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 池辺(いこのべ)町はどんなところ  星の王子  2015年11月2日(月) 20:11
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池辺(いこのべ)町はどんなところ
http://www.city-yokohama-tsuzuki.net/tks/nota/tsuzuki/?20151102183142

最近マンション傾斜問題で一躍有名になってしまった池辺町、どんなところでしょう。歴史視点、地形的視点、地理的視点からちょっと考えてみました。最近のICTの発展で比較的簡単に調べることができます。土地、家、マンションを買うときは事前にネットで調べて見ることも必要だと思います。問題の起きているマンションは元々は海の中、古池、それを埋めて、その後湿田、その後工業地帯だったところ、3階建て以上の建物は建っていなかった場所でした。有史以来人は住んだいなかった場所だったようです。土地の造成技術は上がっていますが、実際の作業は人間がやっています。これが問題?ですね。

1.歴史の視点

・「新編武蔵風土記稿都筑郡池辺村」1800年頃(国立国会図書館デジタルコレクションより)
 村内宗忠寺の前に古池ありしより名付しと土人の口碑に伝へり今は其蹟水田となれり
・今昔マップ
 1896年〜1909年、1965年〜1968年、1975年〜1978年、1998年〜2005年、地理院地図を比べてみる
 1965年までは水田、1975年日本電気、松下通信工業、大日本印刷、緑産業道路、第三京浜(1966年頃)などが出てきます。
 緑産業道路が出来て工業団地、工場が建設され始めるのが1966年。ちなみに日本電気が3階建て、2005年12月NEC横浜事業場閉鎖、2007年4月ららぽーと横浜(3階建て)オープン。

2.地理的な視点

・Flood Maps
 Flood Mapsで40m〜50mの水位で眺めてみると縄文海進(縄文時代前期の約6,000年前)の頃の地形が見えてくる。池辺町は海の中だったことが判る。Flood Mapsで水位を変えて水が浸かるの高さに調整すると20m辺りになるので、海抜20メートル程度ということがわかる。

・今昔マップ
 1896年〜現在までを鶴見川の流れに注目しながら眺めてみると、水路の変化が判る。

3.その他
参考資料としては「御大典記念都田村誌」「都筑の民俗 横浜市港北ニュータウン郷土誌」「鶴見川・境川 流域文化考」「港北百話 古老の話」などがあります。

由来
町名、池辺町の由来と宗忠寺縁起(碑)
古代より人跡が認められた池辺の地は、天地の息吹に呼応して流れ続けてきたであろう鶴見川のように、人々に彩られた歴史が千古の光を放っています。
私たちの町池辺は、正しくは「いこのべ」と読み、古くは伊子野辺、池野辺とも書き、「いけのべ」とも称しました。宗忠寺の前に大きな池があり、その辺りに村があったので池辺と呼ばれるようになったと云います

Flood Mapsはなかなか便利なツールです。毎年各地で水害がありますが、この地図で水位を調整してみるとやっぱり低地のところが大半です。


 参考資料  星の王子  2015年11月2日(月) 20:14 [修正]
近代デジタルライブラリー(平成28年5月終了→デジタルコレクションに統合)
http://kindai.ndl.go.jp/

 国立国会図書館デジタルコレクション  星の王子  2015年11月2日(月) 20:14 [修正]
国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/

 今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト  星の王子  2015年11月2日(月) 20:15 [修正]
今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト
http://ktgis.net/kjmapw/
Flood Maps
http://flood.firetree.net/

 渋沢社史データベース  星の王子  2015年11月2日(月) 22:08 [修正]
渋沢社史データベース
http://shashi.shibusawa.or.jp/index.php

   ハラ  2016年2月13日(土) 13:56 [修正]
池辺町は、明治の初めで戸数156軒ほど。鶴見川の氾濫源の平らなところは全て水田でした。1960年代初めぐらいから埋立てが盛んになり、第三京浜・港北IC開設前後から松下、NEC、ヤマザキパンなどの工場が進出。水田は倉庫物件になったりでしたが、地元の人は家は建てませんでした。昔ながらに谷戸を中心にへばりついていた印象です。歴史的には奈良時代には牧と一部の宗教施設(都田西小)があったようで、鎌倉時代に新田開発が行なわれたようです。足利時代は記録がほとんどなく、後北条の小机衆の座間氏が土着していました。江戸時代に入ると陣屋を置き小笠原宗忠(元犬山城、忍城の城主)が左遷されて派遣されています。50年ほど前迄は、いわゆる農村地帯でした ^^

 「ケ」の区名、地名表記について  星の王子  2016年2月10日(水) 19:17
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「ケ」の区名、地名表記について

2009年保土ケ谷区の区名表記問題でもめたらしい。保土ヶ谷か保土ケ谷か、大きい「ケ」、小さい「ケ」、半角の「ケ」と何れが正しい?

結論としておおきな「ケ」で統一することになった。区名等は「常用漢字」を使うことになっている。
(常用漢字に基づくという原理原則)しかし小さい「ケ」、半角の「ケ」は正確な漢字ではない。そこで保土ケ谷区では大きい「ケ」を使うことを決めた。そして区名だけでなく町名なども同様にする。また横浜市内の各区にも統一を促すことになった。そして「区の設置並びに区の事務所の位置、名称及び所管区域を定める条例」に名称、地域を公開している。

これを根拠に茅ヶ崎→茅ケ崎(都筑区)になっているようです。上記条例は区の設置、事務所の位置、名称、所管となっているので民間などが小さな「ケ」を禁じている訳ではなさそうです。但し大きな「ケ」を推奨しているのでは。

混乱、ふたたび? | 保土ケ谷区 | タウンニュース
http://www.townnews.co.jp/0115/2014/07/03/242329.html
区名表記 大きい“ケ”で統一へ
http://blogs.yahoo.co.jp/gikai_kiji/18446983.html
横浜市 総務局 例規集インターネット版
http://www.city.yokohama.lg.jp/ex/reiki/honbun/ag20200021.html
横浜市の「区の設置並びに区の事務所の位置、名称及び所管区域を定める条例
(条例第1号、昭和34年3月14日制定)」

横浜市 保土ケ谷区 「保土ケ谷区」の「ケ」は大きな「ケ」です!
http://www.city.yokohama.lg.jp/hodogaya/gaiyou/ke.html

 港北ニュータウンまちづくり資料  星の王子  2015年8月7日(金) 23:07  HP
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港北ニュータウン記念協会「港北ニュータウンまちづくり資料」
http://kn-kk.com/kohokuarchives/kohokuarchives.htm

港北ニュータウンのまちづくりについて判りやすい資料として下記のような著書、動画などを見ることが出来ます。

1.著書
横浜市港北ニュータウン郷土誌 都筑の民俗
(港北ニュータウン郷土誌編纂委員会、1989.5)

港北ニュータウン 理想郷がすぐそこに
〜緑豊かな街づくりに30年〜
(金子保、1998.6)

港北ニュータウンと共に33年 私の覚書
(金子三千男、2001.6)

港北ニュータウン物語
(徳江義治・山本光雄、2006.3)

望郷 (記念協会編)
(男全冨雄、2010.4)

写真集 港北ニュータウン 〜むかし・いま・そして未来へ…〜
(財団法人港北ニュータウン生活対策協会、2002.3)

写真で見る−つづきの景観50−
(NPO法人港北ニュータウン記念協会、2008.3)

2.動画
港北ニュータウン計画
未来都市への挑戦
港北ニュータウン計画の3つの基本理念と4つの基本方針及び市民参加のまちづくりについて説明しています。 (23分56秒)

故郷の生まれ変る時
(港北ニュータウン 第1部)
横浜市の港北ニュータウン基本計画及び公団の土地区画整理事業計画案の発表から土地区画整理審議会の設置までを説明しています。(25分10秒)

故郷の生まれ変る時
〜 土地区画整理事業の歩み〜
(港北ニュータウン 第2部)
換地設計から仮換地指定そして造成工事、移転と事業の推移を説明しています。(30分20秒)

明日の都市をひらく
(港北ニュータウン 第3部)
昭和58年(1983)から62年(1987)頃までの港北ニュータウン区域内の様々なまちづくりの推進状況について説明しています。 (21分01秒)

複合・多機能都市をめざす港北ニュータウン
−中川地区の街づくり−
(港北ニュータウン 第4部)
昭和61年(1986)ベッドタウンから複合多機能都市への方針転換をした港北ニュータウンのまちづくりを中川地区を例に説明している。 (24分33秒)

21世紀の明日をひらく
(港北ニュータウン 第5部)
多機能複合都市を目指したまちづくり推進の状況(1997(平成9)年 土地区画整理事業終了まで)を説明しています。 (25分52秒)

 特別講演 交流する横浜「日本史の中の横浜」  星の王子  2015年7月19日(日) 7:22
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わがまち横浜再発見 ヨコハマ3万年の交流
特別講演 交流する横浜「日本史の中の横浜」

横浜市ふるさと歴史財団8施設連携企画の一環として同財団の理事長五味文彦氏の特別講演会を聞きに行ってきました。五味文彦氏は「中世が専門」東京大学名誉教授、放送大学教授、横浜市ふるさと歴史財団理事長、『中世のことばと絵』でサントリー学芸賞受賞、『書物の中世史』で角川源義賞受賞、著書多数。

聴講メモです
「開港の歴史的位置」ということで、最初は難波の津(大阪・大和)、博多の津(8世紀 奈良・京都)、兵庫の津(15世紀 京都)、長崎(17世紀 江戸)、横浜(19世紀 東京)というみなと横浜はこんな位置づけになる。では横浜地域は19世紀まで何もなかったのか?いやそうではない。

ここで五味文彦氏の歴史のとらえ方を披露。古代・中世・近世・近代という分類方法はおかしいのではないか?もっと細かく分類してみないと歴史を捉えないと判らない。中世800年ではおおざっぱすぎる。特徴を捉えられない。そこで氏の分類方法、100年をひとつの単位にして規定し直すと見えてくる。ひとつの政治・文化は100年毎に関連を持ちながら変化していると考える。

そこで1968年明治維新・国民国家・市民を起点に100年で過去に遡っていくと,667年天智称制・律令体制・制度化、866年摂政藤原良房・摂関政治・風景、1167年平清盛太政大臣・武家政権・身体、1268年蒙古の国書到来・東アジアの世界の流動・職能等、それぞれの100年に特徴的なキーワードで理解すると判りやすいのではないか。ということで年表を提示して説明。

古文書も大切ではあるが、それにとらわれると誤ってしまう。伊勢日記とか竹取物語とか文学からその当時の空気を感じる。捉える。文学はその時代を著している。時代の要請がなければ存在しない。しかし古文書として残っているのは一つの考え方、例。それも特異な例かもしれない。徒然草、古今和歌集等大勢の人に読まれた物にその時代のヒントが隠されている。

日本という一つの国が独自でそのままだったら成長も発展もなかった。そこには交流があったはず、そして国内においても西と東の交流があった。古墳時代の前方後円墳は巨大な古墳、それは何故作られた。一つの象徴(シンボル)として作られた。だから仁徳天皇陵が日本で一番大きい、古墳の大きさで支配関係と考えてはいけない。交流があったことで鹿児島県から宮城県あたりまで交流があったと考えるべき。一番大きい古墳の首長が全ての豪族を支配していたのではない。この古墳と同じように考えていいのは近世の城、これもシンボルとしてつくられたもの。近世的な城は南は薩摩藩、北は松前藩まで。これも交流と考えればいいのでは?

交流の場として「海岸地域と内陸地域の交流」「上野から武蔵への動き・武蔵の国造・屯倉」「東海道の形成・中央との交流」ということで相模国、武蔵国の国造ら豪族の支配領域が700年前後に決まった。青葉区荏田西の長者原遺跡(都筑評)、川崎市宮前区の影向寺遺跡(橘樹評)、天武天皇の時代の「諸岡五十戸」の木簡。など律令体制時代の武蔵国の交流を説明。

その後の歴史をいろいろな証拠を挙げながら、869年の貞観11年の地震と大津波、その後の878年関東諸国に起こった大地震、その後富士山の噴火で関東にも大きな影響を与えて人心動乱、都で摂関政治(今までは天皇家が一族でそれぞれの役目を担ってきた。摂関政治とは天皇家以外のものが政治に関わってきたという画期的なこと)で荘園の整理、受領による支配が関東にも及ぶ。10世紀頃

そして武士団の形成と、鎌倉幕府(鎌倉中)における武蔵の国(南部=横浜市)は首都圏だった。中心部鎌倉を支援する地域、四方八方に鎌倉街道(いざ鎌倉に備えて)が整備されている。鎌倉幕府の領域(中)は西が相模川、東が多摩川、その範囲にある地域が首都圏。
古今和歌集の編纂で有名な藤原定家の子孫は二条家、冷泉家、京極家と別れたが、冷泉家は鎌倉幕府(武家)についたことで生き残ることが出来た。建長寺というのは年号「建長」から取られた寺院。東国では珍しい命名。鎌倉がそれだけ勢力があったことか?

などなど興味ある話題が一杯の面白い講演でした。歴史好きには興味の持てる話題でした。また氏の歴史観が非常にユニークです。歴史の専門家、考古学者、文学者からは異端者と思われているかも。でも視点が素直で誠実があると思います。学者馬鹿でひとつの専門の中で理屈ばかりを捏ねている人たちにとっては苦手な人ではないかと思います。

中世から出てきた職人、家職、職能の形式化、型などが現在にもかなり影響を与えている。武士はこうあらねばならない。それぞれの職の専門化によって、がんじがらめになって来た歴史も理解出来るような気がする。しかしそれも100年を単位にみればその弊害が批判され、また改善される。少し長い目でみるとそれなりバランスを持って修正されながら歴史が流れてきたのかもしれない。

ただ「日本史の中の横浜」という視点で見ると五味文彦氏も困っていられたのか?時代で何とか横浜を考え、紹介したいのであるけれどあまりにも断片、小さな事柄しか見つからず、段々五味文彦氏の得意な古典、文学、中世の雑談の方に行ってしまう。それを何とか横浜に軌道修正を試みながら話しておられたように思う。横浜にこだわらない歴史の話をもう一度聞いてみたい気がしました。「日本史の中の横浜」という本を近々出されるようなので読んでみたい。五味文彦氏のことは初めて知りました。でも有名な方で、会場は一席の余地もない満員の聴講者でした。また講演の2時間があっという間に過ぎしてしまった。有意義なひとときでした。ちなみにタイトルの3万年は横浜市最古の石器(都筑区北川貝塚東地点出土)が発掘された。その地層の年代が28000年前とか。

この講演の参加料は500円でしたが、この企画を連携している有料の3施設(横浜市歴史博物館・横浜都市発展記念館・横浜開港資料館)への入場券(招待券)が資料と一緒に入っていました。早速同じビルにある横浜都市発展記念館(ハマを駆ける クルマが広げた人の交流&常設展)・横浜ユーラシア文化館(常設展)にも行ってみました。どちらも初めての所です。こんなところがあったのだ。


特別講演 交流する横浜「日本史の中の横浜」
日時:平成26年7月18日(土)14:00〜16:00
講師:五味文彦(横浜市ふるさと歴史財団理事長)
会場:横浜情報文化センター6階
定員:200名

公益財団法人 横浜市ふるさと歴史財団
http://www.yokohama-history.org/

 西条八十   星の王子  2015年3月7日(土) 19:16
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西条八十 | つづきの魅力!
http://www.city-yokohama-tsuzuki.net/info/?page_id=1034
西条八十と都筑区についての資料です

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