性については、当時、3年かけて山ごとに地質調査をして地盤沈下しないための実証を行ったと聞きました。

川手さんから「時間はかかりましたが大丈夫!」とうかがい、大変安心しました。

また、お話に出てきたニュータウン開発に係わった人たちの名前が大物ばかりです。

日本建築士連合会会長も務められた藤本昌也さんや、区役所通り、歴博通りの直線にこだわった田村明さん(故人、建築学会大賞受賞者)など、ニュータウン造成の経緯を建築技術者の立場からお話しいただきました。

今の横浜市まちづくりでは(コンプライアンス的にも)発想もできない様々な奇跡が溢れる街なんだということを実感しました。

予算の使い方含め、今の世では恐らく二度とできませんが、日本の戦後の発展を象徴する、世界遺産レベルの街に住んでるんだと考えるとしっくりきます。これをメンテナンス含めどう残すか、本当に大きな課題です。    (草間剛)


筆者は50年ぐらい前、横浜のチベットと言われた北山田に越してきました。くぼ地や低地もかなりありましたが、何年も養生しているのをこの目で見てきました。当時は「何をモタモタしているんだろう」と思いましたが、地盤沈下しないための処置だったのですね。草間議員が、区民の安全を心配してくれていることに、改めて気づきました。
写真は、夕刻のみなきたウオーク。直線にこだわった田村明さんの案です。


 
トップダウンではなく計画段階から住民も参加した

 1960年代から計画の始まった港北NTの、計画初期の「秘話」ともいえる興味深い内容は、現在このNTに住む私たちに、この住環境に対する愛情をいっそう増してくれるものでした。

お話の中で興味深かったのは、NTが生まれた経緯とともに、緑道を始めとする豊かな緑の環境が生まれた経緯でした。

まず、NT計画の経緯の話。
当時の飛鳥田市長のマニュフェストの6番目に港北NT建設が掲げられていましたが、この開発が公から民へのトップダウンではなく、住民参加の重要性とその手段が十分に検討・実施されたとのこと。これはNTの完成後1983年に移り住んだ私にはうかがい知れないことですが、開発に地権者の方々の意見、利害を調整・反映するのに大きな努力が払われたことが豊かな都市計画の一助となったことが感じられました。

それを象徴するランドスケープ計画に関しての興味深い話。
具体的設計を担う当時の公団事務所には、民間の協力設計事務所の若いスタッフが大勢参加していたとのことですが、川手氏は全体計画をまとめる日本住宅公団の一人として、彼らから自由なランドスケープ計画を最大限引き出す立場でした。

この設計環境は若いデザイナーにとって夢のような場所だったことが想像できます。
もちろん責任者の俯瞰的チェックはあるでしょうが、このときの設計者同士の議論や競い合い、良い意味でのライバル意識がヒューマンスケールのNT緑地計画に反映されたのではないかと思います。設計室は非常に活気ある場だった、と川手氏は語っていました。

もうひとつ興味深かったのは、この計画に対する予算の潤沢さの話。

NT計画時期の1970年代はバブル景気の始まる少し前で、日本の経済は活気の前兆にありました。つまり理想的なタイミングでNT計画が行われたのではないでしょうか。

予算の多寡は計画のモチベーションに大きく影響すると思います。その意味でNTの街づくり、とくに緑道などの環境整備は大きな良い遺産を残してくれる計画だったと川手氏のお話から感じました。

令和元年に横浜市の「都筑区緑道整備ガイドラインの策定」が国土交通省都市局長賞を受賞しましたが、これはこの緑道が造りっぱなしではなく40年後の現在、横浜市や地域住民によって大切に守られ運営されている証ではないかと感じます。 (木下道子)


市や公団が一方的に決めるのではなく、地元住民も参加してニュータウンを作り上げたことは、感動的ですね。上の写真は中央公園にある「港北ニュータウン建設事業記念碑」です。輪が3つに分かれているのは、横浜市と住宅公団と地元4地区協議会の協力で完成したことを表しています。


 
自慢したいのは15㎞の緑道

11年前に夫の退職を機に縁もゆかりもない都筑に、不動産屋さんの紹介だけで、札幌から引っ越してきました。

第二の人生、住むからには都筑を好きになって楽しく過ごしたいと、すぐに区主催の「ガイドボランティア養成講座」に参加しました。 ガイドになるつもりは全くありませんでした。都筑を知るには手っ取り早いと思ったのです。

ニュウータウンの成り立ち、外へ出ての緑道、街並みの見学の講座が終わった頃には都筑の町が大好きになっていました。 もっともっと都筑のことが知りたくなりました。引越してきてから、この地に住んだことに11年一日として後悔したことがありません。

ボランティア講座の中で、ニュータウン開発での公団のトップ川手先生の存在を知るようになりました。 講演などでお話を聞く機会はありましたが、今回隣に座ってお話が聞けたことは感慨深いものがありました。

ニュータウンに住んで一番に自慢したいのは、保存緑地を取り込んだ公園と公園をつなぐ15kmの緑道だと思っています。

ただここ数年。この保存緑地が少しづつマンションや宅地に変わってきているような気がします。港北ニュータウンには「景観法」というものが適用することができると 先生はお話してくれました。住人たちが「景観協議会」を立ち上げ、市に陳情すると市長が判断し決定できるとのことです。

本籍も都筑に動かし、お墓も購入し腰がすわった都筑人の私、この素晴らしい緑道を変わることなく残していくには、どのように動けばいいかですね。      (大橋明美)

 景観協議会の立ち上げは、ぜひ実現したいですね。緑道が素晴らしくて都筑に住むことを即決した話はよく聞きます。上の写真は15㎞もある緑道の一部「せきれいの道」。春も夏も秋も冬も魅力的です。


 
若い技術者のデザインをまとめた建築家・造園家がいた

改めて港北ニュータウンの素晴らしさを実感致しました。 造られた過程にも感動をいただきました。

〇住民参加の建設会議をされ、地権者の方々の納得いくよう決められ心の交流もできた。

〇各エリアを若い技術者の方が情熱を込めデザインされ、それを核となる建築家、造園家の方々がまとめられた。

〇造成工事は、地山を丁寧に年月をかけ安全安心な宅地を造られた。

〇治水対策の大変さ、水の流れや石の配置にも気を配られた。

〇当時の経済情勢が良い方に影響された。

この偉大な事業を成し遂げられた皆さまには大変感謝しております。

私は18年前、この緑多い自然に魅了され移り住み、緑道散歩を満喫させていただき幸せです。 美しい自然は人の心を豊かにするのでしょうか、文化的な集まりも多く、楽しく住み心地よい街になりました。

これからもこの美しい景観を守るため、どのようにしたらよいか考えていきたいと思います。 未来の子どもたちに美しい自然を残せるように!            (杉原陽子)

 
「各エリアが若い技術者にまかされた」という川手さんの話は、私も非常に印象に残りました。当時の若さあふれる活気を想像すると楽しくなりますね。上の写真の八幡山公園の4本柱についても、誰の発案なのか正式な記録にはないのです。まかされた技術者や造園家の遊び心だったのかもしれません.。


   
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