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 都筑の神社  星の王子  2014年1月2日(木) 20:36
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都筑の神社は何故か、明治末頃に合祀された神社が多い。山田神社、杉山神社など。理由を調べて見ると「明治39年の「神社合祀令に関する」勅令が発布された」ということに行き着く。

柳田邦男(民俗学者)南方熊楠などがこれに反対した。地域にとって差があったようです。この地方は素直にしたがったのかな?

神社合祀
神社合祀(じんじゃごうし)とは、神社の合併政策のことである。神社整理ともいう。複数の神社の祭神を一つの神社に合祀(いわゆる稲八金天神社)させるか、もしくは一つの神社の境内社にまとめて遷座させ、その他の神社を廃することによって、神社の数を減らすというもの。主に明治時代末期に行われたものをさす。

自然災害の歴史;琵琶湖西岸断層
http://ohmikairou.org/col312.html

明治39年(1906)に「神社合祀令に関する」勅令が発布されて、地方の集落神社が国家統制の下に実施された神社整理の嵐が全国を吹き荒れた事

合祀令による神社整理の実態
 この国家統制は、法律でなく勅令によるもので、その推進は地方長官(府県知事)の裁量に委ねられた。その結果、府県によって、その徹底度はかなり大きな差を生じた。
A 激甚県 減少率87%の和歌山県、他4県
B 強行県 減少率64%の大阪府、他7県
C 順応県 減少率33%の滋賀県、他21県
D 無視県 減少率11%の京都府、他11県

全国平均で神社総数は、明治39年(1906)に19万余社あったが、明治末期には11万から12万社まで減少し合祀整理された。

 剣神社  星の王子  2014年1月1日(水) 23:25
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剣神社(つるぎ)

由来
鎌倉時代、ここのそばを鎌倉街道が通じていた。その頃、奥州の炭焼き夫が毎年、馬の背に炭をつけて、はるばる鎌倉の刀鍛冶に届けていた。非常に良質な炭なので、お陰で名刀が鍛えられると喜んで、一振りの直刀を贈った。炭焼き夫は喜んで、懐中深くしまって帰途についた。ちょうどこの丘の裏側、人里離れた泉谷(いづみやと)にさしかかったところ、暑さは暑いし、道中の疲れもでて小川のほとり、老松の木陰で眠り込んだ。そのとき松の梢に潜んでいた大蛇が、よき獲物とばかり、眠りに落ちた炭焼き夫を一呑みにと襲いかかった。
間一髪、懐から抜け出た直刀が、その大蛇のノドをさし、大蛇はのたうちまわってたおれた。九死に一生を得た炭焼き夫は、これぞ宝刀と、恐懼して現在地に祀った。それから里人の尊崇の的となった。

その後、こんな話も伝えられている。荏田の剣神社の神様と、元石川の神様の領土争いから不仲となった。剣神社の神様が宝剣をひっさげ、元石川の神様を追い詰めた。元石川の神様は狼狽して。丘の中腹まで飛び上がって難を逃れた。それからこの神社は、驚神社と呼ばれ、元石川の現在の鎮守さまである。
また一説には、元石川は万葉の頃から石川の牧(今のたまプラーザ駅一帯)と呼ばれ、良馬を飼育して朝廷に献じていた。当時里人は、馬を家族の一員とし、敬愛の心をもって生活していたので馬を敬う神、つまり驚神社だという。どうも後者の方が正しい見方らしい。

「都筑が丘」松沢由貞著より


 茅ヶ崎村(チガサキ)  星の王子  2014年1月1日(水) 23:23
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茅ヶ崎村(チガサキ)
茅ヶ崎村は、杉山神社の伝説(白鳳三年=天武天皇672年〜688年)からみて、中川ではもっとも古い歴史を持つ村といえる。
安芸国安芸郡の安芸神社の神主忌部勝麻呂が茅ヶ崎村に土着して杉山神社を創設したという。その弟義麻呂が杉山神社初代神主となり現在まで五十代前後の家系が続いている。(忌部氏は後に杉山氏→北村氏となる)
忌部氏は二十七代までは代々義麻呂を名乗っている、二十二代義麻呂は南北朝時代の延文二年(1357年)足利氏の命令に抵抗したため社領を悉く没収されてしまった。二十八代義明以降北村玄蕃を称し幕末に至っている。(以上北村系図)
茅ヶ崎村は、北村・金子・岸の各氏が中心となって開発が進められたようである。
慶長三年(1598年)、三河国の野々山新兵衛頼兼が茅ヶ崎村と折本村の一部を領した。新兵衛は茅ヶ崎領の一部を江戸芝の増上寺に寄付したため、村内は野々山領と増上寺領に二分された。

明治元年(1868年)調査によ村内内知行高は次の通りである。
野々山新兵衛 (230石) 216石2斗1升4合
増上寺領         293石8斗2升4合
正覚寺領          5石1斗
 
茅ヶ崎村の旧家は次の諸氏である。
相沢 荒川 飯塚 池田 市川 小野島 金子 岸 北村 小泉 小山 佐藤 城田 鈴木 多田 田中 深川 松本 八木 吉川 吉野 米山

○茅ヶ崎(チガサキ) 茅ヶ崎村=茅ヶ崎町
芽茅(チガヤ)の岬につけられた地名。この地名は相当古くからあるものとみられる。チガヤはいまはあまり見られないが、戦前までは早渕川の堤防や山野に密生していた。崎はミサキ(御崎)でもあり、突き出た場所、出っ張った場所で、杉山神社付近をさしたものか。なお「正保年中改定図」には血ケ崎村となっている。

「中川の地名」吉野孝三郎著より

 大棚村(オオダナ)  星の王子  2014年1月1日(水) 23:21
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大棚村(オオダナ)
大棚村は江戸初期の頃は現在の大棚町、中川町、牛久保町をあわせて大棚村といったが、文禄三年(1594年)に字牛久保(牛窪)が分離して独立した。
大棚村は南傾斜地で早渕川に沿って横に広がっていた。開発も早く耕作地はすぐれていて、石盛(標準収穫高)も上田14、中田12、下田10と中川では一番高かった。万治元年(1658年)に大棚村と牛久保村の間で、しゅ場(12万1526坪)の入会をめぐって争いがあった。しゅ場は現在の中川町と牛久保町の西の方にあったが、争いは元禄八年(1695年)に至って両村で分割することによって解決した。
しゅ場の付近に、大棚下山田村という場所があった。大棚村の一部でこれは天領(幕府直轄地で代官支配)と私領(旗本領)を区別するためにつけた地名という。山田村に近かったためこう呼んだのであろう。
大棚村は小田原北条氏の頃は山田村と同じ曽根外記の所領であった。江戸初期に八王子千人頭十二人の知行所となり、十二給地であったが改易などもあって、明治元年(1868年)には八給地になっていた。
明治元年(1868年)調査によ村内内知行高は次の通りである。

荻原土岐次郎 (480石) 90石7斗
窪田鉄三郎  (不明)  67石1斗0升5合
窪田鉄之助  (450石) 59石2斗
原半左衛門  (340石) 45石7斗8升9合
中村左京   (不明)  39石1斗3升
窪田熊五郎  (不明)  33石0斗3升5合
河野仲次郎  (600石) 15石6斗6升5合
山本弥左衛門 (不明)  11石5斗5升1合
松村忠四カ支配所(天領) 63石5斗4升6合
大棚下山田村(天領)   68石1斗0升2合

大棚村の旧家は次の諸氏である。
(大棚町)
飯島 石田 岡本 栗原 小林 鈴木 関 皆川 吉野
(中川町)
大久保 金子 酒川 嵯峨野 長沢 松本 皆川 吉野 渡辺

○大棚
横に広がった山の南傾斜地につけられた地名。(大は接頭語)棚(タナ)は山腹に緩やかな平坦地を伴って、横に広がる地形をいう。棚の地名は全国にみられ、多奈、多名、田名、田奈、丹那などの字を当てている。

「中川の地名」吉野孝三郎著より

 牛久保村(ウシクボ)  星の王子  2014年1月1日(水) 23:19
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牛久保村(ウシクボ)
牛久保村は「風土記」によれば、南北に山を負いすべて高低山林の地で、畑が少なく山が多かったが、田がないので谷間の清水を集めて用水としたため土地は冷気多く収穫は少なかったという。
牛久保村は、もと大棚村字牛窪で文禄三年(1594年)に大棚村から分離して独立した。「正保年中改定図」には牛窪村と記載されている。中川五か村では地形的に恵まれず、一番開発が遅れて江戸中期頃から本格的に開発が行われたようだ。当時は牛久保新田と呼ばれていたという。新田は、古くはニタ・ニッタなどといい、江戸時代以降はシンデンと呼ぶ。新田は、田ばかりを意味しているわけではなく「地方凡例録」によると「新田トハ、新田・畑・屋敷等ノ総名ニシテ、新田トモ、新開トモ云」とある。

江戸の名主斉藤氏の「江戸名所図絵」によると「承応より享保に至り四度まで新田開発ありて−」とあるが、しかし、新田開発が活発に行われたのは八代将軍吉宗の享保十一年(1726年)に「新田検地条目」が出されてからという。
中川の五か村が、江戸時代にいかに開発されたいったか次の各村の知行高を比較してみれば明かである。(端数切り捨て)

    (江戸初期) (明治八年) (増加高) (増加率)
山田村  775石    1108石   333石    43%
勝田村  199石     257石   58石    29%
牛久保村 112石     257石  145石    129%
大棚村  466石     492石   27石     6%
茅ヶ崎村 369石     515石  146石     40%
合計  1923石    2632石   709石     37%  

増加率の平均は37%であるが、平均を超える村は牛久保・山田・茅ヶ崎で最高は牛久保の129%で倍以上になっている。それだけ開発されて耕地面積が増え生産高が増加したのである。二位は山田村、三位は茅ヶ崎村の順で、最低は大棚村の6%となっている。そのためか、牛久保・山田村には開墾地名が多いようだ。
大棚村は、南向きの日当たりのよい土地に恵まれて、江戸初期の頃までには、すでに開発が完了していたものとみられる。
牛久保村は、旗本領二給地で明治元年(1868年)調査によると村内知行高は次の通りである。

久志本主税     (300石) 186石6斗3升8合
安藤織部      (450石) 35石7斗4升
松村忠四カ支配所(天領)    35石5斗1升9合

牛久保村の旧家は次の諸氏である。
安藤 岩崎 岡本 唐戸 笹本 関 田丸 長沢 宮台

○牛久保(ウシクボ)
古くは牛窪。大棚村の頃うしろの窪地につけられた地名。牛久保は後久保のこと。後(ゴ・ウシろ)に牛(ゴ・ウシ)の字を当てたもの。

「中川の地名」吉野孝三郎著より

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