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 鎌田正清  星の王子  2012年10月17日(水) 18:48
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鎌田正清

吾妻鏡によると「石橋山の戦い」(頼朝の時代)に鎌田正清には男子があったとされるが、実朝の時代に勝長寿院において源頼朝と共に鎌田正清の供養したという記述に男子無く、娘に所領を与えたとある。同じ吾妻鏡の中でもちょっと辻褄が合いませんね。

鎌田 政清(かまた まさきよ)は平安時代末期の武将。藤原秀郷流首藤氏の一族で、相模国の住人鎌田権守通清の子。諱は正清、正家、政家とも。源義朝の第一の郎党。政清の母が義朝の乳母だったことから、乳兄弟として最も信頼された。

平治の乱に敗れた源義朝は、東国を目指して落ち延びる途中、尾張国野間(愛知県知多郡美浜町)で、源義朝の家人長田忠致(政清の舅)・景致父子の奸計によって湯殿で命を落とします。このとき鎌田 政清も同時に殺害された。嘆き悲しんだ忠致の娘(政清の妻)は川に身を投げて自殺したとされる。

伊東の鎌田城の案内
文治5年(1189年)鎌田新藤次俊長によって築かれたと云われる。 俊長は鎌田政清の子である。平治の乱で敗れた源義朝は家臣の鎌田政清とともに尾張国へ逃れたが、そこで旧臣の長田忠致によって討たれた。俊長は平家の来襲に備える為に鎌田城を築いたという。

中村太郎景平 同次郎盛平 鮫島四郎宗家 七郎武者宣親 大見平次家秀 近藤七國平 平佐古太郎爲重 那古谷橘次頼時 澤六郎宗家 義勝房成尋 中四郎惟重 中八惟平 新藤次俊長 小中太光家
是皆將之所恃也。各受命忘家忘親云々。
(「吾妻鏡」治承四年(1180)八月小廿日庚子)

元久元年(1204)九月大二日丁夘。將軍家、御馬二疋〔河原毛。栗毛駮〕を以て伊勢内外の兩宮へ奉被る。新藤二俊長、和泉拯景家等之を相具し、今朝進發すと云々。
(「吾妻鏡」元久元年(1204)九月大二日丁夘)

10月25日 壬午
勝長寿院に於いて如法経十種供養有り。これ故鎌田兵衛の尉正清が息女修する所なり。
且つは故左典厩の御菩提を訪い奉らんが為、且つは亡父の追福を加えんが為、一千日
の間、当寺に於いて浄侶を屈し、如説法華三昧を行わしめんと。願文は信救得業これ
を草す。因幡の前司廣元これを清書すと。将軍家並びに御台所御結縁の為参らしめ給
う。導師は大學法眼行恵。経王の功能と云い、施主の懇志と云い、述ぶる所の旨趣、
すでに富楼那の弁智を褊す。聴衆双眼を抑え両袂を霑す。上野の介憲信・工匠蔵人・
安房判官代高重等布施を取ると。彼の女姓の父左兵衛の尉正清は故大僕郷の功士なり。
遂に一所に於いてその身を終う。仍って今将軍家殊に憐愍せしめ給うの間、遺弧を尋
ねらるると雖も男子無く、適々この女子参上す。尾張の国志濃幾・丹波の国田名部両
庄の地頭職を以て、恩補せしめ給いをはんぬと。
(「吾妻鏡」建久五年(1194年)十月二十五日壬午条)に次のような記載があります。

吾妻鏡目次
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma.html
吾妻鏡入門
http://adumakagami.web.fc2.com/

田辺・田造郷(舞鶴市)(丹波の国田名部庄)
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/tanabe.html
尾張の国志濃幾庄(愛知県春日井市)

〔鎌田堂の石碑〕横浜市都筑区
堂の背後に鎌田兵衛正清の館ありし故 土人 鎌田堂と云う。二間に三間なり。印子の観音を安置しありしが奪われ、 霊元天皇、 寛文十三年、 現在の石地蔵建立さる。寛永の頃 佛誉ぶつよ常心じょうしん止住とどまりてすむ 。以来 安政の頃迄 念佛道場として繁栄 道場坂の名を残す。尚、子育こそだて地蔵 、諸願しょがん成就じょうじゅの地蔵として庶民の信仰厚き聖地なり。

 天保国絵図武蔵国  星の王子  2012年2月26日(日) 23:08  HP
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国立公文書館 デジタルアーカイブ
http://www.digital.archives.go.jp/
江戸幕府の命で、慶長・正保・元禄・天保の4回、全国規模で国ごとの地図が作成されました。 このうち天保国絵図は、天保6年(1835)その作成が命じられ、同9年(1838年)に完成しました。
武蔵国(むさしのくに)
http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000946
この地図を拡大して都筑区付近を見ると各村の石高などが表示されています。一部不鮮明個所もあり判読できないところもありますが、参考に出来るのではないかと思います。

  まぼろしの「新池辺富士」探索記  - shiba -  2011年9月9日(金) 10:51
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何かの書物で「都田小学校のすぐ近くに新池辺富士と呼ばれる富士塚がある」を読み、聞いたことないがホント?とばかりに、探しに行ってきました。

ホントありました。正しくは現物未確認のため「あるらしい」ですが。都田中学校の横の路を登ると、ここも横浜?と思うほどの深山に迷い込んだような場所に出ます。その左側の2〜3mの崖上、常緑樹や杉・檜の大木と孟宗竹が生い茂った奥にやや盛り上がった所がかいま見える。そこに正体不明の建造物が藪の隙間から僅かに見え、岡本太郎のオブジェとでも表現出来そうな人工物体。富士塚に岡本太郎風のオブジェでもなかろうと帰る途中、畑仕事中の農家の人に会い尋ねてみた。その人曰く「そこは子供の頃から池辺富士と呼んでおり、子供の頃はその付近で良く遊んだものだ。ここらには、川和富士、星ヶ谷富士、ここの池辺富士の3ヶ所の富士塚がある」との話で、「新池辺富士」は現存し、場所もほぼ間違いない。後日、重装備で出直し藪をかき分け登ってみたいと思っている。
この界隈には1世紀もタイムスリップしたかのような風景の場所もありました。

《写真説明・左より》@都田中学横を登った所の左側がその場所 A木々の隙間から正体不明の物体が見える B新池辺富士がある辺りの遠景、中央の一段高く尖った木の下がそれか?(池辺町八所谷戸)C鎌倉古道まがいの切通し道が残る風景(池辺町防方)

  「星谷の池辺富士」参詣記  - shiba -  2011年9月9日(金) 21:17 [修正]
「新池辺富士」を記したので、タイトルを敢えて「星谷の池辺富士」としました。新池辺富士からの帰りに、星谷の池辺富士を尋ねて来ました。

この富士塚の呼び名にはいろいろあり、星谷富士、元富士、池辺富士遺跡等の名で書かれた地図や書物を見かけます。また、新池辺富士にも「池辺富士跡」と書かれた地図もあります。

池辺町星谷の農地基盤整備をされた農業専用区域内に、星谷池辺富士と呼ばれる富士塚はあります。今にも朽ち落ちそうな鳥居の下をくぐり、蜘蛛の巣を払いながら最近修復された20数段の階段を上ると、頂上にはご神体がない寛政8年(1796)建立の石作りの祠が祭られています。富士塚ですから浅間神社碑でしょう。毎年6月1日には、池辺の人々が塚の草刈りを行ない、清掃後礼拝し、飲食を共にしているとのことです。
頂上に立つと360度の良い眺めです。目の前に都筑清掃工場の煙突がそびえています。生憎湿度の高い天候で、本物の富士は拝めませんでした。

《写真説明・左より》@朽ち落ちそうな鳥居のある登り口 A塚の頂上
B頂上にある石作り祠、お供え物の痕跡がある C地元の人が「星谷の元富士」と呼ぶ池辺富士。ふくちゃん投稿の写真より頂上の木々が大きくなっている。

 「池辺富士」は2つ(元富士と新富士)  ふくちゃん  2011年9月11日(日) 21:57  Mail [修正]
shibaさん、
池辺「新富士」のレポート有難うございました。
私も10年ほど前に尋ねて行ったときは、20mほど道を登っていったところにちょっと気がつかない登山口があり、それで頂上に行くと、防災のサイレン塔がありました。そして三角点がばっちりと残っており、感激しました。今でもあると思います。近いうちに確かめてみます。

出典は今手元にないので確認できませんが、「元富士」(shibaさんが言われる「星谷の池辺富士」)は、寛政8年(1796年)建設。新富士は明治時代に富士講のために建設。しかし元富士を粗末にしたので新富士の近くの家に不幸がおこったりしたそうです。そこで、6月1日に浅間様を村全体で祭るようになった、というのを読んだことがあります。

なお、都筑区内の富士塚は、他に、山田富士な現存です。川和富士と茅ヶ崎富士は残念ながら開発で消滅してしまいますた。川和富士公園内のミニ富士(写真)は、旧川和富士が無くなるので、新たに建設したものです。

 旧川和富士の浅間大神宮を訪ねる  - shiba -  2011年9月18日(日) 11:12 [修正]
川和富士は元々は現在の川和高校のすぐ裏(現見花山6番付近)にあったもので、昭和49年8月から始まった港北ニュータウン開発の陰に、昭和53年消滅した。
この川和富士消滅を惜しんだ地元の人々から保存の陳情が出され、昭和61年2代目川和富士が再現され、その公園が川和富士公園と名付けられた。

旧川和富士は、万延元年(1860)4月1日に着工し、延人員4,120人、27年の歳月をかけて明治20年(1887)4月に完成した。当時、富士塚の頂上に祭られていた浅間大神宮石碑、富士塚浅間大神建立記念碑や道祖神、庚申塔などは、現在川和八幡宮境内に遷され、本殿の右後部に鎮座召されている。
「写真説明・左より」
1.川和八幡宮(正面拝殿の右側後部に石碑群あり)
2.旧川和富士にあった浅間大神宮ほかの石碑群(芝笹に覆われている)
3.浅間大神宮石碑(天保14年卯11月吉日の銘あり)(1844年)
4.浅間大神建立記念碑(明治24年4月15日建立・川和中の銘あり)
台座左右面には、それぞれ川和村世話人・池辺村世話人と思われる十数名の名前が刻まれ、台座背面には、「昭和52年7月吉日ニュータウン建設工事の為、富士塚より遷す」の彫あり。

   ふくちゃん  2011年9月23日(金) 17:10  Mail [修正]
shibaさん、
川和の八幡神社いある旧川和富士の「浅間大神建立記念碑」等のレポート有難うございました。このような歴史が、ちゃんと現在も残っていることが「都筑」はスゴイ街だと思います。

ところで、細かいところを1点だけ確認です。
「旧川和富士は、・・・延人員4,120人、・・・かけて明治20年(1887)4月に完成した。」とありますが、延べ人数は記録によると、3,120人と聞いています。原典は明治24年の山開きに年にまとめられたと言われる「「冨士塚建造扣(ひかえ)」だと思われます。その部分を、添付します。

 Re;池辺富士  ハラ  2012年2月6日(月) 19:52 [修正]
星谷の「元富士」は今の倍以上の高さで、スゾが長く優美だったそうです。港北NT以前の土地改良で低くなったという話です。「新富士」は写真の位置の三角点のところです。先達のK
さん宅にあった資料などは長王寺に納めたようです。

ついでに言いますと、「新富士」の登り口の右にあるYさん宅には明治中期にデンマーク人のグランさんが住んでいて、フェリスにあった風車を移築して使用していたとか。風車は失われましたが、当時の井戸は健在。グランさんのお墓も長王寺にございます。

「風車の回る異人館(金子勤/講談社出版センター/1994)」に詳しいほか、
「横浜をめぐる七つの物語(大西比呂志/フェリスブックス/2007)」にも紹介されてます。
こちらに画像も
http://www.nikkeibp.co.jp/style/secondstage/tanoshimu/s-isan_090320.html

あとは島村抱月の妻の実家とかもありますね。

 池辺富士を確認しました  ふくちゃん  2012年2月13日(月) 14:49  Mail [修正]
ハラさん、shibaさん
情報有難うございました。
池辺(いこのべ)の第2冨士(新冨士)を確認してきました!
健在でした。しかし、急な坂で危険ですので、登山はお薦めできません。

ハラさんの情報によるグランさんの元の家も確認しました。このにフェリスにあった風車が回っていたことを想像すると、都筑の歴史の懐の深さを感じます。お墓もお参りしました。都田小学校の郷土資料室にある写真と1936年度卒業生の描いた「思い出の旧校舎」の絵にも風車が描かれていると聞いたので、今度行ってみてきます。

 追記 イコノベ  ハラ  2012年2月14日(火) 0:41 [修正]
イコノベは今も田舎ですし怪しいですよ。明治の初めですと戸数156件ほど。中心は滝ヶ谷や八所谷戸、坊方、上麻生線沿いの薮根でほとんどが農家でした。都田西小の敷地には天平の頃に寺院施設があったようです。その後は「牧」でしょうか。室町期の記録は見当たらず。後北条の頃の小机衆の座間氏(茅ヶ崎城の代官?)が土着しております。長王寺のすぐ前の宗忠寺は、元犬山城城主の小笠原宗忠が開基で墓所でもあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/小笠原吉次

このほかですと八所谷戸の「牧野(旧姓小泉)よし」さんはヘボン博士の付き人で、明治中期には英語も教えておられたようです。グランさんとの交流もあり、それが縁でグランさんは池辺にいらしたようです。
http://www.yokohama-album.jp/picture/detail/300/

グランさんの記事以外は「緑区史(1985)などに紹介されております。

 大河ドラマ「平清盛」に都筑の「鎌田正清」が登場!  ふくちゃん  2012年2月6日(月) 16:19  Mail
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2月5日に放映されたNHKの大河ドラマ「平清盛」の第5回にいよいよ鎌田正清が登場しました。ご存知、彼の居城館は都筑区内の「鎌田堂」付近です。(「都筑区北部 水と緑の散策マップ」のp11参照)
http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/
http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/cast/genji.html#g_masakiyo
http://www.city.yokohama.lg.jp/tsuzuki/kusei/pdf/hokubu10-11d.pdf

「都筑をガイドする会」のメンバーの「昨日の続き、今日の都筑」HPにも出てきます。
http://nowhereman53.wordpress.com/2012/01/28/%E5%B9%B3-%E6%B8%85%E7%9B%9B/

例の、平将門伝説なども都筑区にあり、源平の歴史と都筑の関係には
目が離せません。今年は、都筑PRのチャンスかも・・・


 「鎌田正清」について  ふくちゃん  2012年2月6日(月) 16:23  Mail [修正]
自己レスです。「鎌田正清」について、いろいろ紹介があります。
http://www.hirotarian.ne.jp/backno/2011-9.html
http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-0d02.html
http://members2.jcom.home.ne.jp/kunio_kamata/fujiwarashi.html
http://members2.jcom.home.ne.jp/kunio_kamata/masakiyo-umaru.html

ご参考までに。都筑区内(山田城?)の領主だったとは!!
本人は、テレビに出てくる正清のようにイケメンだったのかしら・・・
最後は、悲劇ですね。

 将門?  ハラ  2012年2月6日(月) 20:02 [修正]
平将門ですが、清盛の時代より200年ほど前の話となります。桓武平氏でしょうが、源平合戦とは関係ございませんです、ハイ。

 鎌田正清が武具制作にも関与?  ハラ  2012年2月8日(水) 19:38 [修正]
「鎌田正清」が南山田周辺に居たとすると、見逃せないのが「西ノ谷遺跡(中川小の北)」でしょうか。ここでは10〜12世紀にかけて、この地域では珍しい鉄製品→「武具(鎧の部品)」が制作されていたことが判明しています。
http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/news/news7-4.html

関東武士団への武具供給地のひとつで、製品は陸路や海路で輸送でしょうね。「鎌田正清」が管理監督していたのかも、と考えることも出来ます。遺跡や遺物との関係性がわかれば、単なる伝説ではないる気もいたしますが、果たして?

 鎌田正清と鉄製品  ふくちゃん  2012年2月13日(月) 14:15  Mail [修正]
ハラ様
「鎌田正清」と「西ノ谷遺跡」の関係は鋭いご指摘だと思います。
「一〇世紀には大溝が掘られ、竪穴形の鍛冶工房(かじこうぼう)が形成されます。鍛冶工房は、次第に大規模となり、一一世紀には掘立柱建物へと変化し、一二世紀には長大な掘立柱建物を主とした屋敷が形成されます」と報告されていますので、時代も合いますね。
ますます大河ドラマ「平清盛」の目が離せませんね!

平将門は平家の一族でしょうが、確かに清盛とは離れています。
家系図では、清盛から遡ると、忠盛ー正盛ー正衝ー正度ー維衝ー貞盛の従兄弟にようやく将門が登場します。桓武天皇から4代目ですね。確かにまだ「源平合戦」の「前史」です。

  わが街”都筑”消えゆく地名と風景に寄せて   トトロのおやじ  2011年8月31日(水) 22:12
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我が国の高度成長期1974年、港北ニュータウン開発の造成が始まって以来40年近くが過ぎ去った。この開発による急激な市街地化で、緑豊かであった旧都筑郡の農村地帯は大きく変貌してしまい、これからも更に変貌を続けてゆくであろう。
古来、私たちの先人達は、自然の中で、自然を崇拝し、自然と共に営みを続けてきた。そこには、営みの中で生まれた場所の名前(地名)住んでいる人の名前(姓・名)、住まいの名前(屋号・屋敷名)などが自然体で発生してきたであろうと想像される。

私たちは、なぜ、消えた地名、消えゆく地名にこだわるのであろうか。それは、地名には先人達の営みの匂いがあり、歴史があるからである。
記録された古文書の多くは既に失われてしまったが、地名は古いものでも残っている。古い地名には先人達の営みの歴史がある。故に、歴史を好む者には限りなく愛着を覚えるのである。

日々発展する都筑の街の中で、失われつつある先人が残した貴重な遺産である地名や風景を保存し、ニュウタウン開発後移り住んできた新住民ともいえる人たちの中にも、地域の歴史に関心を持つ人は多い。

この都筑が、前々から住んでいる人達はいうまでもなく、新住民にとっても第二・第三の故郷になって貰いたいし、これから、この地で生まれ育つ子供達たちには、生まれ故郷の歴史を少しでも知って貰えたらと願い、「わが街“都筑”消えゆく地名と風景に寄せて」と題して不定期ではあるが都筑の歴史に係わる話を続けたい。

そこでお願い。都筑区の住民である・なしにかかわらず、都筑区・隣接する緑・青葉区を含め、地名の由来、地名のエピソード、地名と人名の係わり、地名と風景の係わり等をご存じの方の投稿をお願いしたい。古い写真の提供、或いは新旧写真を添えた投稿も大歓迎です。

 池辺(いこのべ)  ふくちゃん  2011年9月2日(金) 2:10  Mail [修正]
都筑区内で一番面積の広いまち「池辺町」は、読み方が難しく、正式には「いこのべ」と読みます。宗忠寺の前に池があったことから地名がつけられたと言われています。
http://www.city.yokohama.lg.jp/shimin/madoguchi/jyukyo/chomeiichiran/tuzuki221206.pdf

地元の方々にヒヤリングすると「横浜市からの書類には『いこのべ』と書いてあるが、読み難いので『いけべ』でも構わない」と言う人が多いようです。しかし、地名は正確に後世に伝えるべきだという方もいることが分かり、これまで私も「池辺富士」を「いけべふじ」と言っていましたが、今年から正しく「いこのべふじ」と言うようになりました。(写真)

池辺農業専用地区のど真ん中に、こんもりとこの富士塚が残っています。
いまや都筑の名所の一つです。この地図で「星谷浅間神社」と表記されている場所です。なおこの地名の「星谷」は「ほしや」と読みます。
http://www.city.yokohama.lg.jp/tsuzuki/kusei/pdf/nanbu-map1.pdf
http://www.city.yokohama.lg.jp/tsuzuki/kusei/pdf/nanbu-course-b.pdf

   コスモス  2011年9月5日(月) 13:15 [修正]
トトロのおやじさん、ふくちゃん

こんにちは

私は北山田に住んでいますが、もしかしたら池辺に住んだかもしれないんです。友人のお兄さんが住んでいて、土地を売りだしているよの情報があったのですが、結局北山田を買いました。

池辺もそのお兄さんが「いけべ」と言ってましたし、北山田もローマ字の表記ができる前は、「きたやまだ」と発音していました。

地名って面白いですね。

いろいろ教えてください。


   ふくちゃん  2011年9月11日(日) 21:24  Mail [修正]
コスモスさん、
メールありがとうございました。
私は23年前に港北ニュータウンに世田谷から引っ越して来ましたが、「山田」は「やまだ」と読んでいました。そうしたら地元の人から違うよ、と教えてもらいました。10人に聞くと7人ぐらいが「やまた」でした。「高田」は「たかた」、「長津田」は「ながつた」です。「勝田」が「かちだ」と読むのにも驚きました。

「笑点」で座布団を運んでいる山田隆夫氏が、山田と言う町を探して南山田に引っ越して来たら実は「やまだ」でなく「やまた」だったのであわてた、という噂は本当のようです。
http://www6.ocn.ne.jp/~ytb/

ところで「池辺」ですが、あまりの多くの人(95%)が「いけべ」と言うので町内会役員の人も「いえべ」でもいいよと言うし、信号表示も「ikebe」となっていました。しかし昨年からきちんと「ikonobe」に変わったので、私も「池辺富士」を「いこのべ富士」と言うようにしました。今日、たまたま池辺交差点を通ったので写真をとりました。

 イコノベ  ハラ  2012年2月9日(木) 1:15 [修正]
イコノベですが、200年ほど前の文書にも「井子延」や「伊子野辺」といった表記があります。「池鍋」と書いた書状もありますので、音はイコノベだったようです。鎌倉期にはすでに池辺郷だったようです。川越市に池辺という地名がありますが、こちらも「イコノベ」なんだそうです。池ですが、宗忠寺の前の説のほかに、現ららぽーとのところにあったという説があり、後者のほうがデカイし説得力がありそうです。

 イコノベ  ふくちゃん  2012年2月13日(月) 13:52  Mail [修正]
ハラ様
池がどこにあったか、という話は面白いですね。
少なくとも、鎌倉期にはすでに「池辺郷」だったとすると、なかなか特定は難しいですね。
「いけべ」ではなく「いこのべ」という人が最近増えてきているのは嬉しいことです。

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