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 佐江戸の地名  ふくちゃん  2013年1月22日(火) 11:09  Mail
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「はまれぽ.com 」というサイトに佐江戸の地名のレポートが掲載されました。
「都筑区に佐江戸町という町があります。江戸という言葉が含まれていますが、どんな由来でつけられた地名なんでしょうか(こばこばさんのキニナル)」
http://hamarepo.com/story.php?page_no=0&story_id=1604

都筑図書館でしらべ、現地で取材し、いろいろな説を紹介しています。桜井説を有力としており、私もそう思いますが、地形が地名の語源になることが多いので、別説(狭い谷=谷戸)を投稿しました。

   ハラ  2013年2月5日(火) 15:53 [修正]
「佐江戸」の地名ですが、すでに鎌倉時代にみられます(表記は佐江戸/佐江土/さへと)。
・弘長二年(一二六二)北条時廣の妻は佐江戸郷を殺生禁断の地とする(関東往還記)
・永仁七年(一二九九)佐江戸無量寿福寺の尼性観は称名寺の審海から法をさずかる
・嘉暦三年(一三二八)佐江戸無量寿福寺で聖典が書写される(聖教奥書)

 「丘のヨコハマ今昔往来」の巡回パネル展  ふくちゃん  2012年11月2日(金) 20:22  Mail
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11月y1日から、都筑区役所の区民ホールで、都筑・緑・港北図書館の合同企画である「丘のヨコハマ今昔往来」の巡回パネル展が始まりました。
11月8日までです。
http://www.city.yokohama.jp/ne/news/press/201210/images/phpWmuEDF.pdf
http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/library/localinfo/hokubu/

いろいろと、貴重な写真を見ることが出来ますので、ぜひご覧下さい。

 鎌田正清  星の王子  2012年10月17日(水) 18:48
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鎌田正清

吾妻鏡によると「石橋山の戦い」(頼朝の時代)に鎌田正清には男子があったとされるが、実朝の時代に勝長寿院において源頼朝と共に鎌田正清の供養したという記述に男子無く、娘に所領を与えたとある。同じ吾妻鏡の中でもちょっと辻褄が合いませんね。

鎌田 政清(かまた まさきよ)は平安時代末期の武将。藤原秀郷流首藤氏の一族で、相模国の住人鎌田権守通清の子。諱は正清、正家、政家とも。源義朝の第一の郎党。政清の母が義朝の乳母だったことから、乳兄弟として最も信頼された。

平治の乱に敗れた源義朝は、東国を目指して落ち延びる途中、尾張国野間(愛知県知多郡美浜町)で、源義朝の家人長田忠致(政清の舅)・景致父子の奸計によって湯殿で命を落とします。このとき鎌田 政清も同時に殺害された。嘆き悲しんだ忠致の娘(政清の妻)は川に身を投げて自殺したとされる。

伊東の鎌田城の案内
文治5年(1189年)鎌田新藤次俊長によって築かれたと云われる。 俊長は鎌田政清の子である。平治の乱で敗れた源義朝は家臣の鎌田政清とともに尾張国へ逃れたが、そこで旧臣の長田忠致によって討たれた。俊長は平家の来襲に備える為に鎌田城を築いたという。

中村太郎景平 同次郎盛平 鮫島四郎宗家 七郎武者宣親 大見平次家秀 近藤七國平 平佐古太郎爲重 那古谷橘次頼時 澤六郎宗家 義勝房成尋 中四郎惟重 中八惟平 新藤次俊長 小中太光家
是皆將之所恃也。各受命忘家忘親云々。
(「吾妻鏡」治承四年(1180)八月小廿日庚子)

元久元年(1204)九月大二日丁夘。將軍家、御馬二疋〔河原毛。栗毛駮〕を以て伊勢内外の兩宮へ奉被る。新藤二俊長、和泉拯景家等之を相具し、今朝進發すと云々。
(「吾妻鏡」元久元年(1204)九月大二日丁夘)

10月25日 壬午
勝長寿院に於いて如法経十種供養有り。これ故鎌田兵衛の尉正清が息女修する所なり。
且つは故左典厩の御菩提を訪い奉らんが為、且つは亡父の追福を加えんが為、一千日
の間、当寺に於いて浄侶を屈し、如説法華三昧を行わしめんと。願文は信救得業これ
を草す。因幡の前司廣元これを清書すと。将軍家並びに御台所御結縁の為参らしめ給
う。導師は大學法眼行恵。経王の功能と云い、施主の懇志と云い、述ぶる所の旨趣、
すでに富楼那の弁智を褊す。聴衆双眼を抑え両袂を霑す。上野の介憲信・工匠蔵人・
安房判官代高重等布施を取ると。彼の女姓の父左兵衛の尉正清は故大僕郷の功士なり。
遂に一所に於いてその身を終う。仍って今将軍家殊に憐愍せしめ給うの間、遺弧を尋
ねらるると雖も男子無く、適々この女子参上す。尾張の国志濃幾・丹波の国田名部両
庄の地頭職を以て、恩補せしめ給いをはんぬと。
(「吾妻鏡」建久五年(1194年)十月二十五日壬午条)に次のような記載があります。

吾妻鏡目次
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma.html
吾妻鏡入門
http://adumakagami.web.fc2.com/

田辺・田造郷(舞鶴市)(丹波の国田名部庄)
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/tanabe.html
尾張の国志濃幾庄(愛知県春日井市)

〔鎌田堂の石碑〕横浜市都筑区
堂の背後に鎌田兵衛正清の館ありし故 土人 鎌田堂と云う。二間に三間なり。印子の観音を安置しありしが奪われ、 霊元天皇、 寛文十三年、 現在の石地蔵建立さる。寛永の頃 佛誉ぶつよ常心じょうしん止住とどまりてすむ 。以来 安政の頃迄 念佛道場として繁栄 道場坂の名を残す。尚、子育こそだて地蔵 、諸願しょがん成就じょうじゅの地蔵として庶民の信仰厚き聖地なり。

 天保国絵図武蔵国  星の王子  2012年2月26日(日) 23:08  HP
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国立公文書館 デジタルアーカイブ
http://www.digital.archives.go.jp/
江戸幕府の命で、慶長・正保・元禄・天保の4回、全国規模で国ごとの地図が作成されました。 このうち天保国絵図は、天保6年(1835)その作成が命じられ、同9年(1838年)に完成しました。
武蔵国(むさしのくに)
http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000946
この地図を拡大して都筑区付近を見ると各村の石高などが表示されています。一部不鮮明個所もあり判読できないところもありますが、参考に出来るのではないかと思います。

  まぼろしの「新池辺富士」探索記  - shiba -  2011年9月9日(金) 10:51
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何かの書物で「都田小学校のすぐ近くに新池辺富士と呼ばれる富士塚がある」を読み、聞いたことないがホント?とばかりに、探しに行ってきました。

ホントありました。正しくは現物未確認のため「あるらしい」ですが。都田中学校の横の路を登ると、ここも横浜?と思うほどの深山に迷い込んだような場所に出ます。その左側の2〜3mの崖上、常緑樹や杉・檜の大木と孟宗竹が生い茂った奥にやや盛り上がった所がかいま見える。そこに正体不明の建造物が藪の隙間から僅かに見え、岡本太郎のオブジェとでも表現出来そうな人工物体。富士塚に岡本太郎風のオブジェでもなかろうと帰る途中、畑仕事中の農家の人に会い尋ねてみた。その人曰く「そこは子供の頃から池辺富士と呼んでおり、子供の頃はその付近で良く遊んだものだ。ここらには、川和富士、星ヶ谷富士、ここの池辺富士の3ヶ所の富士塚がある」との話で、「新池辺富士」は現存し、場所もほぼ間違いない。後日、重装備で出直し藪をかき分け登ってみたいと思っている。
この界隈には1世紀もタイムスリップしたかのような風景の場所もありました。

《写真説明・左より》@都田中学横を登った所の左側がその場所 A木々の隙間から正体不明の物体が見える B新池辺富士がある辺りの遠景、中央の一段高く尖った木の下がそれか?(池辺町八所谷戸)C鎌倉古道まがいの切通し道が残る風景(池辺町防方)

  「星谷の池辺富士」参詣記  - shiba -  2011年9月9日(金) 21:17 [修正]
「新池辺富士」を記したので、タイトルを敢えて「星谷の池辺富士」としました。新池辺富士からの帰りに、星谷の池辺富士を尋ねて来ました。

この富士塚の呼び名にはいろいろあり、星谷富士、元富士、池辺富士遺跡等の名で書かれた地図や書物を見かけます。また、新池辺富士にも「池辺富士跡」と書かれた地図もあります。

池辺町星谷の農地基盤整備をされた農業専用区域内に、星谷池辺富士と呼ばれる富士塚はあります。今にも朽ち落ちそうな鳥居の下をくぐり、蜘蛛の巣を払いながら最近修復された20数段の階段を上ると、頂上にはご神体がない寛政8年(1796)建立の石作りの祠が祭られています。富士塚ですから浅間神社碑でしょう。毎年6月1日には、池辺の人々が塚の草刈りを行ない、清掃後礼拝し、飲食を共にしているとのことです。
頂上に立つと360度の良い眺めです。目の前に都筑清掃工場の煙突がそびえています。生憎湿度の高い天候で、本物の富士は拝めませんでした。

《写真説明・左より》@朽ち落ちそうな鳥居のある登り口 A塚の頂上
B頂上にある石作り祠、お供え物の痕跡がある C地元の人が「星谷の元富士」と呼ぶ池辺富士。ふくちゃん投稿の写真より頂上の木々が大きくなっている。

 「池辺富士」は2つ(元富士と新富士)  ふくちゃん  2011年9月11日(日) 21:57  Mail [修正]
shibaさん、
池辺「新富士」のレポート有難うございました。
私も10年ほど前に尋ねて行ったときは、20mほど道を登っていったところにちょっと気がつかない登山口があり、それで頂上に行くと、防災のサイレン塔がありました。そして三角点がばっちりと残っており、感激しました。今でもあると思います。近いうちに確かめてみます。

出典は今手元にないので確認できませんが、「元富士」(shibaさんが言われる「星谷の池辺富士」)は、寛政8年(1796年)建設。新富士は明治時代に富士講のために建設。しかし元富士を粗末にしたので新富士の近くの家に不幸がおこったりしたそうです。そこで、6月1日に浅間様を村全体で祭るようになった、というのを読んだことがあります。

なお、都筑区内の富士塚は、他に、山田富士な現存です。川和富士と茅ヶ崎富士は残念ながら開発で消滅してしまいますた。川和富士公園内のミニ富士(写真)は、旧川和富士が無くなるので、新たに建設したものです。

 旧川和富士の浅間大神宮を訪ねる  - shiba -  2011年9月18日(日) 11:12 [修正]
川和富士は元々は現在の川和高校のすぐ裏(現見花山6番付近)にあったもので、昭和49年8月から始まった港北ニュータウン開発の陰に、昭和53年消滅した。
この川和富士消滅を惜しんだ地元の人々から保存の陳情が出され、昭和61年2代目川和富士が再現され、その公園が川和富士公園と名付けられた。

旧川和富士は、万延元年(1860)4月1日に着工し、延人員4,120人、27年の歳月をかけて明治20年(1887)4月に完成した。当時、富士塚の頂上に祭られていた浅間大神宮石碑、富士塚浅間大神建立記念碑や道祖神、庚申塔などは、現在川和八幡宮境内に遷され、本殿の右後部に鎮座召されている。
「写真説明・左より」
1.川和八幡宮(正面拝殿の右側後部に石碑群あり)
2.旧川和富士にあった浅間大神宮ほかの石碑群(芝笹に覆われている)
3.浅間大神宮石碑(天保14年卯11月吉日の銘あり)(1844年)
4.浅間大神建立記念碑(明治24年4月15日建立・川和中の銘あり)
台座左右面には、それぞれ川和村世話人・池辺村世話人と思われる十数名の名前が刻まれ、台座背面には、「昭和52年7月吉日ニュータウン建設工事の為、富士塚より遷す」の彫あり。

   ふくちゃん  2011年9月23日(金) 17:10  Mail [修正]
shibaさん、
川和の八幡神社いある旧川和富士の「浅間大神建立記念碑」等のレポート有難うございました。このような歴史が、ちゃんと現在も残っていることが「都筑」はスゴイ街だと思います。

ところで、細かいところを1点だけ確認です。
「旧川和富士は、・・・延人員4,120人、・・・かけて明治20年(1887)4月に完成した。」とありますが、延べ人数は記録によると、3,120人と聞いています。原典は明治24年の山開きに年にまとめられたと言われる「「冨士塚建造扣(ひかえ)」だと思われます。その部分を、添付します。

 Re;池辺富士  ハラ  2012年2月6日(月) 19:52 [修正]
星谷の「元富士」は今の倍以上の高さで、スゾが長く優美だったそうです。港北NT以前の土地改良で低くなったという話です。「新富士」は写真の位置の三角点のところです。先達のK
さん宅にあった資料などは長王寺に納めたようです。

ついでに言いますと、「新富士」の登り口の右にあるYさん宅には明治中期にデンマーク人のグランさんが住んでいて、フェリスにあった風車を移築して使用していたとか。風車は失われましたが、当時の井戸は健在。グランさんのお墓も長王寺にございます。

「風車の回る異人館(金子勤/講談社出版センター/1994)」に詳しいほか、
「横浜をめぐる七つの物語(大西比呂志/フェリスブックス/2007)」にも紹介されてます。
こちらに画像も
http://www.nikkeibp.co.jp/style/secondstage/tanoshimu/s-isan_090320.html

あとは島村抱月の妻の実家とかもありますね。

 池辺富士を確認しました  ふくちゃん  2012年2月13日(月) 14:49  Mail [修正]
ハラさん、shibaさん
情報有難うございました。
池辺(いこのべ)の第2冨士(新冨士)を確認してきました!
健在でした。しかし、急な坂で危険ですので、登山はお薦めできません。

ハラさんの情報によるグランさんの元の家も確認しました。このにフェリスにあった風車が回っていたことを想像すると、都筑の歴史の懐の深さを感じます。お墓もお参りしました。都田小学校の郷土資料室にある写真と1936年度卒業生の描いた「思い出の旧校舎」の絵にも風車が描かれていると聞いたので、今度行ってみてきます。

 追記 イコノベ  ハラ  2012年2月14日(火) 0:41 [修正]
イコノベは今も田舎ですし怪しいですよ。明治の初めですと戸数156件ほど。中心は滝ヶ谷や八所谷戸、坊方、上麻生線沿いの薮根でほとんどが農家でした。都田西小の敷地には天平の頃に寺院施設があったようです。その後は「牧」でしょうか。室町期の記録は見当たらず。後北条の頃の小机衆の座間氏(茅ヶ崎城の代官?)が土着しております。長王寺のすぐ前の宗忠寺は、元犬山城城主の小笠原宗忠が開基で墓所でもあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/小笠原吉次

このほかですと八所谷戸の「牧野(旧姓小泉)よし」さんはヘボン博士の付き人で、明治中期には英語も教えておられたようです。グランさんとの交流もあり、それが縁でグランさんは池辺にいらしたようです。
http://www.yokohama-album.jp/picture/detail/300/

グランさんの記事以外は「緑区史(1985)などに紹介されております。

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