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 大河ドラマ「平清盛」に都筑の「鎌田正清」が登場!  ふくちゃん  2012年2月6日(月) 16:19  Mail
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2月5日に放映されたNHKの大河ドラマ「平清盛」の第5回にいよいよ鎌田正清が登場しました。ご存知、彼の居城館は都筑区内の「鎌田堂」付近です。(「都筑区北部 水と緑の散策マップ」のp11参照)
http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/
http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/cast/genji.html#g_masakiyo
http://www.city.yokohama.lg.jp/tsuzuki/kusei/pdf/hokubu10-11d.pdf

「都筑をガイドする会」のメンバーの「昨日の続き、今日の都筑」HPにも出てきます。
http://nowhereman53.wordpress.com/2012/01/28/%E5%B9%B3-%E6%B8%85%E7%9B%9B/

例の、平将門伝説なども都筑区にあり、源平の歴史と都筑の関係には
目が離せません。今年は、都筑PRのチャンスかも・・・


 「鎌田正清」について  ふくちゃん  2012年2月6日(月) 16:23  Mail [修正]
自己レスです。「鎌田正清」について、いろいろ紹介があります。
http://www.hirotarian.ne.jp/backno/2011-9.html
http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-0d02.html
http://members2.jcom.home.ne.jp/kunio_kamata/fujiwarashi.html
http://members2.jcom.home.ne.jp/kunio_kamata/masakiyo-umaru.html

ご参考までに。都筑区内(山田城?)の領主だったとは!!
本人は、テレビに出てくる正清のようにイケメンだったのかしら・・・
最後は、悲劇ですね。

 将門?  ハラ  2012年2月6日(月) 20:02 [修正]
平将門ですが、清盛の時代より200年ほど前の話となります。桓武平氏でしょうが、源平合戦とは関係ございませんです、ハイ。

 鎌田正清が武具制作にも関与?  ハラ  2012年2月8日(水) 19:38 [修正]
「鎌田正清」が南山田周辺に居たとすると、見逃せないのが「西ノ谷遺跡(中川小の北)」でしょうか。ここでは10〜12世紀にかけて、この地域では珍しい鉄製品→「武具(鎧の部品)」が制作されていたことが判明しています。
http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/news/news7-4.html

関東武士団への武具供給地のひとつで、製品は陸路や海路で輸送でしょうね。「鎌田正清」が管理監督していたのかも、と考えることも出来ます。遺跡や遺物との関係性がわかれば、単なる伝説ではないる気もいたしますが、果たして?

 鎌田正清と鉄製品  ふくちゃん  2012年2月13日(月) 14:15  Mail [修正]
ハラ様
「鎌田正清」と「西ノ谷遺跡」の関係は鋭いご指摘だと思います。
「一〇世紀には大溝が掘られ、竪穴形の鍛冶工房(かじこうぼう)が形成されます。鍛冶工房は、次第に大規模となり、一一世紀には掘立柱建物へと変化し、一二世紀には長大な掘立柱建物を主とした屋敷が形成されます」と報告されていますので、時代も合いますね。
ますます大河ドラマ「平清盛」の目が離せませんね!

平将門は平家の一族でしょうが、確かに清盛とは離れています。
家系図では、清盛から遡ると、忠盛ー正盛ー正衝ー正度ー維衝ー貞盛の従兄弟にようやく将門が登場します。桓武天皇から4代目ですね。確かにまだ「源平合戦」の「前史」です。

  わが街”都筑”消えゆく地名と風景に寄せて   トトロのおやじ  2011年8月31日(水) 22:12
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我が国の高度成長期1974年、港北ニュータウン開発の造成が始まって以来40年近くが過ぎ去った。この開発による急激な市街地化で、緑豊かであった旧都筑郡の農村地帯は大きく変貌してしまい、これからも更に変貌を続けてゆくであろう。
古来、私たちの先人達は、自然の中で、自然を崇拝し、自然と共に営みを続けてきた。そこには、営みの中で生まれた場所の名前(地名)住んでいる人の名前(姓・名)、住まいの名前(屋号・屋敷名)などが自然体で発生してきたであろうと想像される。

私たちは、なぜ、消えた地名、消えゆく地名にこだわるのであろうか。それは、地名には先人達の営みの匂いがあり、歴史があるからである。
記録された古文書の多くは既に失われてしまったが、地名は古いものでも残っている。古い地名には先人達の営みの歴史がある。故に、歴史を好む者には限りなく愛着を覚えるのである。

日々発展する都筑の街の中で、失われつつある先人が残した貴重な遺産である地名や風景を保存し、ニュウタウン開発後移り住んできた新住民ともいえる人たちの中にも、地域の歴史に関心を持つ人は多い。

この都筑が、前々から住んでいる人達はいうまでもなく、新住民にとっても第二・第三の故郷になって貰いたいし、これから、この地で生まれ育つ子供達たちには、生まれ故郷の歴史を少しでも知って貰えたらと願い、「わが街“都筑”消えゆく地名と風景に寄せて」と題して不定期ではあるが都筑の歴史に係わる話を続けたい。

そこでお願い。都筑区の住民である・なしにかかわらず、都筑区・隣接する緑・青葉区を含め、地名の由来、地名のエピソード、地名と人名の係わり、地名と風景の係わり等をご存じの方の投稿をお願いしたい。古い写真の提供、或いは新旧写真を添えた投稿も大歓迎です。

 池辺(いこのべ)  ふくちゃん  2011年9月2日(金) 2:10  Mail [修正]
都筑区内で一番面積の広いまち「池辺町」は、読み方が難しく、正式には「いこのべ」と読みます。宗忠寺の前に池があったことから地名がつけられたと言われています。
http://www.city.yokohama.lg.jp/shimin/madoguchi/jyukyo/chomeiichiran/tuzuki221206.pdf

地元の方々にヒヤリングすると「横浜市からの書類には『いこのべ』と書いてあるが、読み難いので『いけべ』でも構わない」と言う人が多いようです。しかし、地名は正確に後世に伝えるべきだという方もいることが分かり、これまで私も「池辺富士」を「いけべふじ」と言っていましたが、今年から正しく「いこのべふじ」と言うようになりました。(写真)

池辺農業専用地区のど真ん中に、こんもりとこの富士塚が残っています。
いまや都筑の名所の一つです。この地図で「星谷浅間神社」と表記されている場所です。なおこの地名の「星谷」は「ほしや」と読みます。
http://www.city.yokohama.lg.jp/tsuzuki/kusei/pdf/nanbu-map1.pdf
http://www.city.yokohama.lg.jp/tsuzuki/kusei/pdf/nanbu-course-b.pdf

   コスモス  2011年9月5日(月) 13:15 [修正]
トトロのおやじさん、ふくちゃん

こんにちは

私は北山田に住んでいますが、もしかしたら池辺に住んだかもしれないんです。友人のお兄さんが住んでいて、土地を売りだしているよの情報があったのですが、結局北山田を買いました。

池辺もそのお兄さんが「いけべ」と言ってましたし、北山田もローマ字の表記ができる前は、「きたやまだ」と発音していました。

地名って面白いですね。

いろいろ教えてください。


   ふくちゃん  2011年9月11日(日) 21:24  Mail [修正]
コスモスさん、
メールありがとうございました。
私は23年前に港北ニュータウンに世田谷から引っ越して来ましたが、「山田」は「やまだ」と読んでいました。そうしたら地元の人から違うよ、と教えてもらいました。10人に聞くと7人ぐらいが「やまた」でした。「高田」は「たかた」、「長津田」は「ながつた」です。「勝田」が「かちだ」と読むのにも驚きました。

「笑点」で座布団を運んでいる山田隆夫氏が、山田と言う町を探して南山田に引っ越して来たら実は「やまだ」でなく「やまた」だったのであわてた、という噂は本当のようです。
http://www6.ocn.ne.jp/~ytb/

ところで「池辺」ですが、あまりの多くの人(95%)が「いけべ」と言うので町内会役員の人も「いえべ」でもいいよと言うし、信号表示も「ikebe」となっていました。しかし昨年からきちんと「ikonobe」に変わったので、私も「池辺富士」を「いこのべ富士」と言うようにしました。今日、たまたま池辺交差点を通ったので写真をとりました。

 イコノベ  ハラ  2012年2月9日(木) 1:15 [修正]
イコノベですが、200年ほど前の文書にも「井子延」や「伊子野辺」といった表記があります。「池鍋」と書いた書状もありますので、音はイコノベだったようです。鎌倉期にはすでに池辺郷だったようです。川越市に池辺という地名がありますが、こちらも「イコノベ」なんだそうです。池ですが、宗忠寺の前の説のほかに、現ららぽーとのところにあったという説があり、後者のほうがデカイし説得力がありそうです。

 イコノベ  ふくちゃん  2012年2月13日(月) 13:52  Mail [修正]
ハラ様
池がどこにあったか、という話は面白いですね。
少なくとも、鎌倉期にはすでに「池辺郷」だったとすると、なかなか特定は難しいですね。
「いけべ」ではなく「いこのべ」という人が最近増えてきているのは嬉しいことです。

 「葛が谷」は「くずがや」か「くずがやと」か  ふくちゃん  2011年9月11日(日) 20:20  Mail
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都筑区のほぼ中央、地下鉄「都筑ふれあいの丘」駅のある町は「葛が谷」とかいて「くずがや」と読みます。しかし、近くの公園の名前は「葛が谷公園」ですが、その読み方は「くずがやと」公園です。「や」か「やと」か、ややこしいですね。
実は、昭和61年港北ニュータウンの住所表示施行のときに、池辺(いこのべ)町の一部から「字名」をとって「葛が谷」を新設したまでは良かったのですが、その読み方を「くずがや」と、まちがえてしまいました。横浜市の北部では「谷」と書いて「やと」とよぶことが多いのです。
公園名は、地元の意見を聞いてきちんと「くいずがやと」と命名したので、公園の入口にはフリガナが「やと」と正しくついています。
紳士服のアオキの本店の横の交差点の信号をよく見てください。「ya」ではなく「yato」と正しく表記しています。

  「月出松公園」 は 「朏の松公園」だった  - shiba -  2011年9月13日(火) 22:09 [修正]
ニュータウン南端近くに位置する「月出松公園」、変な名前で意味はなんだろう?と思われる人が多いでしょう。このおかしな名前の選定にまつわる証言とも言うべき話を紹介します。

川和台在住の81歳になる地元農家の人で、ニュータウン開発当初から係わった方が、「自分が生きている内に、地域の歴史に係わる事実を後世に伝え残す為」と前置きして、地区敬老会席上での話。

ニュータウン開発当時、公園名の推薦依頼が地域にあった際、開発前の地域住民が相談して、現在の川和台下りバス停付近に当時あった、大きな1本の赤松が「朏の松」(みかづきの松)と地元の人々から呼ばれていたことから、この呼名を新しい公園の名称にしようと意見がまとまった。
そこで、地元推薦として、「朏の松公園」と書いて市側に提出した。

やがて開発が進むうち、市側が名付けた公園名が「月出松公園」となっているのに気付いた地元では大いに驚き、市側に訂正を申し出たが、時既に遅く、公園の石碑名、地図名等「月出松公園」として出来上がっているので、勘弁して欲しい」と訂正を受け入れて貰えず、おかしな意味不明の公園名となってしまった。市側担当者によると「朏」(みかづき)の文字を読めず、「月と出がくっついているので離せ。月出松公園とする」として処理したとのことであった。

この公園名が、地元に親しまれた松の木の名を刻んだ「朏の松公園」(みかずきのまつ公園)の名称であったなら、美しくロマンチックな公園名としてだけでなく、1本の赤松の物語と共に、小さいながらも地元の歴史の一こまとして残ったであろうと惜しまれます。

 月出松公園の加賀原遺跡  ふくちゃん  2011年9月16日(金) 10:57  Mail [修正]
shibaさま、「月出松公園」の命名の裏話、有難うございました。

私は、昔の地名を調べるために横浜市市民局の公式記録「横浜市町区域要覧」を参照していますが、平成3年8月版の「川和町」の「字(あざ)名」の欄に「朏松」が「みかづきまつ」というフリガナ付きで明示されています。現在の地図にプロットすると、現在の月出松園の西から京セラの研究所ビルとの間の狭い地域を指す公式「字地名」でした。ですから公園が出来るときに、地元の方が「朏の松公園」を提案したことは良く理解できます。「月出松」と漢字「朏」を、間違えてか、当用漢字に無いからか、理由は不明ですが「月」と「出」に分解するというのは、芸のない話です。「みかづきまつ」という呼び方の地名ですので、せめて「三日月松公園」にした方が、後世への承継になったことでしょう。残念です。

ところで、月出松公園の位置は、字名では「大原」と「加賀原」に重なっており、そこには縄文時代の遺跡があります。「加賀原遺跡」です。教育委員会は公園内看板を設置してくれました。遺跡の大半は、公園内のそのまま保存されています。ただし看板には「かがはら遺跡」とフリガナがありますが、横浜市埋蔵文化センターの公式記録には「かがっぱら遺跡」とフリガナがあります。多分、看板の方が間違えでしょう。
(港北ニュータウン地域内埋蔵文化財調査報告]「全遺跡調査概要」1990年)

 どんど焼き  ふくちゃん  2011年1月17日(月) 7:41  Mail
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1月15日の土曜日には、都筑区内の数カ所で「どんど焼き」が行われました。
小正月の伝統行事で、本当は1月14日ですが、平日なので15日に実施したところが多かったようです。
荏田南の「牛ケ谷(うしがやと)運動公園」のどんど焼きに孫と参加しました。大勢の子どもたちが竹の先にお餅やおいもをぶら下げて、どんど焼きの残り火にで焼いてたいました。
これを食べるとこの一年、風邪をひかずに無病息災となるとの言い伝えがあります。昔からの「みつまた枝」に繭玉団子を刺して用意した人もいました。
伝統行事が見られるのも、都筑区のよいところです。
主催した荏田南の町内会の方々、ありがとうございました。

 武蔵武士団都筑党〜藤原流斎藤氏四郎成利都筑と号す〜  北の抱き柏紋・都築(都筑)  2010年12月8日(水) 15:07  Mail
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鎌倉時代武蔵国都筑郡においては少数武士団であったが、以後都筑は〜遠江国〜三河国〜・阿波国・備前国・但馬国(出石抱柏流)と伝播し、現在北海道から沖縄まで約7000世帯に都築姓・都筑姓が全国に住んでいる。三河時代においては徳川・松平の影響を多分に受け岡崎市を中心に一族繁栄期。現在も三河を本国とする末裔が多い。しかし、すべての都築・都筑姓はきっと名字地としての故郷は武蔵国都筑郡であったことを忘れてはいないはず。新しい地名が古くからの歴史ある馴染みの地名を消していく中、平成6年都筑区としての地名復活を喜んだものです。

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