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 このつづき歴史散歩の使い方  admin  2014年1月6日(月) 22:35
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 劔神社  星の王子  2014年1月5日(日) 19:01
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劔神社(つるぎ)
横浜市青葉区荏田町822

祭神
素盞嗚尊 ( すさのおのみこと )
祭礼
10月7日 例大祭(れいたいさい)

由来
劔神社社誌(境内の碑)
新編武蔵風土記稿は当社について曰く
「村の中央字榎木谷にあり、劔明神と号す当所総鎮守なり本地不動の像、今は別当観福寺に安置せり本社に上屋を設く云々」また伝説に曰く「昔陸奥国より炭を商うもの鎌倉往来して、鍛冶のもとへかの炭を売ること年久しければ鍛冶も、かの上人が来ることを謝して己が作りたる刀一口を贈れり、商人よろこびてこれを携へ国へかえらんとしてここをすぎ、泉谷の辺りとどまりて、路のつかれをしばしやすめんとここに喉のかれたりしかばありあう泉を掬して呑けるに、酒に酔いしごとく、覚えず倒れ臥したりを側なる松の木の上より大蛇ねらいより呑まんとす時に携えたる刃自ら抜き出て蛇を斬殺しけるにそかのもの危き命をたすかりしとなんよりて劔を祀りて劔明神と号す云々」と この伝説は八俣の大蛇退治に類似し草薙劔を彷彿せしめるととに 祭神を素盞嗚尊として崇めていることなどからして開拓神ないし農業神として祀られ鎌倉時代の創建になるものと云われている
かつて当地には宿谷赤城社、小黒谷戸神明社同八幡社柚木谷戸熊野社 渋沢谷戸十二社の五社の谷戸宮が鎮座し 四谷戸が年番にて祭礼を執行うを常とした
その後大正三年これら四谷戸五柱を当社に合祀 同十一年当社は神饌幣帛供進社に指定されたのである
現存する拝殿は明治二十七年に 奥社は昭和四十六年に各々建立されたものである。

由来(「都筑が丘」松沢由貞著より)
鎌倉時代、ここのそばを鎌倉街道が通じていた。その頃、奥州の炭焼き夫が毎年、馬の背に炭をつけて、はるばる鎌倉の刀鍛冶に届けていた。非常に良質な炭なので、お陰で名刀が鍛えられると喜んで、一振りの直刀を贈った。炭焼き夫は喜んで、懐中深くしまって帰途についた。ちょうどこの丘の裏側、人里離れた泉谷(いづみやと)にさしかかったところ、暑さは暑いし、道中の疲れもでて小川のほとり、老松の木陰で眠り込んだ。そのとき松の梢に潜んでいた大蛇が、よき獲物とばかり、眠りに落ちた炭焼き夫を一呑みにと襲いかかった。
間一髪、懐から抜け出た直刀が、その大蛇のノドをさし、大蛇はのたうちまわってたおれた。九死に一生を得た炭焼き夫は、これぞ宝刀と、恐懼して現在地に祀った。それから里人の尊崇の的となった。

拝殿から右に登ったところに旧鎌倉街道が通じている。ここの氏子は荏田宿、渋沢、柚木、荏田南などに分布しているようです。

田園都市線江田駅綱島行バス 柚の木谷バス停下車5分

地図
http://goo.gl/maps/Cfx1z

 都筑の神社  星の王子  2014年1月2日(木) 20:36
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都筑の神社は何故か、明治末頃に合祀された神社が多い。山田神社、杉山神社など。理由を調べて見ると「明治39年の「神社合祀令に関する」勅令が発布された」ということに行き着く。

柳田邦男(民俗学者)南方熊楠などがこれに反対した。地域にとって差があったようです。この地方は素直にしたがったのかな?

神社合祀
神社合祀(じんじゃごうし)とは、神社の合併政策のことである。神社整理ともいう。複数の神社の祭神を一つの神社に合祀(いわゆる稲八金天神社)させるか、もしくは一つの神社の境内社にまとめて遷座させ、その他の神社を廃することによって、神社の数を減らすというもの。主に明治時代末期に行われたものをさす。

自然災害の歴史;琵琶湖西岸断層
http://ohmikairou.org/col312.html

明治39年(1906)に「神社合祀令に関する」勅令が発布されて、地方の集落神社が国家統制の下に実施された神社整理の嵐が全国を吹き荒れた事

合祀令による神社整理の実態
 この国家統制は、法律でなく勅令によるもので、その推進は地方長官(府県知事)の裁量に委ねられた。その結果、府県によって、その徹底度はかなり大きな差を生じた。
A 激甚県 減少率87%の和歌山県、他4県
B 強行県 減少率64%の大阪府、他7県
C 順応県 減少率33%の滋賀県、他21県
D 無視県 減少率11%の京都府、他11県

全国平均で神社総数は、明治39年(1906)に19万余社あったが、明治末期には11万から12万社まで減少し合祀整理された。

 剣神社  星の王子  2014年1月1日(水) 23:25
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剣神社(つるぎ)

由来
鎌倉時代、ここのそばを鎌倉街道が通じていた。その頃、奥州の炭焼き夫が毎年、馬の背に炭をつけて、はるばる鎌倉の刀鍛冶に届けていた。非常に良質な炭なので、お陰で名刀が鍛えられると喜んで、一振りの直刀を贈った。炭焼き夫は喜んで、懐中深くしまって帰途についた。ちょうどこの丘の裏側、人里離れた泉谷(いづみやと)にさしかかったところ、暑さは暑いし、道中の疲れもでて小川のほとり、老松の木陰で眠り込んだ。そのとき松の梢に潜んでいた大蛇が、よき獲物とばかり、眠りに落ちた炭焼き夫を一呑みにと襲いかかった。
間一髪、懐から抜け出た直刀が、その大蛇のノドをさし、大蛇はのたうちまわってたおれた。九死に一生を得た炭焼き夫は、これぞ宝刀と、恐懼して現在地に祀った。それから里人の尊崇の的となった。

その後、こんな話も伝えられている。荏田の剣神社の神様と、元石川の神様の領土争いから不仲となった。剣神社の神様が宝剣をひっさげ、元石川の神様を追い詰めた。元石川の神様は狼狽して。丘の中腹まで飛び上がって難を逃れた。それからこの神社は、驚神社と呼ばれ、元石川の現在の鎮守さまである。
また一説には、元石川は万葉の頃から石川の牧(今のたまプラーザ駅一帯)と呼ばれ、良馬を飼育して朝廷に献じていた。当時里人は、馬を家族の一員とし、敬愛の心をもって生活していたので馬を敬う神、つまり驚神社だという。どうも後者の方が正しい見方らしい。

「都筑が丘」松沢由貞著より


 茅ヶ崎村(チガサキ)  星の王子  2014年1月1日(水) 23:23
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茅ヶ崎村(チガサキ)
茅ヶ崎村は、杉山神社の伝説(白鳳三年=天武天皇672年〜688年)からみて、中川ではもっとも古い歴史を持つ村といえる。
安芸国安芸郡の安芸神社の神主忌部勝麻呂が茅ヶ崎村に土着して杉山神社を創設したという。その弟義麻呂が杉山神社初代神主となり現在まで五十代前後の家系が続いている。(忌部氏は後に杉山氏→北村氏となる)
忌部氏は二十七代までは代々義麻呂を名乗っている、二十二代義麻呂は南北朝時代の延文二年(1357年)足利氏の命令に抵抗したため社領を悉く没収されてしまった。二十八代義明以降北村玄蕃を称し幕末に至っている。(以上北村系図)
茅ヶ崎村は、北村・金子・岸の各氏が中心となって開発が進められたようである。
慶長三年(1598年)、三河国の野々山新兵衛頼兼が茅ヶ崎村と折本村の一部を領した。新兵衛は茅ヶ崎領の一部を江戸芝の増上寺に寄付したため、村内は野々山領と増上寺領に二分された。

明治元年(1868年)調査によ村内内知行高は次の通りである。
野々山新兵衛 (230石) 216石2斗1升4合
増上寺領         293石8斗2升4合
正覚寺領          5石1斗
 
茅ヶ崎村の旧家は次の諸氏である。
相沢 荒川 飯塚 池田 市川 小野島 金子 岸 北村 小泉 小山 佐藤 城田 鈴木 多田 田中 深川 松本 八木 吉川 吉野 米山

○茅ヶ崎(チガサキ) 茅ヶ崎村=茅ヶ崎町
芽茅(チガヤ)の岬につけられた地名。この地名は相当古くからあるものとみられる。チガヤはいまはあまり見られないが、戦前までは早渕川の堤防や山野に密生していた。崎はミサキ(御崎)でもあり、突き出た場所、出っ張った場所で、杉山神社付近をさしたものか。なお「正保年中改定図」には血ケ崎村となっている。

「中川の地名」吉野孝三郎著より

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