何かの書物で「都田小学校のすぐ近くに新池辺富士と呼ばれる富士塚がある」を読み、聞いたことないがホント?とばかりに、探しに行ってきました。
ホントありました。正しくは現物未確認のため「あるらしい」ですが。都田中学校の横の路を登ると、ここも横浜?と思うほどの深山に迷い込んだような場所に出ます。その左側の2〜3mの崖上、常緑樹や杉・檜の大木と孟宗竹が生い茂った奥にやや盛り上がった所がかいま見える。そこに正体不明の建造物が藪の隙間から僅かに見え、岡本太郎のオブジェとでも表現出来そうな人工物体。富士塚に岡本太郎風のオブジェでもなかろうと帰る途中、畑仕事中の農家の人に会い尋ねてみた。その人曰く「そこは子供の頃から池辺富士と呼んでおり、子供の頃はその付近で良く遊んだものだ。ここらには、川和富士、星ヶ谷富士、ここの池辺富士の3ヶ所の富士塚がある」との話で、「新池辺富士」は現存し、場所もほぼ間違いない。後日、重装備で出直し藪をかき分け登ってみたいと思っている。 この界隈には1世紀もタイムスリップしたかのような風景の場所もありました。
《写真説明・左より》@都田中学横を登った所の左側がその場所 A木々の隙間から正体不明の物体が見える B新池辺富士がある辺りの遠景、中央の一段高く尖った木の下がそれか?(池辺町八所谷戸)C鎌倉古道まがいの切通し道が残る風景(池辺町防方) |
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「星谷の池辺富士」参詣記 - shiba - 2011年9月9日(金) 21:17
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「新池辺富士」を記したので、タイトルを敢えて「星谷の池辺富士」としました。新池辺富士からの帰りに、星谷の池辺富士を尋ねて来ました。
この富士塚の呼び名にはいろいろあり、星谷富士、元富士、池辺富士遺跡等の名で書かれた地図や書物を見かけます。また、新池辺富士にも「池辺富士跡」と書かれた地図もあります。
池辺町星谷の農地基盤整備をされた農業専用区域内に、星谷池辺富士と呼ばれる富士塚はあります。今にも朽ち落ちそうな鳥居の下をくぐり、蜘蛛の巣を払いながら最近修復された20数段の階段を上ると、頂上にはご神体がない寛政8年(1796)建立の石作りの祠が祭られています。富士塚ですから浅間神社碑でしょう。毎年6月1日には、池辺の人々が塚の草刈りを行ない、清掃後礼拝し、飲食を共にしているとのことです。 頂上に立つと360度の良い眺めです。目の前に都筑清掃工場の煙突がそびえています。生憎湿度の高い天候で、本物の富士は拝めませんでした。
《写真説明・左より》@朽ち落ちそうな鳥居のある登り口 A塚の頂上 B頂上にある石作り祠、お供え物の痕跡がある C地元の人が「星谷の元富士」と呼ぶ池辺富士。ふくちゃん投稿の写真より頂上の木々が大きくなっている。 |
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「池辺富士」は2つ(元富士と新富士) ふくちゃん 2011年9月11日(日) 21:57
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shibaさん、 池辺「新富士」のレポート有難うございました。 私も10年ほど前に尋ねて行ったときは、20mほど道を登っていったところにちょっと気がつかない登山口があり、それで頂上に行くと、防災のサイレン塔がありました。そして三角点がばっちりと残っており、感激しました。今でもあると思います。近いうちに確かめてみます。
出典は今手元にないので確認できませんが、「元富士」(shibaさんが言われる「星谷の池辺富士」)は、寛政8年(1796年)建設。新富士は明治時代に富士講のために建設。しかし元富士を粗末にしたので新富士の近くの家に不幸がおこったりしたそうです。そこで、6月1日に浅間様を村全体で祭るようになった、というのを読んだことがあります。
なお、都筑区内の富士塚は、他に、山田富士な現存です。川和富士と茅ヶ崎富士は残念ながら開発で消滅してしまいますた。川和富士公園内のミニ富士(写真)は、旧川和富士が無くなるので、新たに建設したものです。 |
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旧川和富士の浅間大神宮を訪ねる - shiba - 2011年9月18日(日) 11:12
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川和富士は元々は現在の川和高校のすぐ裏(現見花山6番付近)にあったもので、昭和49年8月から始まった港北ニュータウン開発の陰に、昭和53年消滅した。 この川和富士消滅を惜しんだ地元の人々から保存の陳情が出され、昭和61年2代目川和富士が再現され、その公園が川和富士公園と名付けられた。
旧川和富士は、万延元年(1860)4月1日に着工し、延人員4,120人、27年の歳月をかけて明治20年(1887)4月に完成した。当時、富士塚の頂上に祭られていた浅間大神宮石碑、富士塚浅間大神建立記念碑や道祖神、庚申塔などは、現在川和八幡宮境内に遷され、本殿の右後部に鎮座召されている。 「写真説明・左より」 1.川和八幡宮(正面拝殿の右側後部に石碑群あり) 2.旧川和富士にあった浅間大神宮ほかの石碑群(芝笹に覆われている) 3.浅間大神宮石碑(天保14年卯11月吉日の銘あり)(1844年) 4.浅間大神建立記念碑(明治24年4月15日建立・川和中の銘あり) 台座左右面には、それぞれ川和村世話人・池辺村世話人と思われる十数名の名前が刻まれ、台座背面には、「昭和52年7月吉日ニュータウン建設工事の為、富士塚より遷す」の彫あり。 |
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shibaさん、 川和の八幡神社いある旧川和富士の「浅間大神建立記念碑」等のレポート有難うございました。このような歴史が、ちゃんと現在も残っていることが「都筑」はスゴイ街だと思います。
ところで、細かいところを1点だけ確認です。 「旧川和富士は、・・・延人員4,120人、・・・かけて明治20年(1887)4月に完成した。」とありますが、延べ人数は記録によると、3,120人と聞いています。原典は明治24年の山開きに年にまとめられたと言われる「「冨士塚建造扣(ひかえ)」だと思われます。その部分を、添付します。 |
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Re;池辺富士 ハラ 2012年2月6日(月) 19:52
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星谷の「元富士」は今の倍以上の高さで、スゾが長く優美だったそうです。港北NT以前の土地改良で低くなったという話です。「新富士」は写真の位置の三角点のところです。先達のK さん宅にあった資料などは長王寺に納めたようです。
ついでに言いますと、「新富士」の登り口の右にあるYさん宅には明治中期にデンマーク人のグランさんが住んでいて、フェリスにあった風車を移築して使用していたとか。風車は失われましたが、当時の井戸は健在。グランさんのお墓も長王寺にございます。
「風車の回る異人館(金子勤/講談社出版センター/1994)」に詳しいほか、 「横浜をめぐる七つの物語(大西比呂志/フェリスブックス/2007)」にも紹介されてます。 こちらに画像も http://www.nikkeibp.co.jp/style/secondstage/tanoshimu/s-isan_090320.html
あとは島村抱月の妻の実家とかもありますね。 |
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池辺富士を確認しました ふくちゃん 2012年2月13日(月) 14:49
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ハラさん、shibaさん 情報有難うございました。 池辺(いこのべ)の第2冨士(新冨士)を確認してきました! 健在でした。しかし、急な坂で危険ですので、登山はお薦めできません。
ハラさんの情報によるグランさんの元の家も確認しました。このにフェリスにあった風車が回っていたことを想像すると、都筑の歴史の懐の深さを感じます。お墓もお参りしました。都田小学校の郷土資料室にある写真と1936年度卒業生の描いた「思い出の旧校舎」の絵にも風車が描かれていると聞いたので、今度行ってみてきます。 |
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追記 イコノベ ハラ 2012年2月14日(火) 0:41
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イコノベは今も田舎ですし怪しいですよ。明治の初めですと戸数156件ほど。中心は滝ヶ谷や八所谷戸、坊方、上麻生線沿いの薮根でほとんどが農家でした。都田西小の敷地には天平の頃に寺院施設があったようです。その後は「牧」でしょうか。室町期の記録は見当たらず。後北条の頃の小机衆の座間氏(茅ヶ崎城の代官?)が土着しております。長王寺のすぐ前の宗忠寺は、元犬山城城主の小笠原宗忠が開基で墓所でもあります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/小笠原吉次
このほかですと八所谷戸の「牧野(旧姓小泉)よし」さんはヘボン博士の付き人で、明治中期には英語も教えておられたようです。グランさんとの交流もあり、それが縁でグランさんは池辺にいらしたようです。 http://www.yokohama-album.jp/picture/detail/300/
グランさんの記事以外は「緑区史(1985)などに紹介されております。 |
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