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 都筑区で一番古い小学校は?  ふくちゃん  2012年7月2日(月) 0:56  Mail
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最近、中川小学校が都筑区内で一番古いかが話題になりました。
取敢えずインターネットで調べてみました。

1.「横浜市立学校名簿」(平成24年4月1日現在)という創立年の横浜市の
  公式見解はこれです。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/meibo/data/s-tsuzuki.xls
これによると、中川小学校の創立は、明治7.4.10 で、確かに一番古いです。

2.しかし、同じ横浜市の公式ホームページの「よこはま学校探険」に
  もとづく、各小学校の公式HPには、次の内容があります。
http://www.edu.city.yokohama.jp/sch/tuduki.htm

(1)中川小学校

明治7年4月2日 「第一大学区第九中学区第五十四番小学校公立大棚学舎」明治24年に中川小学校と改称。8日違いますが、確かに明治7年です。
http://www.edu.city.yokohama.jp/sch/es/nakagawa/txt/history.htm

(2)荏田小学校
「横浜市立学校名簿」では昭和48.7.1 とされた創立年は、「沿革」をみると、さらに遡れます。

明治6年7月「荏田学舎」、明治8年「荏田学校」となる。昭和48年7月横浜市立荏田小学校が独立開校する、とあります。
つまり、中川小学校は「・・・大棚学舎」を創立としたが、荏田小学校は
「荏田学舎」は創立とせずに、独立開校のときを「創設」としているようです。
http://www.edu.city.yokohama.jp/sch/es/eda/text/eda-gakkouenkaku.pdf

 都筑区で一番古い小学校は?  ふくちゃん  2012年7月2日(月) 0:58  Mail [修正]

さらに明治5年がありました。

(3)都田小学校
明治29.6.26とされた都田小学校のHPには、明治5年8月,池辺学舎として発足,後に池辺小学校と改称した。当時,池辺小学校(佐江戸・池辺の児童を収容,福聚院の西側畑地),川和小学校(現川和公会堂の裏),折本小学校(東方・川向・折本・大熊の児童収容,東方表根)があったが,明治27年10月,川和小学校は池辺小学校と合併し,新たに豊栄小学校(佐江戸・池辺の境,県道の北側)となった。 明治29年6月,高等科だけの高等都田小学校を,池辺宗忠寺の裏に設け,小学校の施設が完備しが・・・・
http://www.edu.city.yokohama.jp/sch/es/tsuda/1ayumi.html

つまり「池辺学舎」を創業とするなら、明治5年となります。「池辺学舎」の前は、江戸時代からの私塾・寺子屋があり、私塾は「近思学舎」といい、東方町に有名な、都筑の偉人のひとりである石川作庵氏が嘉永6年(1853年)に開設しました。他に都田地区には寺子屋が3つあったそうです。

●その他参考までに
学校に関する日本一の一覧 - Wikipediaに日本一の古い小学校があり、ここには青葉区の奈良小学校も出てきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%80%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E5.B0.8F.E5.AD.A6.E6.A0.A1

明治元年と言っています。
http://www.edu.city.yokohama.jp/sch/es/nara/introduction/history/history.htm
ただし、「横浜市立学校名簿」では昭和28年4月1日です。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/meibo/data/s-aoba.xls


   ハラ  2012年7月5日(木) 1:03 [修正]
都田地区ですと
明治5年 学制公布
明治5年(6年7月以降か?) 池辺学舎(池辺は長王寺、佐江戸は東漸寺をそれぞれ仮学舎にて始動)
明治8年 池辺学校に改称(観音寺を借用)
明治11年 新校舎設立(福聚院の西側に校舎新設)

明治10年 折本学校設立(それまでは東方と折本は真照寺、川向は長昌院で授業)
明治11年 川和学校設立(それまでは瑞雲寺で授業)
と、建物ができるまではそれぞれ明治5年の学制公布に合わせて教育を行っていたようです。

都田地区の寺子屋ですが、
池辺(宗忠寺と座間氏)、東方、川和、佐江戸の5カ所に加えて東方の近思学舎の計6カ所でしょうか。池辺の座間氏(小十郎)の筆子塚(天保10年)がありますが、文化年間には成立していたと思われます。石碑には新羽や小机からの生徒も記載されています。

このほか荏田の寺子屋が安政6年に開業。荏田学舎と石川学舎は明治6年に開設されています。

以上、かいつまんで

   ふくちゃん  2012年7月8日(日) 6:23  Mail [修正]
ハラ様、久しぶりです。おはようございます。
都田地区の「池辺学舎」の変遷、寺子屋、近思学舎、筆子塚などの情報有難うございました。中川地区や荏田地区にも「学舎」「寺子屋」などが沢山あるようで、当時からこの都筑郡の教育・学習レベル、環境は先人の努力によって高く維持されてきたことが分ります。
翻って最近の都筑区内の小学校の教育・学習レベルが気になるところです。

   コスモス  2012年7月8日(日) 19:58 [修正]
ふくちゃん ハラさん

「いちばん古い」という定義は、小学校に限らず、定義が難しいということですね。

私は40年前から北山田に住んでいますが、当時から中川小学校を出た人はたくさんいました。でも荏田小学校が古くからあった話は聞いたことありません。荏田あたりの人も中川に通ったと聞いたことあります

荏田学舎が明治6年に開設とありますが、いつまで続いたんでしょうか?
小学校になったのは昭和48年ですね。越してきたころで、なんとなく記憶にあります。

それにしても、以前は横浜のチベットと言われた地区に、早くから寺子屋や学舎があったのは意外でした

情報をありがとうございました

   ハラ  2012年7月9日(月) 0:04 [修正]
明治6年7月に開設の荏田学舎のその後ですが、「青葉区」の山内小学校HPに多少記載があります。
http://www.edu.city.yokohama.jp/sch/es/yamauchi/enkaku.htm

行政の区画変更等で学区が変更されたり、生徒数の増減等で影響があるようですね。ちなみに私のタネ本は「緑区史」や「都田小学校100周年記念誌」ぐらいなので、大棚学舎(港北区→都筑区)の変遷はよく知りません(不勉強〜)。明治新政府の学制公布後、多くの村々は学校を立ち上げましたが、建物などは各村々が自腹で用意したので先ずはお寺を借りて発車というところでしょうか。

ちなみに「近思学舎」の石川作庵は、その後明治6年6月開校の折本学舎の教頭として赴任。ブルーベリー畑で人気の東方町のmaruiファームの石川さんは5代目に当たるとか。

 日本初の小学校設立  mikan  2017年5月18日(木) 23:17 [修正]
日本初の小学校設立。明治2年に日本初の近代小学校である「上京第二十七番組小学校」(現:柳池(りゅうち)中学校・京都市中京区)が誕生しました。当時、京都では上京、下京のそれぞれに「番組」と呼ばれる学区がありました。その64の番組ごとに小学校が創設されたので、「番組小学校」と呼ばれたのです。
国が定めた学制領布は明治5年のことなので、全国より3年も早く、京都には小学校があったのです。

 平清盛に亡ぼされた鎌田正清ゆかりの地  ふくちゃん  2012年10月8日(月) 9:59  Mail
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早渕川秋のウォーキング2012
〜平清盛に亡ぼされた鎌田正清ゆかりの地を訪ねて〜』

日  時: 11月11日(日) 10時〜13時 【雨天中止】
集合場所: 市営地下鉄センター南駅 改札口

コース等 : 小春日和の半日、早渕川流域の歴史と文化を訪ねませんか。
今回は、中世の名城茅ケ崎城址公園を経由し、早渕川を下り、NHKの大河ドラマ
「平清盛」をご覧の方はご存知の、清盛に亡ぼされた源義朝の家臣である
鎌田兵衛正清のゆかりの地、東山田の鎌田堂を訪問します。

何と鎌田正清の居城は都筑区にあったのです!

 センター南駅→ 茅ケ崎城址公園→ 茅ケ崎橋→ (早渕川沿いの散歩)
 →早渕川かなりあ公園→ 鎌田堂→ のちめ不動→ 東山田駅

◎「早渕川ファンクラブ」主催  連絡先 : 080-5524-6091  福富


 横浜吉田新田と吉田甚兵衛 横浜開港前史  mikan  2017年5月8日(月) 7:56
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書名:横浜吉田新田と吉田甚兵衛 横浜開港前史
著者:斉藤 司
発行所:岩田書院
発行年月日:2017/2
ページ:252頁
定価:3200円+税

横浜市の小学校では4年生の教科書には吉田新田が掲載されていて、必ず学ぶことになっている。したがって横浜市民のうち若い人たちは殆どが知っているはずなのですが、よそ者には全く知らなかった。昨年まで横浜歴史博物館の学芸員だった斉藤司さん(現開港資料館主任調査研究員)が吉田新田について、過去の古文書、古地図など駆使して吉田新田の詳細な検証をまとめた本です。

江戸時代のはじめ吉田勘兵衛は、慶長16(1611)年に摂津国能勢郡(大阪府能勢町)に生まれ、寛永11(1634)年に江戸へ出て、本材木町(東京都中央区日本橋)に住み材木・石材商を営みました。材木・石材商で儲けた資金で吉田勘兵衛が大岡川河口部の新田開発を行った。1人の商人だけで立ち向かえる事業ではなかったと見えて、詳しく調べていくと主役は吉田勘兵衛、それ以外に「惣中間」という仲間達と開発資金を調達して行っている。そして開発が終わってからその仲間達から開発した新田を全て買い戻し、吉田家の新田として、小作人に貸し与え、小作料を取るという運営を行っている。小作人は近隣の村から通って耕す人、この新田に屋敷地を借りて家を建てて住んで耕す人の2種類、それどれ借用に関する契約。掟などを決めている。また吉田家は吉田勘兵衛の息子達子孫が2つの吉田家としてこの新田を支配していくことになる。この子孫が吉田興産という会社(長者町)を経営している、このあたりのいきさつは吉田家に残る古文書によって詳細に述べてある。

またこの新田は干拓方式、周りに高い堤を築いてその中を干上がらす、そこに大岡川から新田内に水路を自然の傾斜を利用して張り巡らすというやり方。埋め立ててしまうと水路を確保出来ない。したがって海水面より下になってしまう場合がある。洪水とか津波などで塩水が入ってくることがある。したがって田圃としてはあまり良田とはいえない感じ、でもここの石高は1000石。そして神奈川湊を使って大消費地江戸にお米を運ぶには便利なところ。

その後元禄の地震、津波によって大きな被害を被る。ここで住んでいた世帯の9割が全壊。その後宝永の富士山の噴火による火山灰の降灰によって大岡川が埋まってしまう。この被害に長い長い年月をかけて復旧、復興する。(17年位かかった)新田の高い堤は5.4m、それ以上の津波が来たようだ。東京湾側の石垣が1km以上にわたって崩壊。当然液状化現象によって家の全壊。

大岡川をメンテナンスをするために近隣の村々と共同で組合を設立して、川にたまる土砂などを取る作業とか?州になってしまったところを再掘削するとか?人工的に作った川であるが故にいろいろとメンテナンスが必要。そして時に大自然の大雨、洪水、海の逆流などの対策を行いながらの運営を行ってきている。

その後大岡川の堆積物で土砂がたまったところを利用して横浜新田(現中華街)の開発、中村川、大岡川の水路変更、横浜開港直前の太田屋新田の開発と吉田新田の歴史を詳しく説明している。吉田新田については殆ど知らなかった。でもこの本でかなり詳しく判った。実家のすぐ近くの摂津国能勢郡(大阪府能勢町)出身の吉田勘兵衛良信にもちょっと興味を持った。やっぱり「よそ者、馬鹿者、若者」が横浜を変えたのですね。本年(2017)は、吉田新田が完成した寛文7年(1667)から、350周年にあたる。

吉田新田、横浜新田、太田屋新田が田圃としてではなく、幕府の開港に向けた選択肢として、「江戸、神奈川湊には外国人を入れたくない。」神奈川湊といえばいえなくもない、横浜の地を選ぶことができたのもこの新田の果たした役割が大きかったのでは?干拓で開拓した田畑を埋め立てて関内、関外として発展していった。そこには広大な土地があった。横浜が明治維新から急速に発展することが出来たバックボーンに位置づけられる。横浜の歴史を考えるとき忘れてはいけない吉田新田を覚えておきたい。関東大震災で横浜が壊滅的に破壊されたとき吉田家の膨大な古文書、資料類が焼かれてしまった。そしてその関東大震災の後吉田勘兵衛良信に従五位が追贈されている。その準備のために吉田家、関係者が吉田新田の歴史などを調査した資料類は残っていた。本書もその資料などもかなり参考にしてある。一般向きでは無いけれど、よくわかるよくまとまった本です。

序 章 近代都市横浜の前史として
第1章 吉田勘兵衛の事跡と顕彰
第1節 吉田家文書と吉田勘兵衛の顕彰活動
第2節 吉田勘兵衛の生涯と事跡
   −「贈従五位吉田勘兵衛翁事跡」を中心に−
第2章 「開発前図」と「開発図」
第1節 「開発前図」を読む −新田開発以前の入海と沿岸の村々−
第2節 「開発図」を読む −吉田新田の構造−
第3章 吉田新田の開発と経営
第1節 開発資金の調達 −「惣中間」の人々−
第2節 耕作の開始と農民の移住
第3節 耕地の分割と吉田新田の「完成」
第4節 吉田勘兵衛による耕地集積
第5節 吉田家による新田経営
第4章 一八世紀〜一九世紀半ばの新田開発
第1節 元禄一六年の地震・津波と宝永四年砂降りの被害
第2節 池上幸豊による開発計画と横浜新田
第3節 太田屋新田の開発
終 章 横浜開港と吉田新田開発の意義

館報「開港のひろば」第132号 横浜開港資料館
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/132/02.html

 開港五十年記念 横浜成功名誉鑑  mikan  2017年3月18日(土) 19:57
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開港五十年記念 横浜成功名誉鑑
横浜市立図書館デジタルアーカイブ 都市横浜の記憶
http://www.lib.city.yokohama.lg.jp/Archive/DTRP0320?SHIRYO_ID=2235

八勝(多宅晴嵐 橋場夜雨 堀内暮雪 青龍晩鐘 石川秋月 横浜帰帆 蒔田落雁 新田夕照)を調べていたら「開港五十年記念 横浜成功名誉鑑」という本を見つけました。明治43年7月7日発行。横濱商況新報社 約1000ページ。この本をPDFでダウンロード出来ます。明治時代の著名人、成功した人などを詳しく掲載しています。また名勝古跡、横濱八景、花ごよみ、花街なども

 江戸後期 武蔵・相模国 村名マップ  mikan  2017年2月25日(土) 16:43
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江戸後期 武蔵・相模国 村名マップ
http://pasopia.velvet.jp/nota2/nota/?20170225163501

武蔵・相模の国の歴史の定番「新編武蔵風土記稿」「新編相模国風土記稿」という本があります。江戸後期に作成された。各図書館にも置いてあると思います。地元(武蔵・相模)の歴史を調べようとすると必ず行き当たる書物です。国立国会図書館デジタルコレクションに収録されていて誰でも見ること、PDFで出力することが出来るライブラリーになっています。ところが該当箇所を探すにはまず、目次を探して巻を探すという手間が結構大変です。この「江戸後期 武蔵・相模国 村名マップ」はこのマップにある江戸後期の村名をクリックするとタブが開いて「新編武蔵風土記稿」の該当のページに飛んでくれるようになっています。なかなかの力作です。時々利用させてもらっています。便利です。「新編武蔵風土記稿」「新編相模国風土記稿」は古文書が読めなくても読める形態になっています。

新編武蔵風土記稿・新編相模国風土記稿(国立国会図書館デジタルコレクション)
新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)とは、文化・文政期(1804年から1829年、化政文化の時期)に編まれた武蔵国の地誌。
新編相模国風土記稿は江戸時代に編纂された相模国の地誌。大学頭林述斎(林衡)の建議に基づいて昌平坂学問所地理局が編纂に携わる。天保12年(1841年)成立、全126巻。刊本は『大日本地誌大系』に収録されている。

江戸後期 武蔵・相模国 村名マップ
http://fudoki.midoriit.com/

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