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このコーナーは、皆さんが作っていくコーナーです。「つづきの歴史」に関係することなら何でも結構。

 関東大震災復興之碑  mikan  2018年3月12日(月) 19:44
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関東大震災復興之碑
http://www.city-yokohama-tsuzuki.net/tks/nota/tsuzuki/?20180312194618

佐江戸杉山神社に関東大震災に関する復興の碑があります。
都筑区では関東大震災に関する碑はここが唯一だと思われます。
関東大震災によって杉山神社が崩壊してしまったため、資金を
出して復興したことが書かれています。無量寺の入り口横の杉
山神社の鳥居の下にこの碑は建っています。

震災復興之碑

大正十二年九月一日関東之地大震神奈川県特極
惨激佐江戸里杉山神社大潰里民之選委員蒐資材
與倶協力先修本殿次及屋磴華表末社置狻猊設
蔵幟場十五年三月起工十二月竣功費弐千九百圓
餘欲建碑傳後請予記之抑本社係明治十六年改築
古来里民之所尊敬不措也今也廟猊一新神徳加崇
自今以後祥風瑞雨五穀豊穣神恵永及里民也必疾
豈可為里民大喜乎哉遂揮禿筆以記之

大正十五年十二月   鶴城小櫃守衛撰
           矗堂長崎栄敬書


関東大震災の跡と痕を訪ねて
http://u0u1.net/J1s6

 極楽寺の歩み  mikan  2018年2月2日(金) 23:00
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書名:極楽寺の歩み
著者:飯田 照蔵
発行所:願弘山蓮華院極楽寺(酒井杲胤) 
発行年月日:1982/8/8
ページ:208頁
定価:非売品

横浜市緑区西八朔町にある真言宗豊山派寺院極楽寺の歴史書です。真言宗というのは空海の宗派で、高野山、東寺などが主な本山寺院ですが、豊山(ぶさん)派というのは長谷寺(奈良・桜井市)を本山とする派です。横浜市北部にも真言宗豊山派の寺院は多くあります。王禅寺も慈眼寺なども。

極楽寺山門極楽寺山門、極楽寺本堂極楽寺本堂、極楽寺鐘楼極楽寺鐘楼の修復の過程などがまとめてあります。また落成法要の記念に2泊3日の本山へお礼参拝、京都・奈良の旅行の様子(これが一番詳しく名文)が書かれています。一度訪れてみたいお寺です。

仏教で言うと真言宗、禅宗など宗派が違う、しかし大本はお釈迦様ですね。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教も実は宗派の違いだけで大本は同じ、でもさも違ったように思い込んでいるけれど真言宗、禅宗の差程度の違いですね。
真言宗豊山派寺院の極楽寺は、顯弘山蓮花院と号します。極楽寺の創建年代等は不詳ながら、元海(天文2年1533年寂)が中興、慶安年間(1648-1651)には杉山神社領として5石6斗の御朱印状を拝領したといいます。

極楽寺
極楽寺の概要 山号 顯弘山
院号 蓮花院
寺号 極楽寺
住所 横浜市緑区西八朔町175
宗派 真言宗豊山派
極楽寺山門極楽寺山門
極楽寺本堂極楽寺本堂
極楽寺鐘楼極楽寺鐘楼

極楽寺の縁起
極楽寺の創建年代等は不詳ながら、元海(天文2年1533年寂)が中興、慶安年間(1648-1651)には杉山神社領として5石6斗の御朱印状を拝領したといいます。
新編武蔵風土記稿による極楽寺の縁起

(西八朔村杉山社)別當極楽寺
新義真言宗、王禅寺村王禅寺末、顯弘山蓮花院と號す、中興開山元海天文二年に寂す、客殿九間に七間南向なり、本尊大日は坐像にて、長一尺許、慶安年中社領の御朱印を賜ふ、其文左にのす。
武蔵國都筑郡西八朔村、極楽寺杉山明神社領同村之内五石六斗事、任先規寄附之訖、全可収納、幵境内山林竹木諸役等、免除如有相違者也。
慶安二年八月廿四日御朱印(新編武蔵風土記稿より)

国立国会図書館デジタルコレクション - 新編武蔵風土記稿
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763987/39

極楽寺。横浜市緑区西八朔町にある真言宗豊山派寺院
http://tesshow.jp/yokohama/midori/temple_whassak_gokrak.html


 川和の歴史  mikan  2018年1月27日(土) 11:01
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書名:川和の歴史
著者:横浜市立川和中学校 
発行所:横浜市立川和中学校
発行年月日:1983/2/26
ページ:165頁
定価:非売品

1980年創設の川和中学校が3周年を記念して、1983年「川和の歴史」を発行した。この地域は港北ニュータウンの計画、実行が間近に迫っていたため、過去の歴史の大切を知らせる意味でも、重要なことであった。川和富士も旧場所から、新しい場所へ。花見山遺跡も発掘されたばかりで成果が見えてきた頃、都筑の郡衙はまだ位置が確定していない時代。時代の変遷と共に川和の歴史が書かれている。また古文書の釈文などが多用されていて、中学生には難しい内容になっている。でも信田家文書、城所家文書、横溝家文書、岩沢家文書など引用している。特に信田家の「幽篂日記」(幕末から明治の初めまで)は当時の生活の様子がよくわかる。また川和は増上寺領であったから増上寺とのやり取りの古文書がたくさん残っている。

ちょっと以外に思ったのは川和富士信仰、比較的新しくて明治になってからの事。幕末に川和富士を作る話が出て明治20年代までかけて塚を築いたとのこと。(旧川和富士:今より400m程離れたところ)江戸時代の富士山信仰の頃だとばかり思っていた。港北ニュータウンの開発と共に新しい発見が続々と出てきている。歴史に興味を持つきっかけになる本です。

1977年9月に川和高校の東側で花見山遺跡が発見され、1300点もの遺物が見つかった。これにより1万年以上前から人々が生活していたことが判明した。

中世は武蔵国都筑郡の川和郷であった。戦国期にこの地を所領したのは北条綱成であるとされる。記録には、農民が借米をめぐって訴え、最終的には後北条氏の評定衆が借米の催促を命じたとある。後北条氏はこの地に勢力を伸ばすと、小田原城を守り関東進出の拠点とするため、廃城と化していた小机城(今の港北区小机町)を修復。この城の支城として鶴見川沿いに川和城が整備された。川の合流する川和は交通において重要な地であった。

江戸時代になると都筑郡の川和村(川輪村)となった。土地は増上寺領。家数は133軒という記録がある。後期には神奈川宿の助郷村(人馬を提供する助郷を負担する村)となる。

明治になると、1879年都筑郡役所が下川井から川和に移転して置かれ、以後は周辺地域の政治経済の中心地として栄えた。

川和の由来は武蔵七党の猪俣党の河匂氏から来ているのか?河匂・川匂・川輪・川和など。河匂氏の出身地といわれているところは中郡二宮町川匂神社付近、久良岐郡河匂郡の2カ所です。

旧川和町の沿革
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、川和村、佐江戸村、池辺村、東方村、折本村、大熊村、川向村および本郷村の一部が合併して都田村が発足。
1934年(昭和9年)4月1日 - 都田村が改称して川和村となる。
1935年(昭和10年)9月30日 - 川和村が町制施行して川和町となる。
1939年(昭和14年)4月1日 - 横浜市に編入。
10月1日 - 旧川和町域が港北区の一部となる。
1994年(平成6年)11月6日 - 港北区の再編により、旧川和町域が都筑区の一部となる。

都田の由来は、都筑郡の「都」と田園地帯であったことから「田」を採ったものである。
本来は「都筑村」を名乗る予定であったが、下川井村等の合併村も「都筑村」を名乗るべく準備していたため、村名を巡る争いになった。結局丘陵地帯であった方が都岡村(「都筑の岡」の意。現在の横浜市旭区)、田園地帯であった方が都田村を名乗ることで収拾した経緯がある。大字川和の当時の人口630人。乳牛や養豚が盛んで、大正時代には川向のモモなどの栽培も盛んに行われた。

 江戸時代の貨幣価値と物価表  mikan  2017年10月24日(火) 15:02
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江戸時代の金額や数値に変換
http://www.teiocollection.com/kansan.htm
江戸時代の貨幣価値と物価表
http://www.teiocollection.com/kakaku.htm

 都筑郡の医師名簿(1921年)  mikan  2017年9月19日(火) 23:41
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都筑郡の医師名簿(1921年)大正10年

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