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 神奈川県都筑郡中川村々是調査報告  星の王子  2014年1月16日(木) 13:45
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書名:神奈川県都筑郡中川村々是調査報告
   横浜市歴史博物館資料集第二集
著者:横浜市歴史博物館
発行所:横浜市歴史博物館
発行年月日:1996/3/31
ページ:171頁
定価:非売品

村是報告書の村是というのは国是と同じように、村のとるべき道というようなもの。明治36年当時の中川村(大棚、茅ヶ崎、山田、勝田、牛久保)の地勢、田畑山林の面積、人情、平均気温、人口(男女、年齢別)、作物の種類、出来高、各家で持っている財産(家具、鍋、釜、包丁、時計など)、村の生産高、支出高など生活一般、産業に関わる事細かなことを調査している。これはこれからの中川村をどのようにしていけば良いか。現状把握の上でとるべき道を調査したものです。これほど詳細に調べた資料は他に認められない位微に入り細に渡っています。歴史資料としては第一級の史料だと思う。

この地域の田畑は、雨が降ればどろどろに湿気けた田圃、なかなか乾かない。一方畑は雨が止むとすぐに乾いてしまう。作物を作るには不適な土地、自作農と小作農の比率は50%、大地主も少なく、極端な大金持ちもいない。総じて貧しい村というのが見えてくる。それに対してこの書は、灌漑の必要制、村民の団結、共同購入、共同出荷などを提案している。勿論農業の振興策が述べられている。なかなか興味ある本です。

 新羽史  星の王子  2014年1月10日(金) 16:28
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書名:新羽史
著者:新羽史編集委員会編
発行所:ニイサンマルクラブ
発行年月日:2004/3/5
ページ:193頁
定価:1500円+税

旧新田村(新羽・吉田)の歴史を紹介した本です。その昔太田道灌が亀甲山(旧資生堂研究所辺り)に陣を構えて約4ヶ月、小机城を攻めたとか?鎌倉の極楽寺にあった西方寺の建材を新羽に海、鶴見川を船で資材を運んできて西方寺を建てた。江戸時代の俳諧師松尾芭蕉は常識を破った革新的な考え方で俳諧を変えた人。「古池や 蛙飛び込む 水の音」これは従来の1000年以上に渡った和歌の常識、「かわずの声を聞く」を全く無視して蛙(かじかがえる)を扱っている。また俳諧をコミュニケーションの手段として、村々に俳諧を広めていった。そこで「貧乏でも良いんだ。身分の上下はない。平等主義」という思想を持ち込んだ。

その影響かこの新羽でも西方寺を中心に村人たちの俳諧が残っている。西方寺には句碑が残っている。ここも暴れ川「鶴見川」の功罪の影響で、水害にあったり、運送手段としての活用、など生活に欠かせない鶴見川とのつきあいがある。新羽中学校、新羽高校の建設当時には縄文時代、弥生時代の遺跡が出てきて発掘調査が行われている。神社仏閣の歴史なども紹介されており、新羽の昔を概略的に鳥瞰するには良い本です。

本書より
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図書館の中に私の小宇宙 荒井広和
今昔の新羽を語る鶴見川

 杉山神社考  星の王子  2014年1月10日(金) 16:27
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書名:杉山神社考
著者:戸倉英太郎
発行所:緑区郷土史研究会
発行年月日:1978/9/25
ページ:232頁
定価:

この本は昭和31年に発行された戸倉英太郎著「杉山神社考」を緑区郷戸史研究会によって復刻された本です。鶴見川流域に残る杉山神社、新編武蔵風土記稿(1810〜28年)には橘樹郡(たちばなぐん)37社、都筑郡(つづきぐん)25社、南多摩郡6社、久良岐郡(くらきぐん)5社の計73社の杉山神社が記載されている。延喜式内社(927年)に旧都筑郡に唯一式内社として「杉山神社」が載っている。しかしその杉山神社が何処であったか?よく分かっていない。本司(本宮)は何処か?
戸倉英太郎氏が自分の足で歩いて一つ一つ今残る杉山神社を訪ね歩いた記録です。杉山神社研究のバイブルとされる書です。

新編武蔵風土記稿に記載された杉山神社の諸社はいずれも鶴見川流域にあり、その多くは鎌倉から室町時代にはすでに祀られていたと思われる。式内社杉山神社本社を勧請することによってがこのように増加した。そして記録も記憶も薄れてどれが式内社杉山神社本社か判らなくなってしまった。と思われる。この本では式内社杉山神社の有力候補と考えられているのが、@西八朔村(にしはっさくむら、緑区西八朔町)、A大棚村(おおたなむら、都筑区中川町)、B茅ヶ崎村(ちがさきむら、都筑区茅ヶ崎町)、C吉田村(よしだむら、港北区新吉田町)の杉山神社の4社を挙げている。そして著者の私見として茅ヶ崎村(ちがさきむら、都筑区茅ヶ崎町)を式内社杉山神社と比定している。

@西八朔杉山神社は社域が広く、立派、江戸時代に幕府から社領を貰っている。
A村人栗原恵吉等が儒者河田興に碑文を書かせて建碑した。(安政3年)
B忌部氏→杉山氏の系図が岸本氏のところに残っている。
C幕末の神道家斎藤義彦や、菱沼勇『武蔵国式内社の歴史地理』

とはいえいずれの説も決定的な証拠はない。これも古代ロマンを感じさせる話です。またこの杉山神社の祭神が1つではなく、諸社によって祭神が異なるのが面白い。多いのは五十猛命、日本武尊など。茅ヶ崎杉山神社は忌部氏の系図とともに天武天皇白鳳3年に安房神社神主の忌部勝麿呂が御神託によって、武蔵国の杉山の岡に高御座巣日太命(高御産日命)・天日和志命(天日鷲命)・由布津主命(阿八別彦命・天日鷲命の孫・忌部氏の祖)の三柱を祀った「杉山神社」としたことにはじまるというが信憑性は乏しいとされている。また戸倉英太郎氏以前に幕末の府中(ふちゅう)大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)宮司猿渡盛章(さわたりもりあきら)がこの杉山神社について調査している。西八朔杉山神社を比定しています。

この地域は考古学の発掘などによって、弥生時代の終わり頃から古墳時代まで、平安時代に一時住んでいた人たちがいなくなった時代(理由はよく分からない)があったようだ。延喜式内社に指定されていた杉山神社も衰微して捨てられてしまって延喜式内社としての格式も権威も領域も維持することが出来なくなってしまった。鎌倉時代室町時代になってようやくその地を支配した人、土豪の人などが祀り直した。この地域には大きな豪族、大名はいなかったのでどれも小さな杉山神社が残ってきたのではないだろうか?後世の氏族の盛衰によって神社、寺院などは埋もれてしまって、記憶も薄れてしまった。多分永遠の謎として今後も語り継がれる物語かもしれない。

ちょっと気になったのはその後緑区郷土史研究会が調査したところ「大棚根元考糺録」「茅ヶ崎忌部系図」が見つからなかったとのこと。

神明社:杉山神社考
http://www.shinmeisya.or.jp/rekisi/sugiyama_01.html
公益財団法人 大倉精神文化研究所 :: 第51回 杉山神社を探そう
http://www.okuraken.or.jp/depo/chiikijyouhou/kouhoku_rekishi_bunka/kouhoku51/
公益財団法人 大倉精神文化研究所 :: 第52回 杉山神社の有力候補
http://www.okuraken.or.jp/depo/chiikijyouhou/kouhoku_rekishi_bunka/kouhoku52/
公益財団法人 大倉精神文化研究所 :: 第53回 区内の杉山神社
http://www.okuraken.or.jp/depo/chiikijyouhou/kouhoku_rekishi_bunka/kouhoku53/

 このつづき歴史散歩の使い方  admin  2014年1月6日(月) 22:35
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 劔神社  星の王子  2014年1月5日(日) 19:01
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劔神社(つるぎ)
横浜市青葉区荏田町822

祭神
素盞嗚尊 ( すさのおのみこと )
祭礼
10月7日 例大祭(れいたいさい)

由来
劔神社社誌(境内の碑)
新編武蔵風土記稿は当社について曰く
「村の中央字榎木谷にあり、劔明神と号す当所総鎮守なり本地不動の像、今は別当観福寺に安置せり本社に上屋を設く云々」また伝説に曰く「昔陸奥国より炭を商うもの鎌倉往来して、鍛冶のもとへかの炭を売ること年久しければ鍛冶も、かの上人が来ることを謝して己が作りたる刀一口を贈れり、商人よろこびてこれを携へ国へかえらんとしてここをすぎ、泉谷の辺りとどまりて、路のつかれをしばしやすめんとここに喉のかれたりしかばありあう泉を掬して呑けるに、酒に酔いしごとく、覚えず倒れ臥したりを側なる松の木の上より大蛇ねらいより呑まんとす時に携えたる刃自ら抜き出て蛇を斬殺しけるにそかのもの危き命をたすかりしとなんよりて劔を祀りて劔明神と号す云々」と この伝説は八俣の大蛇退治に類似し草薙劔を彷彿せしめるととに 祭神を素盞嗚尊として崇めていることなどからして開拓神ないし農業神として祀られ鎌倉時代の創建になるものと云われている
かつて当地には宿谷赤城社、小黒谷戸神明社同八幡社柚木谷戸熊野社 渋沢谷戸十二社の五社の谷戸宮が鎮座し 四谷戸が年番にて祭礼を執行うを常とした
その後大正三年これら四谷戸五柱を当社に合祀 同十一年当社は神饌幣帛供進社に指定されたのである
現存する拝殿は明治二十七年に 奥社は昭和四十六年に各々建立されたものである。

由来(「都筑が丘」松沢由貞著より)
鎌倉時代、ここのそばを鎌倉街道が通じていた。その頃、奥州の炭焼き夫が毎年、馬の背に炭をつけて、はるばる鎌倉の刀鍛冶に届けていた。非常に良質な炭なので、お陰で名刀が鍛えられると喜んで、一振りの直刀を贈った。炭焼き夫は喜んで、懐中深くしまって帰途についた。ちょうどこの丘の裏側、人里離れた泉谷(いづみやと)にさしかかったところ、暑さは暑いし、道中の疲れもでて小川のほとり、老松の木陰で眠り込んだ。そのとき松の梢に潜んでいた大蛇が、よき獲物とばかり、眠りに落ちた炭焼き夫を一呑みにと襲いかかった。
間一髪、懐から抜け出た直刀が、その大蛇のノドをさし、大蛇はのたうちまわってたおれた。九死に一生を得た炭焼き夫は、これぞ宝刀と、恐懼して現在地に祀った。それから里人の尊崇の的となった。

拝殿から右に登ったところに旧鎌倉街道が通じている。ここの氏子は荏田宿、渋沢、柚木、荏田南などに分布しているようです。

田園都市線江田駅綱島行バス 柚の木谷バス停下車5分

地図
http://goo.gl/maps/Cfx1z

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